拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

「デューン/砂の惑星」

2020-04-15 12:53:54 | 日記

スーパーでパンは普通に売っているというのに強力粉の棚は空のまま。メーカーの在庫はあるというから、トイレットペーパー同様配送が間に合ってないのだろう。そのうち並ぶことだろう。それにしても、世にこれほど家でパン作りをする人があろうとは。ホームベーカリー(器械)は各家庭にそんなに普及していたのか。私はもっぱらピザ生地を作るために使っているが。スーパーと言えば、これまでレジの行列を横断するのはなかなか大変であったが、最近は「ソーシャル・ディスタンス」のおかげで隙間をすいすい通過できる。さて。三時のおやつを召し上がるようになったワタクシ、体によいというチョコレートがお気に入り。チョコレートは2月14日に人からもらうものではなく、自分で買って食べるものである(急に怒りモードのワタクシ。気を取り直そう)。だが、砂糖をとりすぎてはいけないからカカオ含有量95%のヤツを買ってきたらなるほど「このチョコーレトは苦いです」とのメーカーの自己申告はダテではなく、あまり旨くない。私には旨くないヤツはラーメンに入れてごまかして食らうという習慣がある。早速実行。むむっつ、茹でてる最中から立ち上るカカオの香り。思ったより強烈。見た目も変である(写真は残り汁)。はっきり言って悪趣味な試みであった(もうしない)。悪趣味と言えば、1980年代に公開された「デューン、砂の惑星」(デイヴィッド・リンチ監督)。新聞評に「SFなのに、(スターウォーズなどとは違い)宇宙船は動かない。すべてが重い」とあったので興味がわいて観に行った。たしかに妙ちきりんな映画であったが、私は妙にはまった。感動したと言ってもよい。後にテレビで放送されたときにビデオに録画したのだが、DVD(ブルーレイ)時代になってなかなか放送がない(ようやく最近BSが放送してくれた)。あんなに名作なのになぜ、と思っていたら、世評はかんばしくなかったことを最近知った。なんとかという有名監督はやはりこの作品を映画化したかったがリンチに先を越されてショックを受けたが、上映された作品の出来があまりにひどくて喜んだそうだ。Wikiにも「評価は芳しいものではなく」とある。しかし、Wikiには「彼独特の悪趣味的世界観が全面に出ており、映画マニアの間ではカルト作として一定の評価も得ている」ともある。え?私はマニアか?自分ではそうは思ってないし(オペラについてはマニアックであることを自認しているが)、カルトは逆に苦手である。ところで、辛口の評価を下した人の多くは原作を読んだ人だという。そう、私も前から原作を読みたかった。しかし、もう一つ読みたい本が増えた。昨日「銀河英雄伝説」について記事を書いたらリンク先のFBに原作のファンだというコメントを複数いただいたので私も読みたくなったのである。キンドルにダウンロードしようか。現在、キンドルの有料読み放題に加入して読むか、個別に購入して読むかの思案中である。ただし、有料読み放題でダウンロードした場合、読み放題をやめるとダウンロードしたヤツは消えてなくなるという。それもさびしいし……因みに、リンチ監督は「デューン……」で主演したカイル・マクラクランがお気に入りのようで、後の「ツイン・ピークス」もこのコンビだった。「ツイン・ピークス」こそ奇っ怪だったなぁ(そして面白かった)。

「ファイエル」って言った?(銀河英雄伝説とローエングリン)

2020-04-14 19:47:00 | 音楽
「ファイエル」って言った?「フォイエル」でなくて?いやたしかにその後も「ファイエル」と言っている。「銀河英雄伝説」で帝国の宇宙戦艦が敵に対してビーム砲を撃つときの号令なのだが、帝国の公用語はドイツ語らしく、例えば号令を発した主人公の名前が「ラインハルト・フォン・ローエングラム」だし、その副官が「ジークフリード・キルヒアイス」である。だったら、「撃てっ」は「Feuer!」であり、その発音は「フォイアー」、オペラやバッハやリートで使う舞台ドイツ語なら「フォイエル」のはずである。それがなぜ「ファイエル」なのだろう?たしかに、帝国の言語はときどき英語っぽくなる。上記の副官の名前も「ジークフリート」ではなく「ジークフリード」である。英語で「撃てっ」は「fire!」。これだと「ファ」で始まる。英語訛りのドイツ語?とにかく不思議である。その銀河英雄伝説、今回二度目のアニメ化で(一度目も見た)、Eテレで放送が始まっている(Eテレ、おそるべし!)。帝国と同盟が宇宙で闘いを繰り広げるというスターウォーズみたいな話であるが、帝国が悪者というわけでもない。帝国側のラインハルト・フォン・ローエングラムもジークフリード・キルヒアイスも「いい男」である。その「ローエングラム」、ヴァーグナーのオペラの「ローエングリン」と表記が似ているが、「ローエングラム」は名字である。それに対して「ローエングリン」は……これは名字じゃないよな、オペラの最後で名前を明かすのだが、「父はパルチファル、私はローエングリン」と言ってるし(名字だったら父親と同じはず)。じゃあ名字は何だ?そうだ、「パルシファル」もヴァーグナーのオペラになっていた。それを思い出せばいいんだ。パルシファルはそもそも名無しの権兵衛だった。第2幕の途中で、戦死した父親が当時まだ生まれる前だった息子のことを「パルシファル」=「清らかな馬鹿者」と呼んだことが判明して、以後、「パルシファル」になるのだった。名字についての情報はやはりない。ま、いいか、これまで気にしたこともなかったし。おしんのオープニングの配役紹介の画面だって名前だけだし(おしん、竜三、etc)。いちいち名字まで言ってた日には配役紹介が大変である。その大変なのが「マイスタージンガー」。もともと登場人物が多いうえにみんな名字がついてる(ハンス・ザックス、ファイト・ポーグナー、クンツ・フォーゲルゲザンク、コンラート・ナハティガル、ジクトゥス・ベックメッサー、フリッツ・コートナー、ヴァルター・フォン・シュトルツィング等々)。FMで聴くときは、長い本編の前に長い配役紹介を延々と聞くことになる(それもまた楽しみである)。

禁酒が通風のまさかの原因?

