平成18年3月、四国遍路(一巡目)の時に
大洲(おおず)市にある臥龍山荘を初めて訪ねました。
第四十三番札所明石寺(めいせきじ)を打ってから卯之町の松屋旅館に泊まり、
翌朝、卯之町から鳥坂峠のへんろ道を越え、大洲を目指しました。
午後になってようやく大洲へ辿りつき、
肱川の対岸に臥龍山荘を見たときの印象は今でも鮮明です。
清らかな水を満々と湛える臥龍淵の崖の上に
茅葺き屋根の風流な茶室(不老庵)が浮いているように在り、
一幅の山水画のようでした。
対岸に座り込んで眺めていましたが、どうしても寄りたくなったのです・・・。
その時のことを思い出しながら、西予の旅の初日に臥龍山荘へ行きました。
「蓬莱山が龍の臥す姿に似ている」ことから、第三代大洲藩主・加藤泰恒が
この地を「臥龍」と命名したと言われ、幕末まで歴代藩主の別荘地でした。
明治になり、荒れたままだった庭園を貿易商・河内寅次郎が買い取り、
10年かけて臥龍山荘を築き、明治40年に完成しました。
母屋の臥龍院には、清吹(せいすい)の間、壱是(いつし)の間、霞月(かげつ)の間があり、
それぞれに風流な意匠が凝らされています。
清吹の間は四季を表わす欄間の透彫が美しく、光と影を巧みに取り入れていました。
春は西側の書院窓の花筏、夏は北側窓の水、秋は南側欄間の菊、
そして冬は東側の雪輪の窓・・・この裏は仏間になっていて蝋燭を灯すと、
清吹の間からは雪明かり、霞月の間からは月明かりとなっています。
臥龍山荘で一番素晴らしいのは露地の石組みです。
一つ一つ吟味された石が使われていて、神戸の庭師「植徳」さんが
10年がかりで作庭したそうです。
飛び石に使われているてまり石、臼石、伽藍礎石が青苔に映えていました。
石組を楽しみながら進むと、昭和24年に浴室を茶室へ改造したという
「知止庵」(ちしあん)がありました。
二畳の小さな茶室ですが、「知止」の扁額は十代藩主・加藤泰済の筆、
壁の腰張は第三代藩主・加藤泰恒の「茶方日記」の反古です。
大洲藩で陽明学を教えていた中江藤樹の説いた教えから
「知止」という庵名が付けられました。
「知止」とは、「人というものはいつでも止める(止まる)ことを知らなくてはいけない」
という意味だそうです。
どこかの国の首相に聞かせてあげたいな・・・と、つい考えました。
最後に、あの不老庵です。
臥龍淵の崖の上に舞台造りに建てられた数寄屋で、
生きた槙の木が捨て柱として使われていました。
この庵そのものが舟に見立てられ、
天井は弓のように曲げられた網代張の一枚天井。
川面の月光を天井に反射させる趣向になっているそうです(・・・ステキですね)。
三方開いている不老庵の広間は涼しい風が通り抜け、
大の字になって寝ていたいと思う空間でした。
広間の入り口に茶室(三畳台目)がありましたが、見学できず残念です。
あとで、息子たちが
「風が吹いて気持ちが良かったので不老庵で寝ていたよ」
(西予の旅 前へ) (次へ)
大洲(おおず)市にある臥龍山荘を初めて訪ねました。
第四十三番札所明石寺(めいせきじ)を打ってから卯之町の松屋旅館に泊まり、
翌朝、卯之町から鳥坂峠のへんろ道を越え、大洲を目指しました。
午後になってようやく大洲へ辿りつき、
肱川の対岸に臥龍山荘を見たときの印象は今でも鮮明です。
清らかな水を満々と湛える臥龍淵の崖の上に
茅葺き屋根の風流な茶室(不老庵)が浮いているように在り、
一幅の山水画のようでした。
対岸に座り込んで眺めていましたが、どうしても寄りたくなったのです・・・。
その時のことを思い出しながら、西予の旅の初日に臥龍山荘へ行きました。
「蓬莱山が龍の臥す姿に似ている」ことから、第三代大洲藩主・加藤泰恒が
この地を「臥龍」と命名したと言われ、幕末まで歴代藩主の別荘地でした。
明治になり、荒れたままだった庭園を貿易商・河内寅次郎が買い取り、
10年かけて臥龍山荘を築き、明治40年に完成しました。
母屋の臥龍院には、清吹(せいすい)の間、壱是(いつし)の間、霞月(かげつ)の間があり、
それぞれに風流な意匠が凝らされています。
清吹の間は四季を表わす欄間の透彫が美しく、光と影を巧みに取り入れていました。
春は西側の書院窓の花筏、夏は北側窓の水、秋は南側欄間の菊、
そして冬は東側の雪輪の窓・・・この裏は仏間になっていて蝋燭を灯すと、
清吹の間からは雪明かり、霞月の間からは月明かりとなっています。
臥龍山荘で一番素晴らしいのは露地の石組みです。
一つ一つ吟味された石が使われていて、神戸の庭師「植徳」さんが
10年がかりで作庭したそうです。
飛び石に使われているてまり石、臼石、伽藍礎石が青苔に映えていました。
石組を楽しみながら進むと、昭和24年に浴室を茶室へ改造したという
「知止庵」(ちしあん)がありました。
二畳の小さな茶室ですが、「知止」の扁額は十代藩主・加藤泰済の筆、
壁の腰張は第三代藩主・加藤泰恒の「茶方日記」の反古です。
大洲藩で陽明学を教えていた中江藤樹の説いた教えから
「知止」という庵名が付けられました。
「知止」とは、「人というものはいつでも止める(止まる)ことを知らなくてはいけない」
という意味だそうです。
どこかの国の首相に聞かせてあげたいな・・・と、つい考えました。
最後に、あの不老庵です。
臥龍淵の崖の上に舞台造りに建てられた数寄屋で、
生きた槙の木が捨て柱として使われていました。
この庵そのものが舟に見立てられ、
天井は弓のように曲げられた網代張の一枚天井。
川面の月光を天井に反射させる趣向になっているそうです(・・・ステキですね)。
三方開いている不老庵の広間は涼しい風が通り抜け、
大の字になって寝ていたいと思う空間でした。
広間の入り口に茶室(三畳台目)がありましたが、見学できず残念です。
あとで、息子たちが
「風が吹いて気持ちが良かったので不老庵で寝ていたよ」
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