柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

錯覚

2012-02-06 08:20:40 | Weblog
昨日長々と書きました、つまりあのダラダラさやくどさが文才の無さそのものであり、頭の中がきちんと整理し切れてないことの証明なのですが、今朝の産経新聞に石原慎太郎がズバッと書いてました。非常に悔しいのですが引用します、こう言いたかったのでした。「放射線の恐怖というセンチメントに発している危うさ、それに駆られて文明を支えている要因である原発を否定してしまうのは軽率を越えて危険な話である。かつての原爆体験を背に原子力そのものを否定することがさながらある種の理念を実現するようなセンチメンタルな錯覚は結果としておのれの首を絞めることにもなりかねない」。危険ばかりを煽りたてて、じゃぁ今日の暮らしをどうするんだということに言及しない。危険はどんな安全策の隣にも存在することです、それを呑みこんで進んできたのであるし、今後も進むばかりなのです。大国の核実験も今次の事故も放射線が降って来るという点では同じことです。前者を不問に付すのは何故ですか。後者ばかりにヒステリックに叫ぶのは何故ですか。安全原理主義とか脱原発原理主義なんて言い方をよくします、とにかく100%の安全だけが目的、原発なくすことだけが目的、そうなったらどうなるかを一切考慮しない勝手な考え方です。ぞこをセンチメンタルな錯覚と表現しているわけで、さすがに作家と思うわけです。口惜しい。安全にすればいいじゃないか。(危険が)ゼロに過ぎる状態はないだろう?誰も強く反論できぬ大正論を盾にしているだけの感情論ですね。対論も何もないことで。放射線をあちこちで測るのは今後に生きるデータとしてまこと重要なものと思います、それこそ行政では届かない細かなデータが採れるでしょう。でもそれで危険を煽っちゃダメでしょう、これくらいだから大丈夫でしょうと言うべきですよね。そう思うわけです。しつこいことですみませんでした。
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