2020-04-13 19:29:35 | 日記
私はホームセンターで猫砂や猫フードを買ってるから営業自粛要請の対象からホームセンターがはずれて良かったと思っていた。ところが、いまや行き場をなくした家族連れが退去してホームセンターに押し寄せているという。銀座は小鳥のさえずりが聞こえるほど閑散としているのに○○銀座は普段以上の人混みだと言うし。大臣や知事がいいって言ったからよくてだめって言ったからだめなのではなく、自分でよしあしを判断したいものである。いい大人なんだから(と私が言っても説得力がない。カンレキを過ぎても大人げないことがばかりしている)。それにしても、依然として世界は新型コロナウィルスによる危機的状況である。ニューヨークの今の姿は日本の明日の姿だと言う人もいる。だが、ニューヨークで重症化する人は貧困層に集中しているという話もある。娘を亡くしたという現地の母親がインタビューに答えて「娘は倒れる直前まで店で働いた、最後は私の腕の中で逝った」と話しているのを聞き、その悲しみがいかばかりかと同情するとともに「あなたは大丈夫?同僚の方々は?お客さんは?」といった心配が沸き起こってくるのを禁じ得なかった。トランプ大統領は、当初、「アメリカには最高の医療体制があるから大丈夫」と豪語していたが、いまやアメリカは死亡者数でイタリアを抜いて世界最悪である(因みに、太宰治は人に批判されると口汚く強硬に反撃をしたという話を最近聞いて、誰かに似てる、誰だろうと思ったら、トランプ大統領だった)。さて、かく言う私であるが、今日、久々に家の外に出た。痛風仲間のNさん(私が新規に仲間入りさせていただいたものである。もともとは歌仲間である)が、痛風発作が起きたら「ロキソニンを飲んで3日苦しめば治る」と言ってくれたので、ロキソニンを買いに出たのである。徒歩3分の薬局に行くのもやっとこさ。痛む足をひきずりつつようやくたどり着いた。おかげでだいぶ緩和した。この際だ。痛風についての情報をネットで集めよう。大方は専門家の解説であるが、なかに患者の体験記があり、やはりロキソニンが効いたというのだが、その中にえ?という話があった。痛風の原因は尿酸であり、大酒飲みは尿酸値が高い。その尿酸値を薬で急に下げると逆に痛風の発作が出るというのである。体験記の筆者は素人。ほんとかいなと思い、さらにググると、製薬会社による尿酸値を下げる薬の解説の中にも同じ記述があった。どうやらホントらしい。急激に減った尿酸を白血球が攻撃して発作が出るという。ってことは、私の体に起きた今回の痛風発作の原因はまさかの禁酒?これまでの浴びるほどの飲酒によって積み上がっていた尿酸値が、禁酒によって急激に下がったところに白血球が攻撃をしかけたというわけか。あんなに飲んでるときに出なくてなんで今?と不審であったが、それが正解ならおおいにガッテンである。それにしても、強い相手にはだまってるくせに相手が弱ってくると急にがんばる白血球も白血球である。いや、人のせいにしてはいけない。私がいけなかった。何事においてもやることが極端である。今回の発作が収まったら家でもちびちび飲むこととしよう。一つ訂正。刑法で「人」と言ったら他人のことだが、私の胎内の白血球は私であって「人」ではなかった。だから、先ほどの文章は「私のせいにしてはいけない」が正解。でも、そうするとその後の「私がいけなかった」が変なことになる……

「春」は「ミュージック・エコー」で聴きました(交響曲第6番「田舎」?)

