ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

この本はなかなか面白そうだ(「あしたのジョー」の主人公のモデルとなったと推定される人物についての本)

2022-03-18 00:00:00 | 書評ほか書籍関係

過日こんな記事を読みました。

『あしたのジョー』矢吹丈のモデルは誰だったのか? 作者が語った「あったかもしれない」ボクサーの正体は…
『「ジョー」のモデルと呼ばれた男 天才ボクサー・青木勝利の生涯』より #2

青木勝利氏は、1942年生まれのプロボクサーです。記事の筆者(下の本の著者)

「ジョー」のモデルと呼ばれた男~天才ボクサー・青木勝利の生涯~

である葛城明彦氏は、

> さて、肝心の「ジョー」のモデルであるが、これまでには青木勝利のほかに、「ノーガード戦法」の斎藤清作、金平会長と二人三脚で世界への道を歩んだ海老原博幸、クロスカウンターの名手・小林弘などが噂に上っている。

 しかし筆者は、「直接のモデルとなった人物」ということであれば青木勝利以外にはない、と考えている。その経歴をまとめてみると、あまりにも一致する点が多いからである。

としたうえで、そう考える論拠を次のように書いています。

> まず、「ジョー」であるが、その経歴を簡単にまとめれば次のようになる。

「非行少年で、警察に逮捕されかけると大暴れし、少年院送りとなる。入院時には“歓迎リンチ”に遭うが、逆に持ち前の腕力で制圧。また、そこではボクシングと出会い、夢中になる。院内ではボクシング試合を行うが、負け知らず。退院後は、出来たての丹下ジムに所属し、近所の商店に勤めながらプロボクサーとしてデビュー。以後はバンタム級選手として活躍。強打でKOの山を築き、連勝街道を驀進するが、ライバル・力石徹には痛烈なKO負けを喫する。しかし、やがてはそこからも立ち直り、東洋バンタム級タイトルを獲得。一方、その頃からは次第に体がドランカー症状に蝕まれ始める。世界バンタム級タイトル戦では、名王者ホセ・メンドーサに敗れ、結局悲願は果たせずに終わる」

 これに対し、青木勝利はこうなる。

「非行少年で、警察に逮捕されかけると大暴れし、少年院送りとなる。入院時には“歓迎リンチ”に遭うが、逆に持ち前の腕力で制圧。また、そこではボクシングと出会い、夢中になる。院内では(枕を使った)ボクシング試合を行うが、負け知らず。退院後は、出来たての三鷹ジムに所属し、近所の商店に勤めながらプロボクサーとしてデビュー。以後は(主に)バンタム級選手として活躍。強打でKOの山を築き、連勝街道を驀進するが、ライバル・海老原博幸には痛烈なKO負けを喫する。しかし、やがてはそこからも立ち直り、東洋バンタム級タイトルを獲得。一方、その頃からは次第に体が(アルコールを含む)ドランカー症状に蝕まれ始める。世界バンタム級タイトル戦では、名王者エデル・ジョフレに敗れ、結局悲願は果たせずに終わる」

 これは単に「似ている」というより、「酷似」といってもよいのではないか

なお上の引用にある「斎藤清作」氏とは、のちにコメディアンになったたこ八郎氏のことです。彼は、フライ級の日本チャンピオンでした。Wikipediaから引用すれば、

>映画『幸福の黄色いハンカチ』に端役で出演した際には、高倉健との喧嘩シーンで切れのある動きを見せ、かつての片鱗を見せた。共演した武田鉄矢はラジオで「撮影の合間に数人のチンピラに絡まれたことがあるが、たこさんがヌーッと出てきてフッと動いた次の瞬間、チンピラ全員が地面に倒れていた」というエピソードを披露したことがある。

というわけです。当たり前ですが、素人さんのかなう相手ではありません。

ともかく、葛城氏のご指摘にもあるように、これで矢吹丈のモデルが青木氏でなければ嘘というものでしょう。またこれも指摘されているように、原作者の高森朝雄(梶原一騎)も、少年院上がりでした。ただ当時は、早稲田大学卒を称したりとそういった過去は封印していましたが。

