ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

緊急事態の際の迅速な避難の重要性を考え、またその困難さをも考える(3月12日19時15分ごろ更新)

2022-03-14 00:00:00 | 東日本大震災他災害関係

震災と同じ日ではありませんが、「東日本大震災 2011」のカテゴリーの記事を書きます。あらためて、タイトルの件について考えさせられる記事を読んだので。

まず最初に。「日刊スポーツ」の記事です。

>津波で亡くなった三男は誘い断り母の帰りを待っていた…11年目のお盆に知らされた本当の最後
[2022年3月11日5時1分]

<忘れない3・11 あれから11年(10)>

100人以上が犠牲になった石巻市長面地区で三男泰寛さん(当時17)を津波で亡くした三條すみゑさん(63)が、一瞬にして消え去った地元の風景や、息子が生きた証しを語り継いでいる。昨夏、息子が津波にのまれた状況が新たに判明。避難中に被害に遭ったと思われていたが、自宅で母の帰りを待っていたことを知った。

   ◇   ◇   ◇

「おかん、映画見ておいで」。高校の卒業式を終えたばかりの泰寛さんは、自動車学校の帰りに迎えに来るはずだった母にそう告げ、自らはバスで帰宅した。

「忘れもしません」。三條さんは悔しそうに振り返る。大地震後、唯一通じたメール。午後3時過ぎ「ガスの元栓は閉めた」というメッセージを最後に、連絡が取れなくなった。

津波で陸地が水没するほどの大被害を受けた長面に、その日は到達することができなかった。13日、父経三郎さん(70)がやっとの思いで現地に赴くと、寺に並べてあった遺体に、息子を発見した。「3月13日、父が三男泰寛発見」と書いたガムテープを亡骸の腕に巻き付け、その場を後にするしかなかった。

300人ほどが身を寄せた避難所の体育館。「子どもが助かった地域と、助からなかった地域の住民が入り交じっていた」。その環境下もあって息子の死を聞いてもすぐには泣けない。三條さんは消灯後、布団を被って「声を殺して泣きました」。

震災から11年目となった昨夏、お盆で実家に戻っていた長男智寛さん(35)が新事実を口にした。当時、泰寛さんが隣人からの避難の誘いを断り「家の片付けをしてから出る」と話していたという。

母の心情を察し、あえて隠してきたが10年の節目を越え「おっかあが帰ってくるのを待っていたんじゃないか」と家族で話した。つらいが愛息の本当の最後を知れた。

自慢の息子だった。「バレーボール部だけど体操の内村航平選手に似ててね。166センチと小柄だったけどジャンプ力があって、バックアタックが得意だった」とうれしそうに語る。

取材した日も語り部活動をした。相手は高校生。どうしても息子の姿と重なる。あの日押し殺した涙が、今は自然とほおを伝った。【三須一紀】

いかがでしょうか。読んでいて、母親の方の悲痛な思いに胸が打たれますね。

状況からすると、たぶんですが、迅速に非難をしていれば、ご次男は助かっていた可能性が高いのではないか。母親の立場からすれば、そんなことにこだわって死ななくていい状況だったのに死んでしまったというのは、この女性に何ら落ち度のある話ではないが、彼女からすれば自分を責めるまさに痛恨の事態としかいいようがない。

以前このような記事を書きました。

このような場合どう判断し行動すべきか本当に難しい

その記事の中で私は、このようなことを書きました。

津波てんでんこの話にもあるように、津波とかの場合は、ともかく自分が助かることを第一に考えろとよく言われます。これは、家族などを助けようとして、それで死ななくてもいいあまたの命が失われたという過去の教訓からのものです。飛行機とか客船の事故の際、乗組員とかが率先して逃げるというのではお話になりませんが、ともかく自分の命最優先で一般の人間は逃げるしかありません。それはもう当然のことです。

というのはあくまで机上でPCにて文章を打っている時に考えられる話であり、現実にその場に直面したら、はたして人間どう行動するものか。私は、自分はそういう時は助けに行く人間でなく、助けに行こうとする人間を押しとどめる人間だと考えていますが(それで一生うらまれても仕方ないと思います)、もちろん現実にそのような事態になったとしてどう行動するかは分かりません。

ただ上の話ですと、たぶん津波の危険性を理解していれば、一目散に逃げだしていた可能性が高いのではと思います。実際のところはわかりませんが、おそらく逃げているのではないかと思います。ある意味即死とかちょっと避けるのが難しい事態ならまだ仕方ないとして、このケースは、本人しだいで助かることができたというものであり、身内の方々からすれば、残念にもほどがあるというものではないか。

ところで今度はこのようなケースはどうか。自分がその立場になったら、と考えると、本当に考えさせられます。

>津波迫る中、部屋から出てこなかった次男…元校長が不登校の子どもたちに「居場所」
2022/03/11 07:09

 津波が迫る中、ひきこもりだった次男は部屋から出て来なかった。最後まで避難を呼びかけた妻は波に消えた。岩手県陸前高田市の佐々木善仁さん(71)は東日本大震災で2人を失い、息子に向き合ってこなかったことを後悔し、2人の苦しみを知った。自宅を再建するはずだった場所を、ひきこもりや不登校の子どもたちの「居場所」にしようと決めた。(黒山幹太)