2020-04-12 16:32:06 | 音楽
外出もせず、家飲みもせずと生活スタイルが大きく変わったからというわけではないが、久しぶりに日曜の朝、NHKのラジオのAM放送で「音楽の泉」を聴いた。iPadに入れたNHKのラジオアプリで聴くあたりはなんだかんだ文句を垂れても私はNHKっこである。因みに、NHKの語学アプリっていうのも入れてあってこれも最近活躍中である。で、今日の「音楽の泉」はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの5番(春)と1番。「春」を聴きたくて聴いたということもある(最近練習しているので)。ベートーヴェンの「春」を最初に聴いたのは、(さあさあここから昔話の始まり始まり)中学のとき、学校の音楽の先生を通じて定期購読していた月刊誌「ミュージック・エコー」の付録の17センチのLPでである。この雑誌は、音楽の先生が、付録のレコードの演奏家は日本を代表する演奏家ばかりで絶対いい、と太鼓判を押すからとりはじめた(小学校のとき、同じく生徒が学校を通じてとっていたのは「学習」と「化学」で、私は「化学」をとっていた)。その「ミュージック・エコー」の付録の一つが「春」だったのである。ヴァイオリンは和波孝禧だったから、宣伝に偽りはなし、たしかに素晴らしい演奏だったが、正直にいうと、ピアノ伴奏のリズムが子供ごころに腑に落ちないところがあった。それが解消して腑に落ちたのは後にグリュミオーとハスキルの組合せのレコードを買って聴いたときである。いったん話がそれるが(すぐ戻ってくる)、子供の頃、ゲゲゲの鬼太郎でおなじみの水木しげるが書いたベートーヴェンの伝記漫画を読んだ覚えがある。師匠のハイドンがベートーヴェンを褒めたうえで、これからは君の作品に師匠の私の名前を併記しようと言ったのに対して、ベートーヴェンが「あの先生に教わったことは何もないよ」と独りごちるシーンが印象的だった。その漫画を最近ネットで探し出して再読した。件のシーンがたしかにあって感無量だった。その他ベートーヴェンの髪の毛を一本一本書いてるところが水木しげるらしいと思った。さらに今回分かったことがある。いったい水木しげるが書くベートーヴェンの伝記漫画などを何で読んだのか、ということだ。解説に書いてあった。「ミュージック・エコー」だと言うのだ。そっかー、だから読んだことがあったんだ。ところで、ベートーヴェンの「春」という表題は作曲者が付けたものではなく、後世の人の命名だということで、「音楽の泉」の解説者は素晴らしいネーミングであると絶賛していた。ふむ。たしかに明るい曲だから「悲愴」はおかしい。かと言って、がーって曲でもないから「英雄」もそぐわない。「田園」はアリなんじゃない?交響曲にも「田園」があるけど、ピアノソナタにだってあるし。さすがに同名で三曲は多い?じゃあ、こっちを「田園」にして交響曲第6番は「田舎」にするとか。だって、第1楽章は「田舎に着いたときの気持ち」だし。でも、日本語にしたときどうかね。交響曲第6番「いなか」って言ったら笑っちゃうかも。「いなか」って言ったらおんぼろバスだもんね。

「飲まなければご褒美をあげる、と言われたんでしょ」(そういうことにしとこっか)

2020-04-12 09:34:51 | 
外国は日本のコロナ対策が生ぬるいと批判しているらしいが国民性が違う。よくも悪くも「お上(おかみ)の言うこと」をよく聞く国民である。だから、フランス人が罰則をもって外に出るなと言われても在宅疲れでどっと街に繰り出しているのに対し、日本人は「要請」でも多くの人が守ってる(フランスは民衆の力で民主主義を勝ち取った国であるのに対し、日本に民主主義をもたらしたのは進駐軍である)。とか言ってるうちに、東京都の感染者数の増加が半端でなくなってきた。大層心配である。で、私はどうかと言うと、昨日も書いたが、お上がどうのこうの以前に足が痛くて外出ができない。食べるパンがなくなったのでお菓子を食べてしのいでいる状態である(大げさに言ってますが、昨日の昼だけの話。それにしてもガトーショコラは美味しい)。それにしても、通風の発作が起きるにしてもなぜ今なのだ。1か月前なら分かる。それまでざるのように飲んでいたから。今は家では飲んでない。これまで私の生きがいは晩酌だった。夜、ご飯を後は火を通すところまで作ってから入浴。湯上がりに火をかけて完成したら夢の晩酌タイム。350缶をくいっとやった後は赤ワイン。これがエンドレスで気づいたら翌朝。歯磨きも忘れるくらいだから夜に洗い物などするはずがない。♪これで体にいいことないよ、分かっちゃいるけどやめられない……の世界であった。それが今はどうだ。ささっとご飯を作って夕飯を早々に済ませる。お供はノンアルコールビールである。歯を磨いてそそくさと洗い物をして、それからぬるいお風呂にゆっくりつかり、出たらラジオを聞いたりして早々にご就寝。まるで聖人君子である(私が聖人君子になったのは生涯初である)。おかげで体調もすこぶる良好……と思っていた。そこに今回の通風である。少し前は耳鳴りもしていた。変な夢も見る。思えば、聖人君子になる前、一日のすべてを終えて料理とお酒の乗ったテーブルにつくたびに「あー、これがあるから私は生きているんだよなー」と独りごちていた。その生きがいを自ら葬り去ったわけだが果たして正しい選択だったのだろうか。どっかに無理がたまっていて、それが今回の通風の発作になって現れたのであろうか。などと疑心暗鬼になっているこの数日である。いや、別にお酒をやめたわけではない。外でみんなと一緒のときは(記憶をなくさない程度に)飲むからね。今、それができるご時世ではないが、ほとぼりが冷めたら誘ってちょうだいね!そうそう、私など及びもしない妄想でいつも楽しませてくれるA姐さんが私の聖人君子ぶりをどう言ってるかと言うと、「飲まなければご褒美をあげる、と言われたんでしょ」だって!とどまるところを知らない、そしていつも私の想像の上をいく姐さんの妄想であるが、しかしここまで来ると「故意」である。つまり、姐さんも実情をお分かりでありながら、あえて「設定」を変えずに、砂上の妄想を築かれているのに違いない。だったら私もそれに乗ろっかな。フィクションで言ってるうちに「ひょうたんからこま」ってこともあるかも知れない。

