7月8日
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
短編集「画用紙の夜・絵本」は、まだできあがりません。
完成報告ができるのは、来週になりそうです。
☆
最近読んで、いいと思った詩歌を書いてみました。
読んでみてください。
この人生、くよくよ甲斐のない物思いなどに耽るより、一杯の濁り酒でも飲む方がましであるらしい。
分別ありげに小賢しい口をきくよりは、酒を飲んで酔い泣きでもしている方がずっとまさっているらしい。
たとえ夜光る貴い玉でも、酒を飲んで憂さ晴らしをするのにどうして及ぼうか、及ぶはずがない。
この世の中のいろいろの遊びの中で一番楽しいことは、一も二もなく酔い泣きすることにあるようだ。
この世で楽しく酒を飲んで暮らせるなら、来世には虫にでも鳥にでも私はなってしまおう。
これがなんだか、わかりますか?
まるでオマル・ハイヤームの「ルバイヤート」みたいですが、実は、万葉集です。
1000年以上経っても、緯度や経度や宗教が違っても、人間はまったく同じことしかいわないのだな、とあらためて感じます。
「萬葉集・釈注」(全十巻)、現在二巻の最後あたりにさしかかっています。
前に、歌だけ読んだときも思ったのですが、私は、どうやら高市黒人の歌が好きみたいです。
旅先にあってなんとなく家恋しく思っている時、ふと見ると、先ほどまで山の下にいた朱塗りの船が沖のかなたを漕ぎ進んでいる。
こういうこと、ありますよね。よく。どうも、学生時代に授業で少しやったときも、柿本人麻呂の歌をそんなにいいとは思えなかったのですが、今回読んでも、巧みだとは思ってもあまり感動できないのは、やはり好き嫌いでしょうか。それにくらべて黒人の歌は、特別技巧を凝らしているようには見えないし、すっとぼけているようなのに、どこか悲しい、いい歌だと思います。あらためて感じますね。
たぶん、これは、フローベールの小説をいいと思うのと似ていると思います。フローベールは、キャッチコピーみたいなかっこいい言い回しをすることは皆無だし、語彙もそれほど豊富なように見えません(もちろん、この偉大な作家の場合、意図してそうしているわけですが)。言葉の並べ方も日常的なのですが、そこから見えてくる情景は、ときとして恐ろしいほど感動的です。盛り上げ方がうまいのではなく、真実の写しとり方が見事なのです。もちろん、レベルは10桁違っても、私が目指すのはそのような作品です。読んですぐ、
「なんてうまく書くんだろう。この人は」と思わせるような文章ではなく、そこに登場してきた人物や風景に、読者の意識が集中すること。それこそがよい作品だと信じるからです。写真で言えば、「なんてうまい構図だろう」などと思う必要もなく、ダイレクトに被写体に心をもっていかれること。それがいい写真だと信じるからです。「なんてうまく書くんだろう、この人は」。そんな意識、必要のない意識ですよね。自分の商品を持ち上げてうまく売ってくれそうな太鼓もちを探している商売人以外には。あるいは、その人のうまさに気づいた自分の偉さを知らせようと評論を書く阿呆以外には。
「そんなに自分の作品観がはっきりしているなら書けよ。ひたすら」
わかっています。わかっているんですが……。
朝顔に われは飯食う男かな(芭蕉)
「朝顔に……」とつぶやいても、詩人と違ってなんの詩情も浮かんでこない。俺は朝顔を見ながら朝飯をパクついている男だ。
という感じです。
では、また来週。
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
短編集「画用紙の夜・絵本」は、まだできあがりません。
完成報告ができるのは、来週になりそうです。
☆
最近読んで、いいと思った詩歌を書いてみました。
読んでみてください。
この人生、くよくよ甲斐のない物思いなどに耽るより、一杯の濁り酒でも飲む方がましであるらしい。
分別ありげに小賢しい口をきくよりは、酒を飲んで酔い泣きでもしている方がずっとまさっているらしい。
たとえ夜光る貴い玉でも、酒を飲んで憂さ晴らしをするのにどうして及ぼうか、及ぶはずがない。
この世の中のいろいろの遊びの中で一番楽しいことは、一も二もなく酔い泣きすることにあるようだ。
この世で楽しく酒を飲んで暮らせるなら、来世には虫にでも鳥にでも私はなってしまおう。
これがなんだか、わかりますか?
まるでオマル・ハイヤームの「ルバイヤート」みたいですが、実は、万葉集です。
1000年以上経っても、緯度や経度や宗教が違っても、人間はまったく同じことしかいわないのだな、とあらためて感じます。
「萬葉集・釈注」(全十巻)、現在二巻の最後あたりにさしかかっています。
前に、歌だけ読んだときも思ったのですが、私は、どうやら高市黒人の歌が好きみたいです。
旅先にあってなんとなく家恋しく思っている時、ふと見ると、先ほどまで山の下にいた朱塗りの船が沖のかなたを漕ぎ進んでいる。
こういうこと、ありますよね。よく。どうも、学生時代に授業で少しやったときも、柿本人麻呂の歌をそんなにいいとは思えなかったのですが、今回読んでも、巧みだとは思ってもあまり感動できないのは、やはり好き嫌いでしょうか。それにくらべて黒人の歌は、特別技巧を凝らしているようには見えないし、すっとぼけているようなのに、どこか悲しい、いい歌だと思います。あらためて感じますね。
たぶん、これは、フローベールの小説をいいと思うのと似ていると思います。フローベールは、キャッチコピーみたいなかっこいい言い回しをすることは皆無だし、語彙もそれほど豊富なように見えません(もちろん、この偉大な作家の場合、意図してそうしているわけですが)。言葉の並べ方も日常的なのですが、そこから見えてくる情景は、ときとして恐ろしいほど感動的です。盛り上げ方がうまいのではなく、真実の写しとり方が見事なのです。もちろん、レベルは10桁違っても、私が目指すのはそのような作品です。読んですぐ、
「なんてうまく書くんだろう。この人は」と思わせるような文章ではなく、そこに登場してきた人物や風景に、読者の意識が集中すること。それこそがよい作品だと信じるからです。写真で言えば、「なんてうまい構図だろう」などと思う必要もなく、ダイレクトに被写体に心をもっていかれること。それがいい写真だと信じるからです。「なんてうまく書くんだろう、この人は」。そんな意識、必要のない意識ですよね。自分の商品を持ち上げてうまく売ってくれそうな太鼓もちを探している商売人以外には。あるいは、その人のうまさに気づいた自分の偉さを知らせようと評論を書く阿呆以外には。
「そんなに自分の作品観がはっきりしているなら書けよ。ひたすら」
わかっています。わかっているんですが……。
朝顔に われは飯食う男かな(芭蕉)
「朝顔に……」とつぶやいても、詩人と違ってなんの詩情も浮かんでこない。俺は朝顔を見ながら朝飯をパクついている男だ。
という感じです。
では、また来週。