 災害公営住宅などが立つ陸前高田市の中心部。佐々木さんが、生きづらさを感じる人たちが集える施設を作ろうとしているのは約200平方メートルの所有地だ。「ひきこもりの子どもたちの心が晴れるような場がほしい」。妻・みき子さん(当時57歳)の願いだった。

 11年前まで住んでいた自宅跡はここから数百メートル。かさ上げ工事が行われ、今は土の下だ。家族4人の生活に異変が起きたのは、次男・ 仁也じんや さん(当時28歳)が中学2年の時。佐々木さんは教員で、2人の息子は幼い頃から転校が続いた。中学の部活動でテニスに打ち込んでいた仁也さんは転校を嫌がった。「もう学校に行かないからね」。部屋にひきこもるようになった。

 佐々木さんは管理職になったばかりで、早朝から深夜まで仕事に追われた。家庭はみき子さんに任せきり。「せめて退職後は子どもと向き合って」と言われていた。2011年3月、市内の小学校校長を務め終えれば、退職だった。「そろそろ息子と」と考えていた。

 17メートル超の津波が同市を襲った時、自身は小学校にいて無事だったが、海から約600メートルの自宅には、みき子さんと仁也さん、長男・陽一さん(41)がいた。みき子さんは一緒に避難するよう仁也さんを説得したが、自室にこもったままだった。津波が迫り、陽一さんと隣家の屋根に逃れた後、波にのまれた。別の家の屋根に移った陽一さんに「生きろ」と言葉を残した。佐々木さんが、みき子さんと仁也さんに再会したのは遺体安置所だった。

(後略)

個人的には、いくら引きこもりだって、そういう事態だったら逃げろよと思います。こういう場合、それは仕方ないから親は子どもを見捨てて逃げても私は非難するには値しないと考えますが、この件のように、子どもと一緒に死んでしまうということもたしかにあるのでしょう。親が「子どもと一緒に死んでも仕方ない」と考えたかどうかはともかく。そう考える人もいるし、何とか助けようと思っていたら間に合わずに死んでしまった人もいるでしょう。

この件は、子どもが精神に問題があって動かなかったというものですが、例えば重度身体障害者、あるいはALSほかの重病で動かすことが非常に困難な患者など、個人での移送が難しい人もいます。で、私の読んだ記事のURLを記録しなかったので、それをここに明記できませんが、重度の身体障害者の娘を持つ男性(すでにお年寄りです)が、津波のような事態が起きても、娘を置いて逃げることはするつもりはないという記事を最近読みました。同じようなことを考える人、特に親でしょうが、そういう人は多いでしょう。

個人的な意見を言うと、子どものほうは、親にそのような形で自分に寄り添うことを必ずしも希望しているわけではない場合が多いのではないかと考えますが、精神の問題があればそういう意思を持つ以前の可能性もあるし、生き死ににかかわることですと、そのような意志を表明していてもその通りになるかはわかりません。もちろんこれは、助けてくれと表明してそうならないということも常にあり得ます。

ただこの記事ではそのようなことは書いてありませんし、また佐々木さんもそのようなことは(当然)語っていませんが、当然ながらご次男へはそうとうな怒りがあるでしょうね。それは怒りを覚えて当然です。そういうことで怒りを覚えなかったら嘘というものでしょう。「仕方ない」と考えることはあっても、積極的には子どもをかばう気にはならないでしょう。恐らくですが、状況からみて仕方ないのだから、奥さんは早く非難してくれればよかったという想いもあるのではないか。 

こういう時、いろいろ自分なりの思考実験をしてみるといいかもしれません。私(あなた)は、上の2記事での次男、あるいは母親の立場だったら、どのように行動したか。あるいは、大川小学校の教諭だったら、あなたはどのように行動したか。私はどう行動したか。

あまりに事態が重大すぎて、滅多なことは言えませんが、大川小学校の対応は確かに非常によろしくないものでしたが、悪い偶然が重なるとこのようにきわめて悪い事態になりかねないということなのでしょう。大川小学校以外のところでは、ここまでひどい事態にはなっていないので特に大川小学校が悪かったのは確かでしょうが、まさにその時あなた(私)ならどう行動したかというのは、いろいろ考えるべきでしょう。

過日『ゲッベルスと私』という映画を観ました。ナチス・ドイツの宣伝相をしていたヨーゼフ・ゲッベルスの秘書をしていたという女性は、

>今思うに、私も卑怯者のひとりだったのです

という趣旨のことを述べて、大要「今の人たちはその状況になったら抵抗するというけど、とてもできない」という趣旨のことも語っていました。上の引用は、こちらより。なお引用した記事は、秘書だった女性が亡くなった際に書かれたものであり、この映画の日本上映に際してのものではありません。

もちろん国家権力の暴虐ぶりと地震が起きて津波が来そうな際の行動とではまた話は違いますが、どちらにせよ自分の考えであるべき方向を決めるということは共通しているでしょう。後者は、まさに時に瞬間の判断を必要とする。国家権力の暴虐なら、最悪地下に潜行するとか海外に亡命することもできなくはない。しかし後者は、その程度の選択肢もないのです。そういったことは常に考えておく必要があるでしょう。

最後に、引用した記事の方々ばかりでなく、お亡くなりになった被害者の方々のご冥福をお祈りします。

 

コメント (2)
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