バッハはコロナに克つ

2020-04-11 15:20:59 | 音楽
バッハが楽長を務めたライプチヒの聖トーマス教会の「バッハ祭り」がこのご時世で中止になった代わりに「バッハはコロナに克つ」と銘打った演奏がネット配信された。曲はバッハのヨハネ受難曲「を基にした」(nach,after)曲だという。「一緒に歌いましょう」ともある。その意味は見て分かった。がらんとした教会の中にいるのは、指揮者のほかテナーのクリスチャンセン、数人の歌い手、オルガン、チェンバロそして打楽器奏者だけ。クリスチャンセンがエヴァンゲリストのほかパートを問わずソロを全部歌う。その他の歌い手はコラールに参加するのみ。そのコラールの中のある一曲が「一緒に歌う」曲であった。ネット会議アプリを使ったのだろう、自宅で一緒に歌う人々の姿が映像で映し出された(私は20分経ってから視聴を始めたのだが、その限りでは人々が一緒に歌ったのはこの一曲のみであった)。興味深かったのはコラール以外の(本来の)合唱部分。むち打ちを連想させる打楽器のリズムに乗ってクリスチャンセンが歌詞を朗読。なるほど、ここは原曲とは別物。だから「基にした」なんだ。ちょうど、この週は朝のFMの「古楽の楽しみ」で、バッハの幻のマルコ受難曲の復元版が特集されていた。たくさんある復元版の先駆けであるヘルマン版ではエヴァンゲリストの部分が朗読であり、そのことを思いだした(朗読の部分が違うが)。そんな感じできびきびと曲が進行し、あっという間に最後から二曲目。本来は合唱曲である「Ruht wohl」はクリスチャンセンがソロで、しかもアカペラで歌う。そして最後のコラール。二人の歌い手が加わってアカペラの三重唱。感動的だった。うん、「基にした」曲ではあったが、受難週の聖金曜日、受難の物語がきびしく、美しく世界中に届けられと思う。私も、急に襲ってきた原因不明の足の親指の付け根の激痛……症状からすると通風の発作だと思われる……という受難に遭い、痛みをこらえながら受難の物語に聴き入った。そんな具合だから、外出自粛要請なんかなくったって外出はしない。痛くて歩けない。だから医者には行ってない。そもそも近くの外科がどこも内科併営なので行くのも怖い。まあ、通風なら数日でけろっと治るというから少しの我慢である(?)。

プリティ・ウーマンは椿姫がお好き(オペラは最初が肝心)

2020-04-10 09:27:44 | 音楽
スーパーの営業状況を知らせるテレビのテロップで「ベルク」が出た。一瞬、うちの近所の「ベルクス」の単数形かと思ったがそんなことがあるわけもなし。ベルクは千葉、埼玉に展開していてベルクスは足立区が中心である。言葉に関する一瞬のとまどいといえば、「Can you do……」を聴いて、なんで「君」が二つ並んでるんだと思った私は「do」をドイツ語の「du」だと思ったのである。そんなことを言えば他にもある。「also」を「オールソ」と読むべきところを「アルゾー」と読んじゃうし、「open house」を「オペン・ホウゼ」と読んだ人をからかうCMを見て、合ってるじゃん、どこがおかしいのさと思ったりもする(ドイツ語読みなら合っている)。さて、「プリティ・ウーマン」の続きである。ヴィヴィアン(ジュリア・ロバーツ)がエドワード(リチャード・ギア)に連れられてロスからサン・フランシスコに飛んだ。なんのためかと思ったらオペラを観るため。なるほど、西海岸のオペラ・ハウスと言ったらサン・フランシスコだからね。そこで二人が見たのが「椿姫」(ヴェルディ)。エドワードが「オペラは最初が肝心」と言ったが、全くその通り。最初にギャーギャー吠えるだけのを見たりするとオペラ嫌いになってしまう。私は幸運だった。初めて、「意識して」オペラをテレビで見たのがNHKイタリア・オペラ(1971年)。超一流の布陣であり超一流の演奏だった。なにしろマントヴァ公爵(リゴレット)を歌ったのがパヴァロッティである(まだひげがなかった)。椿姫がヴィヴィアンの心にぐっと刺さったごとく、このときの演目……リゴレットに限らずノルマもラ・ファヴォリータも……は中一の少年の心をわしづかみにした。当時、日本ではパヴァロッティは無名だった。ましてお子様だった私がその名を知るはずもない。実際、リゴレットに感動して、テレビで見たのと同じ人が歌ってるレコード買おうと思ってお店に行ってもパヴァロッティのパの字も覚えてなかったらからジャケットの写真を頼りに探したが分からない。これかな?と思った顔写真は今から思うとニコライ・ゲッダだった。因みに、ノルマのアダルジーザとラ・ファヴォリータを歌ったフィオレンツァ・コッソットの名前はすぐ覚えた。すごいメゾだということは子供の私でもよく分かった。だが、当時の大人がコッソットを「きれい」と言ったことに共感できるほどには私は成熟していなかった。そんなわけで、この時から私のオペラ行脚が始まった。この体験がなかったら私の人生は全く違うものになっていたかもしれない。もっとちゃんと勉強してひとかどの人間になっていたかも……いや、しれなくはない。性格が変だからどう転んでもひとかどの人間になるのは無理であった。とにかく、オペラは最初が肝心なのはその通りだ。「プリティ・ウーマン」でもう一つ。若いエレベーター・ボーイが出てくるが、高級ホテルの従業員のわりにはヴィヴィアンを前にしてボーっとなったりして落ち着きがない。でも、こないだまで読んでいたカフカの「アメリカ」(又は「失踪者」とも言う)に登場するエレベーター・ボーイがやはり未熟な少年だった。映画の彼のような感じだったんだろうな、と大層合点がいった次第である。

知事さんは映画がお好き?

