柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

無策

2019-04-07 09:58:49 | Weblog
イチローが三度目の国民栄誉賞授賞を拒否したのだそうです。うむ、らしいといえばらしい。のですが、ここまで頑なになるかなとおかしな奴感も増幅されます。松井が受けたのは長嶋と抱き合わせだったからです、断れぬ環境だったでしょう、これは政府の交渉勝ち。イチローはそれに(松井に、こういう政府のやり方に)反発しているのやもしれませんね。ま、他人の思いは推測するしかないのですが、らしいと言えばイチローらしい。二度目の時は「現役引退する時に」が言い訳でした、今次は「人生の幕を降ろした時に」だそうで。殉職した公務員の死後昇格のように、ですか。やはりおかしな奴ですな。
 今朝のサンモニ、阿呆副大臣の忖度発言は連中には格好の餌食で、ここぞとばかりに大非難です。どうぞご存分にと聞いているのですが、連中の言い分はいつもの通りです、永田町霞が関には未だに忖度政治がはびこっている!。こういうときにいつも比較対象に出されるのが昭和の金権派閥政治ですが、もちろんそれが巨悪の根源だったという前提です、でもあの頃はあれで秩序だったわけですね。田中角栄をあれだけ懐かしむ昨今の風潮は個人の資質への再評価だけではなく、ああいう親分子分の政治(つまり決められる政治、陣笠政治)への懐古、少数の反対意見を前にいちいち立ち往生するような現在の決められぬ政治への苛立ちでもあるでしょうし。権力者への忖度政治が続く間は現場の声や実情に沿った正しい政治行政が為されないという、なんとも青臭い、中学生でも言いそうな正義を振り回すのでした。おいおい。他の一人は、政治はグレーゾーンをどう解決するかが仕事なのだ、白黒はっきりしていることなどほとんどないのだ、と至極真っ当なことを言うてこっちがびっくりしましたが、だから誰かが決めねばならぬ、そのために政治家がいて決定権者がいる、それでいいじゃないかと私はTVのこちらで突っ込んでました。で、解説が続きました、大衆と民衆とは違うと。民衆とは意思のあるmassだ。大衆とは無形でイメージ的な存在だと。ポピュリズムとは大衆迎合と訳されるが、その実は大衆煽動だと。有権者に向けてのあの忖度発言への批判でしたが、あれは単純に阿呆によるまぬけな自慢話の類であって、大衆が云々なんて大きな話じゃないです。忖度という単語に過剰に反応して大叩きしているわけですが、政治ってのは忖度でしょうにね。物事を決めていくに誰彼の意見を聞いて判断する、それが民主主義なんでしょう?忖度ってのは何も間違った手段じゃないですよ。それを、自分たちの意見を聞いてもらえないことを僻むばかりの野党連中なわけです。多数決が気に入らぬのならそういう方向で議会を変えていけばいいと思いますが、そんなことはつゆ考えない。つまり少数派にいて反対のための反対していればいい立場、揚げ足取りしていればいい立場が安穏なのでしょう。枝野さんや玉木、森,辻元、福島各氏観ているとがっかりするばかりで。改憲はどうなったんですか、当県のイージスアショアの建設計画は地元の猛反発喰らってますよ、今の世界のリーダー達の中での安倍さんの存在価値の大きさは素人にもわかることですがだからと言って今後どうなるんです?未だにモリカケで足引っ張ろうとしている連中の無策、無見識、無定見です。どっちが悪いんです?どっちもですけれど。
コメント
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