拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

佳作(ソナタ形式)

2020-04-22 17:59:43 | 音楽
「おめー、ホントにおれの子か?」。こう文字に起こすと昨日のブログの続きのようだが、朝ドラ「エール」でこの台詞が発せられた状況は全く違っていて、息子が作曲コンクールで入賞したことを真に喜ぶ父親の愛情が言わせた言葉であった(末尾に「♥」でも付ければ誤解されないかもしれない。そう、今では絵文字がたくさんあるからそうした誤解は減ったと思うが、電子メールが流行り始めたときはニュアンスが伝わらず、結構無用な諍いがあったと思う)。作曲コンクールといえば、私も中学のときに市(県ではなく市だったと思う)のコンクールに応募したことがある。「月とすっぽん」、大作曲家の話の次にもってくるような話ではないことは分かっているが、それでも「一寸の虫にも五分の魂」、見るだけの月よりも食えるスッポンの方がいいという理屈も通るかも知れぬ。ということで話を続ける。結果は「佳作」だった。実は音楽の先生がから「佳作だったよ」と言われたとき、私は「かさく」の意味が分からず、やった!と一応喜んだのだが、調べてるうちに「佳作」は「いまいち」であることが分かってきた。そして決定的に思い知らされたのは授賞式。入賞した生徒が県立音楽堂に呼ばれ、受賞作の演奏があると聞いたもんだから、え?私のって管弦楽曲なんだけど、それを演奏してくれるの?じゃ、オケがいるの?とか思ったら、舞台に呼ばれたのは数人だけ。結局、私を含めた何人か(佳作仲間)はずっと楽屋に押し込まれたまんまでなんのために県立音楽堂くんだりまで行ったんだか分かりゃしなかった。そこから「かさく」の三文字がトラウマになり、あまり触れたくない過去となっていたのだが、先ほどふと思った。「佳作」というから口惜しい。「入選」と言えば聞こえがいい。よし、これからは「入選した」と言おう。おおっ、半世紀ぶりにトラウマから抜け出せる!ウソはないし。でも一応チェックしとくかと思って、シャープ(マスクを買おうとしたがネットでつながらずじまい)の電子辞書に「佳作」と打ち込むと、「入選作ほどではないが、それに次ぐよい作品」と出てきた。えー、じゃあ「入選」って言ったらウソになっちゃうじゃん。ぬか喜びとはこのこと。トラウマからの脱出はトラウムとなった(Trauma=精神的外傷、Traum=夢)。まあしかし、よく考えてみれば佳作は上出来だった。とにかく突貫工事だった。音楽の先生が締め切り日を間違えていて、まだまだ時間があるとのんびり構えていたところに「イージマくんごめん、締め切り明日だった」と急に言われて、夜なべして仕上げようと思ったのだが、睡魔に勝てず寝落ち。目が覚めたらもう朝。ソナタ形式(序奏-提示部-展開部-再現部-コーダ)で書いていたのだが、その時点で書き終わっていたのは展開部まで。やむなく再現部を書く代わりにダルセーニョで提示部の頭に戻って、コーダに飛んで、そのコーダもジャパニーズボブテイルの尻尾のように短く無理矢理「ジャーン」で終わらせた。そんなまがいものに佳作をくれたんだからこれはもう感謝こそすれトラウマなどと言ってはバチがあたる。今ふと思った(ブログを書くことは脳みそに対するなかなかの刺激になる。いろんなことを思いつく)。もし、インチキをせずに再現部の直前で終わらせて曲名を「未完成」にしたらどうだったろう。いやいや即ボツでしたね。さて、そのソナタ形式の話である。そもそもなぜソナタ形式で書こうとしたか。それはあなた、ソナタ形式が、特にベートーヴェンの書くソナタ形式が大好きだからである。提示部で第1主題が奏でられた後、5度上がって、おっ、来るな、と思ったところで第2主題が現れる。ときどき、さらに5度上がって、おいおいどこまで行くの?と思わせておいて戻ってくることもある。そして、再現部。ここでは第1主題の後、提示部とは違った道を通って第2主題が第1主題と同じ調で現れる。その「違った道」を聞くのがまた醍醐味であり、「運命」や「田園」はこのあたりが絶妙である(だから私の「佳作品」が再現部で提示部の頭にダルセーニョしたということは……それは提示部=再現部を意味する……とんでもない蛮行だったわけだ)。いったいベートーヴェンは、いつからソナタ形式をモノにしたのだろう。作品1のピアノ三重奏曲で聞けるソナタ形式は既に熟練の技である。それどころか、ベートーヴェンが13歳の時に書いた選帝侯ソナタのそれだってもうできあがっている。ソナタ形式だけではない。最初期からすでに素晴らしい「変奏曲」「フーガ」を書いている。やはりベートーヴェンは偉い人である(お友達にはなりたくないタイプらしいが)。