麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第538回)

2016-10-24 00:32:48 | Weblog
10月23日

中島みゆきの歌を愛する女は、美人でもブスでもない。容姿偏差値55から58ぐらいの女。頭はもう少し上で60から62ぐらい。彼女は自分の容姿のランクを知っている。そうして、つねに自分より上のランクの男を好きになる。自分に不足しているものをおぎなうために。もちろん、そういう男には、ひとり、もしくは複数の女がいる。彼女はそれに勘づいてはいるが、わざとはっきりさせない。そうして、彼に対しガードを甘くし、やらせる。と、すぐに彼女は、彼を「やつ」と呼びはじめ、「彼の女」になったことを周囲に宣言する。そこから彼女はとても活動的になる。あいまいにしておいた事実の確認をしらみつぶしに実行する。やはり女は何人かいる。みんな自分よりきれいだ。頭は悪そうだが。フン。彼はなんとなくやっただけの女のことを、ほとんど「彼女」とは思っていない。だからそれほどたびたび女と会おうとはしない。ただ自然に避けている。女は泣く。友だちを呼び出し、「やつ」の女ぐせの悪さ(ほとんど知っていてやらせたのだが)、ひどいしうちについて泣きながら語る。それはとても気持ちがいい。うんざりしている友だちを前に、しゃべればしゃべるほど快感は肥大する。美人でない以上、恋愛において、彼女にはプラス方向の「本当に満足できる幸せ」を手に入れることはできない。自分をごまかすには中途半端に頭の偏差値が高い。しかし、容姿のランクが高い男を物語に絡めることで、マイナス方向の「本当に満足できる幸せ」を手に入れることはできる。「その男の女」として泣き、彼の女として不幸であることで、彼女は自分のランクでは本来手に入れることのできない「派手さ」を身にまとうことができるのだ。中島みゆきの歌は、その快感をあおり、肥大させる力を持つ。その才能は誰もが知る通りだ。だが、その歌をほめそやす男たち(インテリが多いのだが)の多くは、自分が、歌の中に出てくる「やつ」や「彼氏」にはカウントされない、ランク外の男だということに気づいていない。

――ある長編(中編?)の、脇のエピソードとしてなんとなく考えていたのですが、(主人公の大学生がこういう女(中野の飲み屋でバイトしている)を好きになり、一生懸命心配しながら話を聞き、彼女を「救おう」と考えるのですが、当然のように滑稽な結末を迎える)それを書き始めることはないだろうと思い、エキスだけむき出しのまま書きました。なぜそれを今日書きたくなったのかはわかりません。
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