麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第58回)

2007-03-11 19:04:18 | Weblog
3月11日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

更新がおそくなりました。
申し訳ありません。

「サライ」が、吉行淳之介特集を組んでいたので30分くらい立ち読みをしていました。

作品全般を好きというわけではありませんが、私が学生のころ角川文庫で出た「子どもの領分」と「菓子祭」は、すごく好きでした。つい先日、「街の底で」を読んだら、これもおもしろかったです。

ただ、これは仕方ないのでしょうが、バーとかでの会話のシーンなどは、なにか、こう、私が子どものころにテレビドラマや昔の映画で垣間見たような大人の世界の「その当時はそれがかっこよかったのかもしれないが……」という言い回しが多くて、なかなか入っていけないこともあります。とくに、女性が男性に敬語を使うのが普通で、男のほうも、それを当たり前と受け止めている、といった当時の雰囲気が、私には単純に「あほらしい」ように感じられてたまりません。もちろん、いまも、金持ちの階級では、そういうことが当たり前なのでしょうが、少なくとも私の所属する階級では、死に絶えてひさしい情景のように思います。
女という強者の味方をする気はさらさらありませんが、そういう部分では、上野なんとかさんや富岡多恵子さんに「男流文学」とののしられても仕方ないかな、という気もします。

しかし、吉行淳之介はハンサムですね。

ハンサムで、頭がいいんだろうな、と思います。

そうして、そういう人はおおかたそうですが、そのことをとてもよく自分で知っている、もっといえば、その特長の生かした方をよく心得ている、と思います。
吉行淳之介は、「世の中(人生だったかな?)が、仕立てた背広みたいに自分にぴったり合っている人に文学は必要ない」というようなことを言っています。
それは、もちろん、そうでしょう。

そうして、彼の作品の登場人物は、世の中にぴったり合わない人たちが描かれることになるのですが、しかし、私には、その人物たちが、それほど大きく世の中からはみ出している人とは思えないのです。つまり、昭和30年代に東京大学のクラスの中で、「あいつはちょっと変わってる」といわれる程度のはみ出し方。しかも、そのはみ出した主人公は、どうやらハンサムであるらしく、女には自然にモテるし、だから受け入れられずに苦悩したりすることもないのです。
 吉行文学では、極端に言えば、ブサイクだし東京大学出身でもない人間は、切り捨てられています。マルメラードフのような人間が描かれることはまったくないのです。彼らは、ブサイクで東京大学ではない以上、その悩みも単純で動物的なものであるにちがいなく、繊細さのかけらもないのだから、わざわざ文学という高等芸術に描くまでもないということなのでしょう。
 
 彼のような人は、実業で成功する代わりに、その資質から別の道で成功者になったというだけのきわめて優秀な人間であり、背広を裏返しに着るという一見ふざけた着方をしているが、実は、その背広はぴったりと体にフィットしており、自分でもそのことをよく知っている、という人物なのではないでしょうか。

 それは、とても巧妙な知恵者の人生だと思います。そうして、現代作家には、このような巧みな人が多いような感じがしてなりません。そうして読者のほうも、批評眼を持った、ハンサムか美人で東京大学の人(これは比ゆです)ばかりのような気がします。
 (「東京大学」が比ゆである証拠をあげると、たとえば、私にとっては、色川武大は、現実には東京大学を出ていないが、東京大学の作家であり、庄司薫は、現実には東京大学の出身者ですが、東京大学の作家ではない、ということになります)

 もちろん、私が描きたいのは、マルメラードフであり、スヴィドリガイロフであり、読んでもらいたいのは、自分が生まれてきたことにあまり意味を感じられない高校中退者(これは比ゆです)の人たちです。

では、また来週。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする