麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第217回)

2010-04-04 11:20:07 | Weblog
4月4日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

風邪がまだ治りません。
こういうところに、本当に年齢を感じますね。



林望訳「源氏物語」が出ました。もちろん、買ってきました。
「桐壺」だけ読みました。漢字が読めないところがあって、熟読できません。
大塚訳「桐壺」を読み直しました。やっぱりわかりやすい。それと、訳者と同世代なので、言葉に対する感覚がぴったり同じですっとする。
やはり、大塚訳と与謝野訳がいちばんしっくりきますね。ただ、目標としては、大塚訳で細部まで理解したら、また谷崎訳に戻って読み直したいという感じ。そうする時間が残されているかどうか。



実は「セクサス」新訳を通勤電車内ですでに半分読みました。
爽快感は昔以上。ただ、ミラーの観念的記述はさっぱりわかりません。今回はそれを強く感じています。大久保訳とも読み比べてみたけど、同じこと。案外それほど深みはないのかもしれません。やはり「北回帰線」が一番すぐれているように思います。でも、破格に楽しいです。ベースになるコードがまったく違いますが、セリーヌの「なしくずしの死」もやはり同じような爽快感があります(読了してすでに20年くらい経っていますが)。セリーヌはミラーを罵倒し、ミラーはセリーヌを尊敬している。しかし、2人とも熱狂的なプルースト崇拝者であることは共通しています。室内派の学者にも、せわしない作家にも、ホモにも実存主義者にもシュールリアリストにも、ボンクラにも等しく尊敬されるプルースト。一度も職業に就かず、最後は10年以上部屋にこもりきりだった男のどこが、まったく違うタイプの人々の心をひきつけるのか。おかしな言い方ですが、それは彼が本当に「サムライ」だったからであり、ベッドの上で自分の戦いを戦い抜いて死んだ世にもめずらしい男らしい男だからだと思います。男らしいとは、いかつい容姿を持つことや、虚勢を張ることや、雄たけびをあげることではなく、ひとり黙って自分の戦いに就くことだということを実践してみせた稀有な人間。その行為がまた、すでに手遅れの母への贖罪にすぎず、結局は無であるということを「すでに暗い森」のように感じながら「空はまだ青い」と信じ、少年の心のまま生ききること。「失われた時~」に触れた人々は、そんな、普通不可能な生と、それを可能にした驚異の脳とその明晰な言葉にただ脱帽するしかないのだと思います。セリーヌの作品もミラーの作品も、一見「どこがプルーストと関係があるの?」と思わせる外観をしています。でも、それこそ、彼らがプルーストの発したメッセージを正確に聞き取っている証拠。「どこまでも自分自身になれ」。たぶん、彼らが聞いたのはそういう声だと思います。



では、また来週。
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