柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

好日

2012-01-02 06:01:10 | Weblog
当地の元日は雨模様でした。それほどに寒くない正月です。今年もしっかり生きていかねばなりません。一日一生。日々是好日。なかなかこの境地を実感体感できませんが、やらねばならぬこと、やるべきことを然るべく為す。凡人にはこれしかないことです。日々新たなり、なのでしょうがその実は悠久なる繰り返し。昨日そうだったように今日もする、そして明日もそうする。こう諦める。空気を吸い呼くが如く、心臓が休まず脈を打ち続けるが如く、意識に登らぬ繰り返しの中にいる。こうやって社会の基盤が造られてその上に個人の生活が載る。個人の自由はそういう仕組みがあればこそのものだと知ります。個人の権利や自由が社会生活(社会規範)の前にある、天賦のものとしてある、なんてのは戯言と知ります。安全な社会があればこその個人の自由です。そういう社会を支えるための各人の日々の暮らしであるわけです。そういう順番を秩序をきっと違えてはならぬのです。ここを逆にするからおかしなことになるのです。個人の自由の為に個人は社会の為に働く。自由を確保する目的で、そのために安全な社会を保つために、社会を機能させるべく毎日働く。こうです。個人の権利が保障されて、個人の好き嫌い(自由)が保障されてから社会が出来上がるのではないですね。そういう社会があって初めて個人の権利なり自由なんでしょう?誰かが安全を保障してくれる、やりたくないことをやらなくても誰かが(社会が、国が)保障してくれる、否、おまえが安全を守れ、生活を保障しろと命じておきながら自分は好き勝手やってる言ってるのが左翼さん達です。順番を逆にするとこんな無茶になるのです。こういうことには気づいています。個人の権利が社会を潰して行くことには気づいています。民主主義の成熟は民意という「絶対」を祭り上げて全体主義に移行する。戦前の天皇、今の民意。息の詰まる閉塞感。自由を声高に叫べば叫ぶほど自由が狭められていく現実。自由なるものの来し方を振り返れば人の性に辿りつくということでしょう。最後はこうなる。何故ならそれが人の考えることだから。専制差別貧困からの解放だった「自由」が新たな差別を呼び専制を許す。公平平等などとはどこまで行っても概念上のことなのです、誰もそんなことは思っていないのです、人は誰も自分より上位の者を妬み敵視し、下位の者を探し出し蔑み自己保存する。これが人の性です。この野卑な暴力気質を隠し、形式だけでも安全な社会を作りましょうという虚構が民主主義なのでしょうか。とまれ、この社会で生きていくしかありません。そしてわが寿命。お灯明の消えるまでという言い方が何故かしら今の気分にぴったり来ます。死ぬまでは生きているんだ。命は大事に使えば死ぬまで続く。こんな与太話が沁みています。
コメント
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