麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第201回)

2009-12-13 17:29:22 | Weblog
12月13日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

先週書いた「ブレイス・ブリッジ邸」は、「ブレイスブリッジ邸」の間違いです。
すみません。

「聊斎志異」第五巻が出たので買ってきました。
まだ、四巻の200ページあたりで止まっていて、五巻にとりかかるのにはもう少し時間がかかりそうです。



唐突ですが、「影響」ということについて、いつも考えていることを書いてみます。
私は、このブログで、プルーストやドストエフスキーなどについて何度も書いていますが、それを読まれた方の中には、「そんなに偉い人のものを読み込んだのなら、おまえの創作の文章に少しもその影響が見られないのはなぜだ? 才能がないのはわかっているが、もう少しどこかそういう才気の片鱗を感じさせるような文章を書くことはできないものか」と、思われる人もいることでしょう。

たしかに、世の中には、自分が好きになったものの影響がモロにうかがえて、作った人もそれを誇りとしている、というような創作があります。たとえば、村上春樹さんがデビューしたあと、小説では、物語に入る前のところで書き手が文章や人生についてひと言発言をする、という創作スタイルがずいぶん流行ったように思います。「僕は長い間、〇〇を××したのだけれど、それは結局△だと思うようになった。たとえば、ウスバカゲロウという生き物は~」とか、そういう感じの文章です。また、語り口のリズムが、一読太宰治を感じさせるとか、漱石的だとか、そういう創作も見かけます(ほとんどすべて立ち読みですが)。そういうとき、私は、その作者の方たちが、「俺には、元ネタになっている大作家を完全に消化吸収するだけのセンスと頭のよさがあるんだ。だから、彼を賞賛するのと同じように俺も賞賛しろ」と胸を張って言っているように感じられます。もちろん、彼らには書店に並ぶ本を書けるすごい才能があるのだからそう言う権利があるし、もともとすべては模倣から始まるわけだから、それはそれでいいのでしょう。ただ、私にわかるのは、自分はそういうことができないということです。

私はむしろ、自分が書いていて、尊敬する作家の文章に見かけだけ(もちろん見かけだけです)似てきた場合は、すぐに書くのをやめたいと思うような人間です。なぜかというと、そんなものは、生まれてくる必要のない創作だと思うからです。その模倣文のような世界が味わいたいのなら、直接本家の作品を読めばいいと思うからです。

私がプルーストやドストエフスキーを読んでいるとき聞こえてくるのは、「誰かの文体や創作上の人物を本歌取りし、文芸実験室でこねくりあげて、センスと頭のいいところを見てもらえ」というような声ではなく、「どこまでもおまえ自身になれ。おまえの問題だけを扱え。おまえの歌だけに集中しろ」という声です。パスカルを読んでも、ニーチェを読んでも、いつも聞こえてくるのはそれだけです。逆にその声が聞こえてこないものは自分にとって意味のないものです。「自分の言葉で、自分の問題を」。惨めな結果に終わろうとも、自分には他のやり方はありません。



では、また来週。
コメント
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