お気楽ボランティア日記

楽しみながら、ボランティア   広がる、人の輪

ふらふら読書「へヴン」

2009年12月30日 | 映画・演劇・本
 嘔吐と下痢のダブルパンチが突然やってきた!

 息子のウイルスが移ったのかもしれない・・・う、う、う、苦しい!気分は最悪。

 そんな最中にもかかわらず、ベッドに横になりながら川上未映子の「へヴン」を読む。

 身体的に苦しいときに読んだせいか、筆舌に尽くしがたいいじめの場面では、ホントに気分が悪くなった。
 なんでここまでやられながら、学校に通い続けるんだろう?なぜ、誰にも打ち明けないんだろう?・・・いじめられっ子である主人公「僕」とコジマの行動が最初、私には理解できなかった。

 しかし、なんと言えばいいのか、川上未映子のこの作品は単なる「いじめ」にとどまらない。
 薄汚いコジマ、何をされても従うだけのコジマ。彼女がそうなった背景が少しずつわかり、自分を決して卑下していない姿が明らかになると、汚い彼女が次第に美しくさえ思えた。人の美しさについて考えさせられる。
「わたしたちは君の言うとおりとても弱いかもしれない。・・・でもこの弱さは意味のある弱さだもの・・・」
 自分たちはいじめられることによって、「あいつら」いじめる側にたっていない、自分たちは正しい・・・いじめられつつも、人の生き方としてそういう見方もあるのかと、いつのまにか納得させられた。

 圧巻だったのは、いじめられることについに耐えきれなくなった「僕」と百瀬との対決シーンだ。百瀬は中学生でここまで大人のような冷めた目線で語るかと思うが、とにかくここは興味深い場面だった。

 「いじめ」はいじめる側、いじめられる側の他にいじめを見ている傍観者がいる。大多数はこの傍観者で、この物語では百瀬はその代表だと思うが、彼の論理がすごい。
 「僕」との関係性をまず否定する。「君には僕をいじめる権利はない」と攻めよられても「いじめは権利でするんじゃないよ、したいからするんだ。
 そうだよ、たまたま。僕は君なんてどうでもいいし、二ノ宮達が君にやってることなんて個人的には何の興味もないよ。その場にいてもなんにも考えていないし、なんの感想ももってない。」と平然と答える。

 ある意味まっとうな「僕」の考えに、あくまで自分の論理で冷静に応答する百瀬は怖い、でも、こういう若者って多いのだろうか? この二人の考え方の違いは、永久に交わらないのだろうか?

 昔、私のクラスでいじめがあったときも、いじめた側の子ども達は確かにターゲットに選んだ子はたまたまだったし、理由なんて無かった。いじめるのが面白いからいじめただけで、反省も何もなかった。わずか9歳の子ども達だった。

 最後はよく分からなかった。いじめらることに意味があるに違いないと言っていたコジマは最後はこわれてしまった(?)
 いじめの主犯格の二ノ宮と百瀬は逃げ出した。
 「僕」はいじめの原因と思いこんでいた斜視をなおして、新しい世界を手に入れた。・・・調和というか、解決というかそういうものは無い。

 宿題を課せられた感じのする終わり方だった。
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