2020-04-09 09:41:18 | 日記
どこかの知事さんに言わせると、非常事態宣言の出た都府県は「七人の侍」であり、他の県は(侍を助けた)「村人」なのだそうだ。この知事さんは映画好きとお見受けした。映画と言えば、「プリティ・ウーマン」でジュリア・ロバーツがおハイソなレストランで苦労するシーンを久しぶりに見て、「男はつらいよ」第1作で寅さんがさくらの見合いの席で「大暴れ」するシーンを思い出した。映画と言えばでもう一つ。非常事態宣言の出た都府県から軽井沢とかに「脱出」する人がいるという。しかし、さっきの知事さんの話とはうらはらに、逃げてきた「侍」を必ずしも「村人」はこころよく受け入れてはくれないようだ。それより思い出したことがある。ボッカチョが書いた「デカメロン」。私は、中学んとき正月の深夜にテレビで見たパゾリーニ監督の映画の淫靡な世界に惹かれて(思春期の少年とってかなりの刺激であった)、その後、原作を読んだのだが、その冒頭(映画では描かれなかった)はまさに今の世界と同じである。つまり、ペストが流行して街はパニック。そんな中、何人かが病から逃れるため地方に「疎開」する。疎開先で時間をもてあましたものだからみんなでお話をしましょう、と言って語られたのが「デカメロン」の各エピソードである。パゾリーニ監督はその中から淫靡な話を中心にとりあげたが、その手の話は逆に少数派である。そのせいかどうか、読み始めたはいいがまだ完読しないで放ってある(いや、完読できないのは下ネタが少ないからではない。母の付き添いで病院に行くときいつも読んでたのだが最近は施設が契約している先生に往診に来てもらってて病院に行かなくなったからである。それと、キンドルではなく紙の本ということもある)。ところで、今回、東京のほか首都圏で非常事態宣言が出されたのは神奈川、埼玉、千葉であり、これらの県から東京に通勤している人の数は、それぞれ106万人、93万人、71万人なのだそう。それに対し、地図上ではこれらの県と同様東京と近接している山梨県からの通勤者の数は1万人。桁違いに少ない。しかし、東京と山梨の間には山がある。中央本線で高尾を過ぎたあたりから延々と続く山を思えばこの数字には合点がいく。最後に笹子トンネルを抜けて甲府盆地が広がる風景はまるで桃源郷のようである。「プリティ・ウーマン」に戻る。ジュリア・ロバーツがフォークではじき飛ばした食べ物をキャッチした給仕さんは最高にグッジョブであった。「デカメロン」に戻る。前記の通り下ネタは決して多くはないが、それより多いのは「若い奥さんをもらった年寄り」の奮闘物語。何を奮闘するかというと、夜のお勤めではない。逆に、夜のお勤めを逃れるための言い訳作りに奮闘努力するのである(寅さんは、「奮闘努力のかいもなく」と歌っているが)。中央本線で見る東京と山梨の間の景色の話に戻る。車窓から見えるのは山だけではない。ときどき視界に現れる桂川(神奈川県に入って相模川になる)を見るのが私は大好きである。途中に、「武田家終焉の地」と書かれた看板の立っている駅もある。一度降車して歩いてみたいと思っている。

猫のご飯は売ってくれるんだろうね、売ってくれなきゃ怒るからね

2020-04-07 12:45:04 | 音楽
昨日の補足をいくつか。まず、「Kegelschieben」はボーリングのことだ、と言ったが、今ではドイツ語でもボーリングは「Bowling」である。Wikiのドイツ語版では、もはや「Bowling」のページがあっても「Kegelschieben」では何もヒットしない。そう言えば、「スターウォーズ」も、20年前は「Krieg der Sterne」だったが、今、DVDのジャケットの表紙はみな「Star Wars」である。英語は容赦なくヨーロッパの各国を席巻。あんなに抵抗してたフランスでさえも英語が浸透してるんだから、ドイツはとっくに白旗を掲げていて、インテリ・ドイツ人は誰も彼も口をひんまげてそれらしく英語を話している。それでも、例えばスターウォーズの第一作の副題(a new hope=新たな希望)は、「Eine neue Hoffnug」とドイツ語のまま。Wikiも「Krieg der Sterne」のままである。もう一つ、昨日のおさらい。NHKで、ネットの合唱がブラームスのドイツ・レクイエムを歌っているのにアナウンサーがメンデルスゾーンと言った件。いただいた情報コメントによると、このときの合唱の練習ではたしかにメンデルスゾーンも歌われていて、ただ、テレビで主に放送されたのがドツレクだったということのようだ。まあ、よくある話で、別に目くじらをたてるようなことではない。どうせ、NHKに問い合わせたって、「その通りでした」って返ってくるだけで、訂正など出さないに違いない。以前、FMで放送したフィッシャー・ディースカウの追悼番組で、演奏者の名前が違ってたように感じたので(ベルリン・ドイツ・オペラをプラハ・オペラと言ったんだと思う。そう、分かる人は分かると思うが、NHKは、ドン・ジョヴァンニの録音とマイスタージンガーの録音を混同したのだ)、純粋に疑問を解消したい一心で(もしかしたら私の知らない録音もあるのかな、と思って)問い合わせをしたら、「その通りでした」と来ておしまい。まあ、そんなことを突っ込む人なんて他にいるかいないかだろうから、まともに相手をする必要はない、と思われたのだろう。こっちも、ことの真偽が明らかになり、フィッシャー・ディースカウがハンス・ザックスを歌っているのはヨッフム盤だけということが確認できればよかったのだから、そんな返事で十分満足であった(ただし、ドイツ名のテニス選手の名前をなぜフランス語風に発音するんだ?と問い合わせたのに対して「そう呼ぶことにしてるんで」って返事がきたときは、純粋に発音の疑問を解消したかったのに、不要不急のクレーム扱いにされて悲しかった。それからはNHKに問い合わせをするのをやめた。因みに、「カーネーションで糸子がなんで途中で代わるんだって問い合わせた人には大層ご丁寧な回答が来たそうだ)。だが、今回、話はいきなり飛ぶが、決して「どうでもいい」で済まない問題が持ち上がっている。いよいよ緊急事態宣言が出されるという。それは当然のことだ。ところが、休業要請が出されそうな店舗の候補にホームセンターが入っている。これはゆゆしき問題である。私は猫のご飯と猫砂をホームセンターで仕入れている。そのホームセンターが店を閉めたら猫の死活問題である。都や国は、生活に必要な食料品等の売り場については休業させないと言っているが、その「生活」には「猫の生活」も入っているのだろうか。入れてもらわなければ困る。猫は家族である。いろんなことを決める「偉い人」にはなんとしてもこの認識をもってもらわねば。まあ、小池さんは、知事選のとき犬猫の殺処分をゼロにすると公約した人であり、その分野ではかなりの成果をあげている。今回もその精神を忘れないでちょうだいよ、ほかの人にそういう意識がなかったらちゃんと言ってよ、と声を大にして要求したい。追記。午後の国会質疑で西村大臣が「ホームセンターは生活に必要だから営業を継続してもらう」と明言。一安心。

