麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第514回)

2016-01-11 13:03:14 | Weblog
1月11日

「マハーバーラタ」全訳は、ドラウパディーがパーンドゥ5兄弟の共通の妻になるくだりまで読んだところで休止(レグルスにはない、本筋と無関係の、ガンダルヴァの王・チトララタの話が長すぎてちょっと疲れました)。以前ここで書いた、集英社の「ポケットマスターピース」シリーズのバルザックを読もうと、買ってきました。が、思ったより活字が小さくて挫折。それで、以前から持っていた「あら皮」(「人間喜劇セレクション」を古本屋で買ったもの)を読み始めたら、おもしろくて3日で読み終えました。バルザックはスタンダールほどではないけど苦手な作家で、「セラフィタ」以外で長編を読み終えたのは、はじめてです(学生のころ短編「知られざる傑作」は読みました)。その勢いに乗ってマスターピースに戻り、4~5日かけて、さきほど「ゴリオ爺さん」を読了しました。途中「吉本新喜劇か」とか「リア王のパロディか」とか感じたりしましたが、おもしろかったです。「マスターピース/バルザック」という本には、「ゴリオ爺さん」のほかに「幻滅(抄)」「浮かれ女盛衰記第四部」が収録されているので、それは読もうと思います。――しかし、おもしろかったのは確かなのですが、なにかただイメージとして書けば、バルザックはどこか女のひとっぽいですね。オカマではなく、優等生の女の子という感じ。「無」(「清潔で明るいところ」の「ナダ」)がない、というか、前向きにしか生きられないという点で。

フローベールには完全に「無」があるし(「ブヴァールとペキュシェ」や「聖アントワーヌ~」は「無」の喜劇といっていいでしょう)、バルザックを尊敬し翻訳書まで出したドストエフスキーは常に「無」と背中合わせです(ニコライ・スタヴローギンは「無」そのものの擬人化といってもいいでしょう)。同じフランス社交界を描いた(時期はまるで違うのでしょうが)プルーストも、「無」こそその作品の源泉です(「コンブレー」の冒頭は「無」の描写といってもいいでしょう)。「ゴリオ爺さん」が大天才の作で鼻血がでるほどのリアリティをもっていることはたしかですが、正直私には胸の奥底まで響いてくるものはありませんでした。なぜなら、電気少年からくずれてギター小僧になった私が(以前バカにしていた)文学に触れる気になったのは、「無」を見たからで(最初は2㎝くらいの幅しかなかった「無」)、その動機がなければ、いまだに文学にも哲学にも没入することはなかったと思うから。

なんとなく、この読後感は、以前仕事で書評を書くためにときどき手に取った科学啓蒙書の読後感のようだと感じます。そういう本では、「宇宙の死滅」とか「暗黒物質」とかいう、「宇宙には先験的には意味がない」という事実を立証する概念がこれでもかと披露されるのですが、筆者はそういうことを書きながらも、自分の人生はまったく無意味とは感じておらず、毎日満足して生きているのが伝わってくるのです。「宇宙に先験的に意味がないなら、おまえの人生にも意味がないのだから、その無意味に苦しまないのか」と、彼にたずねたとしても、「無だと知っているのは俺が東大卒で頭がいいからで、俺には頭がいいという点で完全に意味があるのだ」と、(もし正直な人なら――そんな人はいないでしょうが)答えるでしょう。宇宙が無意味なら、頭がいいという概念も無意味だとは、彼らは考えたこともないのです(それが、私が高校時代、理系と決別しようと決めた最も大きな理由です)。

つまり、彼らは一度も本当に「無」に直面したことはないのです(行間から聞こえてくるのは「まあ、俺は頭がいいから」という、自分に慢心したエリートの声。「ゴリオ爺さん」にもそれと同じ感じが漂っています。社交界が無情で無意味なところだと作者がいくら書いても、その行間から、「でも俺はそれが大好きだし、その中でうまく立ち回っていろんなぜいたくも知っているんだ」という自慢のほうがより大きな声で聞こえてくる。とても「無」どころではない。人間を「喜劇」ととらえながらも、うまいものをたらふく食い、その喜劇作品を膨大な量生み出し積み上げていく自分という喜劇については、作者はどう考えていたのか。もうストーリーも忘れてしまって印象しか残っていない「知られざる傑作」や、あらすじだけ知っている「絶対の探求」などを読めばそれがわかるのでしょうか。スタンダールに再々挑戦する気はまったくありませんが、バルザックはこれを機会に読めるものはときどき読んでみようと思います。


――「セラフィタ」はほとんど理解できませんでしたが、両性具有というテーマは、バルザックにとって個人的に書かなければならないテーマだったのでは、と、今回「あら皮」「ゴリオ爺さん」を読んで感じました。それは、バルザック自身が女の子だから、だと思います。


――上の、科学啓蒙書について書いたことは、たぶんフッサールの現象学につながると思います。学問が細分化され、文献や発見・発明は膨大になり、それを学ぶにも努力と時間が必要だが、では、そこまで緻密・膨大になってきた学問は何のためにあるのか。どういう「意味」の上に建てられた巨大なビルなのか。それがわからなくなっているのではないか。それではいくら時間をかけて専門分野の情報の渦の中で学ぼうとも結局ただの暇つぶしにすぎないのではないか。――その「意味」を、赤ん坊が手探りで世界を自分なりに確かめていくように、既成の概念に頼らずもう一度確かめていこう、というのがフッサールの提唱したことだと思います。その弟子であるハイデッガーの「存在と時間(有と時)」は、それを実践した行為の記録、つまり「世界の意味をまさぐっている手」の感触報告なのです。――このことはいつか書きたかったのですが、思わぬタイミングで書けました。――私の理解の仕方、というだけですが。――そうだ。つい最近、昔の「世界の名著」から、フッサールの「デカルト的省察」が中公クラシックスに体裁を変えて出ました。縁あってそれも読みましたが、講演記録なので読みやすく、とても感動的な本でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする