麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第118回}

2008-05-06 16:35:42 | Weblog
5月6日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

更新が遅くなって申し訳ありません。

昨日まで、すごくじめじめしていて、頭の中にもカビが生えたような気分で、どうしてもコンピュータを立ち上げられませんでした。

湿度計を見ると、いまは40%を切っています。
これくらいがちょうどいい湿度ですよね。

3日間、誰とも会わず、話もしていないので、自分の自然なバランスが戻ってきていて、これもちょうどいい感じです。



前に、創作のテーマについて書きました。
そのとき書いたように、私には、多くのメジャー作家が選び、また多くの方がそれに共感するようなテーマが、自分にとって切実ではない場合が多いのですが、もちろん、では、自分がテーマとしているもの、たとえば「風景を~」のテーマのひとつである、「愛情だけで勃起すること」に、多くの人の共感が得られるとは思っていません。

むしろ、笑われて終わりという場合がほとんどだろうと、書いているときにも思っていました。「こんなもの、まじめなテーマになるわけないだろう。マンガか」と。

しかし、このテーマは、子どものころから、私にとって、これ以上ない切実なテーマでした。

なぜなら、私はこれまで一度も、愛情で勃起したことがないからです。

いやらしいことをしたいな、とか、いやらしいことをしているな、という観念で勃起してきましたが、それは愛情ではありません。ひとかけらも。

愛情という概念そのものもよくわかりませんが、私にわかるそれに近い概念とは「愛着」です。愛着とはつまり「回数」です。回数が多いと習慣になり、愛着になる。

ひげ面のまま満員電車に乗って、お母さんが抱いている赤ん坊と目が合う。赤ん坊は、私のつらが恐ろしいので、おびえたような顔になり「泣いてみようか」といった動作をします。私は目をそらし、人の陰に入る。電車が動き出す。と、なにげなく見てみると、赤ん坊は、私を探していたらしく、今度は目が合うと笑顔になりました。なぜでしょうか。そう、彼にとって、私を見たのは二回目だからです。いやでおそろしいつらだったから、最初は泣きそうになったのですが、私が身をかくしたことで、彼は「知っているものが見えなくなった」という喪失感にとらわれ、その少しあとでまた私が見えたときには、「知っているものにまた会えた」のでうれしかったのでしょう。

このように「回数」は自然、愛着を生みます。

愛着を愛情と呼ぶのなら、私にもわかります。ただし、それは「習慣」と同じ性質のものであり、安心感はともなっても、非日常的な「いやらしさ」(これはちょっとあっさりいいすぎですが、いまは「いやらしさ」がテーマではないので展開しません)を生み出すものではありません。

だから当然、肉体関係を持った一人の女を愛し始めれば、勃起する回数は減っていきます。それは当然のことでしょう。愛している者に対していやらしい気持ちなど抱けるはずがありません。なのに、そうなると女はいうのです。

「私を愛していないの?」と。

まさに、その女を愛し始め、愛し始めたからこそ勃起ができなくなったのに、そういわれるのです。

まあ、これは私だけがそうなのかもしれない、とも思います。なぜなら、よく、小説には、「彼は〇〇を深く愛していた」と書いてあって、そのあとで、ちゃんと普通にセックスをする場面が書いてありますから。でも、私の場合は、もしその女を、肉体関係のないままに深く愛したのならセックスを求めるということはないし、肉体関係を持った女を深く愛し始めたらもうセックスはできないのです。

おそらく、多くの方は、「愛しているから君がほしい」と言っても嘘をついたという感じもなく、矛盾も感じないまま人生を送られてきたのかもしれません。しかし、精神的不具者である私には、そういうことは死ぬまでできそうにない芸当です。それどころか、「愛情で勃起すること」を目指す油尾を多くの方が笑うのと同様、私は最後まで、映画や小説で「愛しているから君がほしい」というようなセリフを見かけたら、腹の皮がよじれるくらい笑って、そこで鑑賞するのをやめるに違いありません。これまでずっとそうだったように。



では、また来週。
コメント
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