ネット合唱で歌っていたのはメンデルスゾーンではなくブラームスのドイツ・レクイエムだった件

2020-04-06 20:00:58 | 音楽
Zoom(ネットで会議をするアプリ)で合唱をする様子をNHKの6時台のニュースでやるというので録画して見た。やっぱ、ずれますなー。各人、各パートの声がそれぞれ時間差で来るんでぼわぼわして曲の認識が困難なほど。だから合唱には難しい感じ(個人レッスンには使えるかも)。ところで、かろうじて認識できた曲は、アナウンサーはメンデルスゾーンと言っていたが、ドイツ・レクイエム(ブラームス)の第4曲のように聞こえる。え?これって元曲がメンデルスゾーン?いや、どう聴いても第4曲そのものである。巻き戻して楽譜が映ったところで停止してテレビにかじりついて見たらやはり第4曲。まあ、ときどきあることだ。因みに、この日のアナウンサーは音楽を専攻した方だが、原稿をそのまま読まされたんだろうね。

十柱戯

2020-04-06 13:47:22 | 言葉
スーパーの混み具合についてのコメントが多く聞かれるようになった。ほーら、やっぱみんな不安を感じてるんだよ。私も決意した。近くのスーパーの卵1パック99円の特売には行かない。通常でも1パック168円なんだから(これでも他所より相当安い)、わざわざ500円以上の買い物をして(99円で買うための要件)、コロナにおびえながら99円の卵を買う必要はない。必要品の買い物にはがらんがらんの時間帯をねらって行きます。休校の延長も相次いでいる。若い頃「おーい、吉川くん」と言ってた某県の知事も県立学校の休校を延長すると言っていた(「吉川君」の口調はまだ残ってる)。そう言えば、どっかの教育委員会が作ってる「ネット授業」の様子をテレビで見たら、「草という漢字は、発音を表す「草」の部分と植物(意味)を表すくさかんむりの部分から成っている。こういう漢字を「形成文字」という」と言っていた。へー、面白い授業である。こういう授業を受けたいものだ。ということで、今回は言葉の話である。ドイツ語で読んでる「トム・ソーヤーの冒険」に「Kegelschieben」が出てきた。直訳すると「ピン押し」、つまりボーリングのことだが、これがあんちょこ(日本語訳)では「十柱戯(テンピンズ)」となっていた。ボーリングのことを「十柱戯」と言うのか!初めて知った。ちょうど私が中学生の頃ボーリングが流行っていたが、当時から「ボーリング」は「ボーリング」であって、「十柱戯」なんてのは聞いたことがない。日本語訳を書いた方はどんだけ昔の方なのだ?と思ったら、なんと私の(たったの)4歳上。アメリカ文学研究者として有名な方だそうだ。だったらこの方だって子供の頃は「ボーリング」と言っていたろうになぜわざわざ「じっちゅうぎ」のだろう。そう、十柱戯はこう発音するらしいが、ルビが「テンピンズ」になっているのも奇っ怪である。いや、これこそがこの怪の解答なのかもしれない。つまり、ボーリングは英語で(正式には)「Ten-pin bowling」と言うらしいから、もしかしたらマーク・トゥエインが書いた原文が「ten-pins」だったから、あえて「ボーリング」と訳さず「十柱戯」と訳したのかもしれない。よし、原文を見てみよう。直ちにキンドルでダウンロード。ドイツ語訳も日本語訳も有料だったが原文は無料のがあった。おっ、やはり「ten-pins」だ。この原文のニュアンスを伝えるためにあえて「十柱戯」と訳し、ルビを「テンピンズ」にしたのだろうか。因みに、ドイツ式のボーリングはピンが9本だそうで、その場合の日本語訳は「九柱戯」である。独和大辞典では「九柱戯」のオンパレード。これこそが正式名称と言わんばかりに「ボーリング」は括弧書きである。あるいは、文学者は「○柱戯」という言い回しが好きなのだろうか。それから、ドイツ語を1字入れ替えて「Kugelschieben」にすると、「玉押し」の直訳から連想するとおり、「ビー玉遊び」の意味になる。

