memories on the sea 海の記録

海、船、港、魚、人々、食・・・などなんでもありを前提に、想い出すこと思いつくこと自由に載せます。

スーダンに拿捕されたエジプト漁民の釈放を促す   エジプト大統領

2015-07-05 00:09:06 | 海事

スーダンに拿捕されたエジプト漁民の釈放を促す   エジプト大統領

4月初旬に108人のエジプト漁民が3隻の漁船でエリトリアに向かったが、彼らはスーダンのPort Sudan港沖合いでスーダン了解に侵入したとして拿捕された。そのうちの未成年者6人と老人1人の計7人はその後釈放された(6月19日SUDAN TRIBUNE)

スーダンの裁判所はそのうちの29人については一人当たり5000スーダンポンドの罰金を命じ、支払いできぬときは2年間の懲役とした。その他の者のについてはスーダンい拘置されその運命はいまだ決まってはいない。

2012年9月スーダン軍部が数十人のエジプト漁民をエジプトに捕らえられていた112人のスーダン人鉱山労働者との交換条件で釈放したという。彼らは金鉱脈を求めエジプト側に侵入したもの。SRFAの議長Ali al-Gunaidiはその際には,外交度量とは別に大統領による介入があったという。

一方、24人のスーダン人採鉱業者らは金脈を探して知らず農地に国境を越えたものであるがかれは依然Almenia Al-Gadida, Aswan および Al-Wadi Al-Jadidに拘置されているという。彼らの家族によれば砂漠で死んだ仲間を探していて道に迷ったものだという。

 


難民や移民に対する救助指針

2015-07-05 00:07:59 | 海事

救助指針の改訂版が発行された。この会は6ヶ国語で刊行され、関連法規の規定、救助された人々の迅速な上陸の手順など手順が載っている(6月15日SNT)

また、彼らの必要とする特別な対応とくに難民や亡命希望者の場合についての案内がされている。 このガイドブックはIMO(国際海事機関)

 (IMO), 国際海運会議所(ICS), 国連難民事務所(UNHCR)の協力により編まれたもの。「このガイドは海上での非常時に救助される人々に関連する法的枠ぐみを決めたもので非常に重要である」とIMO総長のKoji Sekimizuはいう。
 
「我々のSOLASおよびUNCLOSに鎮座している崇高な伝統である捜索と救難活動が実行さながら、我々のシステムが数百数千人の人々を予測して組み立てられたものでないことも理解して欲しい。われわれとしては耐航性のないボートが海事通商路に流入することを防止剃ることが必要であり、彼らの救助も必要である」とMr. Sekimizu はいう。 
 
この指針は船長、船舶運航者、政府などが利用することを目的にしている。印刷物は加盟諸国の商船や漁船に配布されるがオンラインでもダウンロードすることが出来る。

 


海を恐れるレバノンの街Tyre   (3)

2015-07-05 00:07:14 | 海事

Hassan Tahhanは部屋に入ると両方の首に残る銃弾の傷跡をみせた。攻撃が始まったとき彼はf Rashdiyyehの2km沖で漁をしていた。ここはTyreの南にあたる。(現在は疎開願意ねパレスチナ人キャンプがある)攻撃が始まったとき夜は明け始めていたが、何処からとも無くひゅうひゅうという銃弾の音がしてそれが耐えがたい痛みにかわった。

彼は三角筋を撃たれ辛くも死を逃れた。 彼の仲間が必死に港に戻り、彼はベイルートのアメリカ大学病に運ばれた。「それが自分の最悪のイスラエル人との遭遇だったとTahhanはいう。

Tahaの場合,彼自身いくつかの物語がある。そのなかのひとつに何年も前に彼の父祖によって彼が海上ルートを横切らねばならないことがあった。19歳のとき乳とともにAsmiehから漁に出るとイスラエルのボートが近づいてきた。2人とも裸になり海に飛び込めといわれた。デインギーを捜索した後イスラエルは父と息子を軍のクルーザーに乗せた。手錠をかけられ毛布がかぶされた。そしてHaifaまで5時間をかけてつれてゆかれイスラエルの監獄に入れられ尋問と拷問を48時間受けた。

レバノンと歴史的なパレスチナの間の水域は”黄金の海岸”として知られていた。魚は沢山いた、地中海の何処よりもその品質は良かった。「もしトリポリ(レバノンの)で漁をしていたなら、漁獲物はベイルートにつくころには腐ってしまうが、もしここで漁をしたならベイルートに新鮮なまま届く」とTyre死長の Hassan Dheinはいう。

占領の時期にあってもおよそ400人の漁師がTyreにいた理由がここにある。また何引火のTyreの地元民がパレスチナ北部水域まで違法に入り漁をしていたが、それは1960年まで続いた。az-Zeebに投錨していたがそこは初期の水域である。イスラエルが1948年伊建国される前は多くのTyreの漁民が英帝国の事務所でパレスチナ入域の許可を取った。今ではNaqoura の沖はイスラエルは不在であい歴史的パレスチナとの間にはの金属製のボールが設けられ国境となっている。2000年オイスラエル軍撤退では漁民の事件がなかったわけではない。

2005年,16歳の漁民Mohamad Farranがゆくえ不明となった。イスラエルはその後銃弾だらけの彼を桟橋に戻した。レバノン政府はFarranの誘拐についてイスラエルを非難した。イスラエルはその責任は無いと回答し、彼のボートが血塗られたままでイスラエルの海岸にあったのだと主張。Tyreの港では Farranのこの話が漁民の脳裏からから離れない(以下省略)