さてマンガでは、主人公はチャンピオンになれずに終わりますが、現実の青木氏も世界チャンピオンにはなれませんでした。1963年4月にエデル・ジョフレに3回KO負けを喫し、その後東洋王座を陥落するもリターンマッチで勝利、防衛もした後第二の天王山のファイティング原田との戦いで敗れてしまいます(1964年4月)。この後ももうしばらく現役を続けますが、けっきょく引退、その後は、Wikipediaから引用しますと、

>引退後は、日雇い業務や飲食店の手伝いなどで暮らしていた。その一方、頻繁に刑事事件を起こして報道された。一時期は稲城長沼でトンカツ屋を経営していたが、そこでも傷害事件を起こして続けられなくなった。1973年1月13日、小平市にある実家で包丁で首を切って自殺を図ったが、未遂に終わった。1981年の時点で、暴行・窃盗・器物損壊・詐欺(無銭飲食や無賃乗車)・覚醒剤所持で前科7犯、逮捕歴20回に及び、一時期は府中刑務所で服役していた。

1984年2月、かつて青木が福岡県の個人的な後援者の世話になっていた時、およびその数カ月後に東京でアルコール依存症の治療のために入院していた時に、山際淳司によって行われた取材の様子が週刊文春に掲載された。1986年8月21日放送のテレビ番組「中村敦夫の地球発22時」の特集「ロッキーになれなかった男たち」において、伊豆大島在住の青木の弟、及びその弟の仲介により善福寺公園で青木本人へ中村敦夫が取材した様子が放映された。その際、青木は「無銭飲食の件は、食事に誘われたのに、いつの間にか誰もいなくなっただけ」と主張している。

その後の消息は不明である。1996年、マガジンハウス書籍編集部は青木の行方を追ったが、ついに見つからなかった。渡嘉敷ボクシングジムは2006年の時点でブログに「故・青木勝利氏」と書いている。

という始末です(注釈の番号は削除。下の引用も同じ)。引用はしませんが、「逸話」というのもなかなかすごいので、興味のある方は乞うご確認。

またまた例によって私の憶測を書いてしまいますと、青木氏はおそらくなんらかの発達障害、あるいは精神障害のたぐいがあったのでしょうね。めったなことはいえませんが、その可能性は非常に高いと思います。最後の消息が86年で、その10年後にはもはや連絡がつかなかった。2022年現在で、もし御存命ならこの記事執筆時点で79歳ですか。私も86年の際の青木氏の映像を見ましたところ、彼がそれから36年たってまだ生きているようにはちょっと思えませんでした。

時代が違うので、青木氏のような人物がそうそうこれから世に出てくるとは思えませんが、まさに「破滅型」とはこのことだというくらいの人物だったといって過言でないでしょう。彼が語る

>自身がボクシングで成功しなかったのは、酒のせいではなく運がなかったからと振り返っている。一方で、ジョフレ戦に勝ったらその後どうなったかという問いには、何も変わらなかっただろうと述べている

という(上にリンクした「逸話」より)のは、前半はともかく、後半は正鵠を得ていないか。たしかに彼は金遣いも相当に荒かったようですので、チャンピオンになったところでボクシングジムを経営するとか実業界で活躍する、ボクシングの世界で幹部や有力者になるといった可能性は低かったでしょう。たぶんボクシング界もマスコミも、手に負えないということになったのではないか。そう考えるとプロボクサーというのは、まさに彼の能力を最高に発揮できる職業であったと同時に、彼を奈落の底に突き落としたものでもあったのでしょう。けっきょく彼は、どのみちアウトローのような人生を送る運命にあったのかもしれません。

本を読んでみて面白かったら記事にします。そうでなかったらしませんので、そのあたりは乞うご容赦。

コメント
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