紫色のブロッコリー

2020-04-05 09:53:24 | 日記
このところのスーパーの混み具合は尋常ではない。1パック99円の卵を求める列などは、通常時より長いくらい。巣ごもり消費がさかんということで、消費がさかんなのは歓迎すべきだが、こんだけ混むと、ガラガラの電車や飲食店よりもさらに危険?と思うほどである。さて。先日放送していた「農家めし」でいろんなアスパラを紹介。青いアスパラの色はアントシアニンという物質によるもので、食べると甘いが、熱を加えると緑色になってしまうそうな。そう言えば、件のスーパーで売ってるブロッコリーも「半分、青い」(という朝ドラがありました。私にさかりがついたのはあの番組のせい)。青いヤツはなんだか薄気味悪くて避けてたのだが、そうか、アントシアニンか、甘いのか、次回はそっちを選んで買おう。それから「ポール・マッカートニーが絶賛したアスパラ」も登場。ちょっと無粋なことを書くと、「ポール・マッカートニーが絶賛した」は事実の記述だからよいが、かりに「ポール・マッカートニー・アスパラ」という名称を勝手につけて売り出したら、これはポールの名前が持つパブリシティ権(顧客吸引力)の侵害であり損害賠償の問題が起こりうる。それに対し、競走馬を含む物の名前についてはパブリシティ権は認められていないから、例えば、私が将来開店するかもしれない「安いだけが取り柄のイタメシ屋」で「ジェンティルドンナ・パスタ」「ジェンティルドンナ・ピザ」をメニューに載せたとしてもこれは不問である。それから(番組の話の続き)、アスパラを作っている新婚カップル(40前後)が登場。毎晩二人で晩酌をするそうで(羨望のため息)、奥さんの方が強いそうで(大いにありうる)、ただし、強いだけあってときどき意味不明のことをするそうで(分かる、分かる)、先日も夫が朝冷蔵庫を開けたら奥さんが入れたとみられるバスタオルが入っていたのだそう。もちろん奥さんは覚えてない。こういう奥さんの「記憶を無くしての奇行」は、私も思い当たる節がある……どころではなく、節だらけであったが、大いなる反省のもと、現在は別人である。朝、歯磨きをするときの「ウゲー」が全くなくなったことは自分でも驚きである。とにかく「記憶をなくすまで飲む」ことは、現在の私にとっては、三密と並んで避けたいことである。喉元過ぎれば熱さを忘れる?違うっ。羹に懲りて膾を吹く、である。

襟カラーは後ろ留め!?(トム・ソーヤーの謎が解けた!?)

2020-04-04 16:53:12 | 日記
先ほど提起した疑問(トム・ソーヤーは、なぜ泳ぐときに襟カラーをはずさなければならなかったのか?)について、がんばって謎解きをしろというハッパ激励をいただいたので、がんばってみた(そんなハッパ、誰もかけてないって?あなたの何気ない一言が私の心に火を付けるのですっ(何のこっちゃ))。すると、襟カラーには、襟そのものと、襟の中を通すカラー(学ランの襟ん中のカラーがそれ)との二つの意味があるのだが、後者の意味だとして、そのカラーのうち、昔カトリックの神父さんが付けていたやつは「後ろ留め」だったというのである。私などは、カラーというと学ランのカラーを思い浮かべるから、前が開いたやつを思い浮かべるが、神父さんが付けてたヤツが後ろ留めだったということは、前は開いておらず、つながっていたということである(そういう写真もあった)。もしトムが縫い付けたカラーがそういうカラーだったとすると(神父さんがしたものを開拓時代のアメリカの少年がしたとしてもおかしくない)、シャツが前開きだったとしても、それに縫い付けたカラーの前がつながっていれば、泳ぐために服を脱ぐときは、カラーははずさねばらないことになる。おおっ、おおっ、これが答のようではないか!少なくとも有力説になるのは間違いない(有力説って自分で言うものではなく、回りが言うものであるが)。現在、歓喜に打ち震えながら、緊急で記事を書いているところである。これで今日二つ目の投稿。ついでだ。さっきの記事の続きをもう一個書こう。結局、体重計は従来型の簡単なやつを買った。それで測ってみたら、おろーっ、減ってる。やはり、酒をだらだら飲むとおつまみもだらだら食べる。それをやめれば、多少のケーキのカロリーでは挽回できないらしい。

