麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第513回)

2016-01-03 08:54:22 | Weblog
1月3日


カメラマン・宮島径さんの写真展が1月7日(木)から29日(金)まで渋谷で開かれます。詳しくは、右のブックマークの宮島径ホームページでご確認を。


ご本人がどう感じられているかはわかりませんが、宮島さんの写真を見ると、いつも頭に浮かぶのは「地球の思い出」という言葉。昔、地球という星があって、そこではこんな形や色が存在した……。未来、いや(時間が円環だとしたら)過去かもしれませんが、どこか遠い時空で、しかも自分が地球のことを知らない異類になってさまざまな表象を見ているような、そういう気分になる。

写真は、それを撮る人の頭の中にある情景そのもの。ということは宮島さん自身が異類の目をもっているということでしょう。見る人はその目を経験しているわけです。

その目の根底にあるのは、平等性だと思います。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です

と、宮沢賢治のいう「現象」。すべてをその現象としてとらえること。雲の形も人間の形も人間が作った建物もみな現象。カメラがとらえるのは現象の表皮としての光で、そこにはその形・色を作り出している生物と無生物、背景と主役の差はなにもない。実在(とふだん呼ぶもの)と観念の差も。実際の土地と地図上の土地に差異はない。もっといえば、人間が名付けた、山、川、海、昼、夜なんでもいい、すべての名称になんの意味もなくなる。そういう意味での平等性。それが宮島さんの異類の目の正体ではないか、と思います。
それは、多くのカメラマンの目とは真逆といえるでしょう。ふつう「写真を撮る」とは、差別をすること。主役と背景、自然と人間、美しさと醜さを差別する目を披露することです。私たちはそこに撮った人の観念を見ることになります。多くはなまなましい、押しつけがましいともいえる観念を。――もちろん、写真(絵も同じですが)に共通の平等性――瞬間で切り取ることで、それぞれの被写体独自のスピードが無化される(たとえばせかせか動く動物とゆっくり動く植物の差異がなくなる)も、宮島さんの目の一部ですが。

宮島さんの写真には観念の押しつけがましさがまったくない。写真に差別を見ることに慣れている私たちには、ときには、それが「わかりにくさ」のように作用することもあるでしょう。しかし、そう感じたら、それは私たちがいかにふだん観念に縛り付けられているかの証拠。宮島さんの写真は、私たちがもっと自由になることを求めているのだと思います。

宮島さんの目は異類の目、ある意味、冷徹な目です。しかし、反対に、それは観念に縛られない無邪気な子供の目にも近いでしょう。また、すべての無意味化は、すべてに意味があることにもつながる。ある瞬間の、人間という生き物の観念(たとえば「美しい地球」などという観念)を通さずに見た世界の様子は、神の、製作途中の世界(あるいは途中で飽きて放置されたままの世界)の忠実なうつしなのかもしれません。


勝手なことを書きましたが、以上は私個人の感想で、宮島さん本人は、「いやあ、私はなにも考えてないです」と言いそうな気もします。ぜひ皆さん、先入観なしで宮島さんの写真を楽しみに行ってみてください。
コメント
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