拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

平等とは?(割り勘か否か)

2017-06-08 08:43:26 | 日記
(承前)ドイツで仲良くなったドイツ人の先生と東京で「おデート」をしたときのこと。いきなり「私はベジタリアン」という。もしかしたらそうかもと勘が働いて魚の店に行ったのでことなきを得たが(ベジタリアンにもいろいろいて、先生は魚はOKだった)。で、出てきた赤身を見て「これは肉か?魚か?」と聞くので「魚だ」と言った(つもりだった)のだが、先生は箸を付けない。私の発音が悪く、「Fisch」が「Fleisch」に聞こえたらしい。因みに「Fleisch」には「肉」のほかに「人間」という意味もある。同様に英語の「flesh」にも「肉」「人間」「生き物」の意味がある。メサイアの「And all flesh shall see it together」の「flesh」は「いきとしいけるもの」と訳されている(これを「肉」と訳すと都合が悪い)。さて、おデート時間も終了、勘定という段になって、私の方が多く払うと言ったら先生は、「falsch」(よくない)、割り勘にすべきと言う。で、私は「私の方がたーくさん飲んだ。たくさん飲んだ方がたくさん払う。これこそlogisch(論理的)」。先生はそれもそうだと納得。やった!ドイツ人をlogischにやりこめた!と内心得意。で、いまふと思う。憲法14条は「法の下の平等」を謳っている。平等には「形式的平等」と「実質的平等」がある。例えば、税金は誰でも一律1万円とすればそれは形式的平等。金持ちからたくさんとるんだったら実質的平等がはかられる。すると、あのとき割り勘にしたとしても、それは形式的平等にはかなっていた。私がたくさん払ったことは必ずしもlogischではなかったかもしれない(払ったお金を惜しんでるわけではない、念のため)。

「けっとばし」はNG

2017-06-08 08:28:49 | 日記
「サラメシ」で紹介されていた騎手の勝負服を作る方々は馬肉を食べないんだそう。馬との関わりがこのくらい間接的でもそうなんだ。だから、走るお馬さんが大好きな私が練習後の飲み会でテーブルに並んだ馬肉に一切箸を付けなかったのも道理というもの。実は馬肉(けっとばし)NGにはもう一つ理由がある。20代の頃、旅先で食べて「大当たり」したことがあった。1週間劇症が続き体重が10キロ減った。だから、私が最近肉を食べてないんで練習に行かないと言ったら「じゃあ肉を送る」とおっしゃって下さった某さん、馬肉以外でお願いしますね……ってもちろん冗談ですから。それに某さんはこのブログを知らないはず……いや、どこでどなたが読んで下さってるか分からない。なんと、妹のご主人のお姉様が読んで下さってるという。お義姉さん、はじめまして。妹がお世話になっております(初めましてじゃなかった。妹の結婚式んときの親族紹介で遠目でご尊顔を拝しているはず)。挨拶はこのくらいにして本文に戻る。私、豚肉も1か月絶ったことがある。「ベイブ」(豚が主人公の映画)を見て感動しまくって金輪際豚肉は食べないと誓ったときだ。誓いはもろくも1か月で破られたが(ベジタリアンには到底なれない)。因みに「ベイブ2」はだめ。登場人物が走り回る食肉工場ん中に豚が吊されていて作り手のデリカシーのなさに呆れた。ベジタリアンと言えば、ドイツで仲良くなったドイツ人の先生はベジタリアンだった(続く)。