襟カラー

2020-04-04 09:58:43 | 日記
最近、朝はトーストにお紅茶。トーストは、例えば今日は三つのエリアに分けて、それぞれマーガリン、塗るチーズ、ココナッツバターを塗る。中世ヨーロッパの三圃式農業を彷彿とさせる。お三時にはやはりお紅茶でおケーキをいただいたりもする。減った酒量をスイーツで補おうと体が欲しているのかもしれない。だが、A姐さんは、スイーツの食べ過ぎで私のお腹回りが1.5倍になったら街で私を見かけても知らんぷりをするそうだ。知らんぷりをされたら寂しいから体重計を買いにいこうと思うが(持ってたやつは母にあげてしまった。施設が用意しろって言うんで)、昔ながらのやつにするか乗っただけでいろいろ計れるやつにするか悩んでいる。後者は計るとき裸足にならなければいかん。冬場は冷たい。しかも電池がいる。悩みが尽きないところで本題。「トム・ソーヤー」を読んでて、半世紀前と同じ疑問にぶちあたった。トムのシャツに縫い付けられていた「襟」のことである。それはこういうシーンで出てくる。夏の暑い日、トムは学校をさぼって泳ぎに行く。夕食時、そのことを疑ったポリーおばさん(育ての親)が、トムに上着を脱いで襟を見せて見ろ、という。だが、襟は縫い付けられたまま。ポリーおばさんは邪推だったことをわびるが、そのとき弟のシド(シドニーの略だということを今回知った。すると、トムは当然トーマスの略なのだろう)が、「おばさんは白い糸で縫い付けたはずなのに糸が黒いよ」と余計なことを言ったおかげでトムが泳ぎに行ったことがばれるというシーンである。ここで第一の疑問。襟って最初からついてるじゃん。なんで縫うの?だが、便利な今のご時世、この疑問はググってすぐに解消。襟は汚れやすい。だから、昔は、そこだけ洗えるように着脱式になっていて、着る時いちいち縫い付けていたらしい。そこで浮上する第二の疑問。話からすると、トムは泳ぐとき襟をはずして、泳ぎ終わったとき縫い付けた、その際の糸の色の違いで悪事が露見したということだが、なぜ泳ぐとき襟をはずす必要があったのだ?襟が付いたままシャツを脱げばよかったのではないか。この点、ググっても確答は得られなかった(同じ疑問を持つ人はいたが)。だから推測だが、シャツを脱ぐとき襟をはずさなければならなかったということは、襟はシャツに縫い付けられる際、前開きの部分も同時に縫い付けられ完全な「わっか」になっていたのではないか。だから、シャツを脱ごうと思ったら、前開きの部分の糸を切って開かなければならなかったのではないか。ことの真偽は依然不明である。カンレキまで生き延びて、半世紀前の疑問はたいてい解消しているが、(例えば、「サンダーバード」の主題歌は、「青く光るヒーロー、いっ、宇宙へ」ではなく「青く光る広い宇宙へ」であるということ。ずっと勘違いしていた私は、「いっ」のところをいきんで歌っていた)、この疑問が果たして生涯中に解決されるかは疑問である(おそらく、アメリカ人による英語のサイトまでたどれば解答を得られるかもしれないが、英語を読む気力はない)。それよりも、「襟」で思い出したことがある。中学、高校時代、制服は詰め襟だったが、そうそう、「襟カラー」ってのがありましたよ。プラスチック製で襟の内部にパチっとはめるやつ。当時は、「そういうもの」として着用していたが、今回初めてその意味を知った。前記の通り、その昔襟は着脱式だったが、そのうち、服の一部となり、汚れがつきやすい内部だけ交換できるように襟カラーができたそうだ。トム・ソーヤーの襟の謎については迷宮入りの様相を呈してるが、調査の過程でとんだ副産物があったものだ。

ドイツ・レクイエムの歌詞(トムが覚えられなかった聖句)

2020-04-03 12:07:03 | 音楽

心根を入れ替えるため、バスタオルも新しくした。なにせ、これまでのやつがどれもこれも黒ずんじゃって気分が悪い。数があっても役に立たないのはファーニナル家の家来と一緒である(また言ってる)。購入したのは3枚。白とピンクの2枚だと、ピンクの方をまだ見ぬ将来の花嫁のためにとっておこうなどと余計なことを考えそうなので、もう1枚青も購入。ところが、じゃこれはまだ見ぬ将来の子供のためかいなどという考えが頭をかすめる自分が恐ろしい(今子供ができれば、子供の運動会で私が徒競走に出るのが70歳前後である。そしたら元陸上部の脚の見せ所だとちょびっと血が騒いでいる自分がさらに恐ろしい)。冗談はおいといたとしても、洗濯のローテーションを考えれば3枚は必要である。だから国が配ってくれるという2枚のマスクもありがたくいただくが、同じ理由で3枚だったらもっとありがたいのにと思う。子供と言えば、子供のとき読んだマーク・トゥエインの「トム・ソーヤーの冒険」をドイツ語で読むつもりであることを以前書いた。子供のときは気づかなかったが聖句が出てくるらしく、聖句だったらシュッツやバッハを歌ってきた関係上、ドイツ語の方がなじみがあるのでドイツ語で読みたい、あんちょこ(日本語対訳)は有料なので、とりあえずなしでがんばる、子供用だからなんとかなるだろう、ってことも書いた。なんとかならなかった。甘くみていた。英語の原文が、比喩にとんだ、「素直でない」文章らしく、各国の翻訳家もその味を出そうとして「素直でない」訳をつけているのである。そう言えば、子供の頃日本語訳を読んだ時も読みにくいと思ったことを後から思い出した。ということで、あっという間に白旗。あんちょこを購入した(被害が拡大する前にあっさりと白旗を掲げる私は、戦中の日本の指導者よりも偉いと思う)。さて、お目当ての聖句であるが、出てきた出てきた。あっと驚く為五郎!トムが覚えられなかった聖句がこれである。「Selig sind die da Leid tragen.Denn sie sollen……」。ドイツ・レクイエム(ブラームス)の第1曲の歌詞である。歌詞として知っていた聖句が出てきた、これは思惑通り。しかもそれがドイツ・レクイエムということで感無量、思惑以上である。ドイツ・レクイエムと言えば、今月末にKMCの本番でこの曲をアルトの一員として歌うはずだったが、コロナのせいで1年延期となった。事務局の方々はさぞや大変であったろう。お疲れさまでございました。まあ、しかし、来年もまた同じ仲間とこの曲を歌えるわけだから、オリンピック同様楽しみが延びたと考えよう。来年再び、ソプラノ=アルト同盟で第6曲の「あおり運転」ができる日が待ち遠しい。さぞや感動的なことだろう。めいっぱい、失神するほどあおるぞー!