麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第54回)

2007-02-11 18:57:00 | Weblog
2月11日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

とうとう風邪を引いてしまって、まいっています。
湿度が30パーセントを切っているのに、いま気がつきました。

「友だち」を進めたいのですが、どうしても入っていけません。
すみません。

今週も、ノートから文章を写してみます。

では、また来週。
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ノートから

2007-02-11 18:55:13 | Weblog
 ハイデッガーのすごいところは、くまなく自分を提示しているところだろう。
「有と時(存在と時間)」には、小説を読むようなおもしろさがあり、読書の悦楽がある。この本で、ハイデッガーは、こう言っている。
「新しい時代だって? テクノロジーの、非人間的な、ただ『進むから進む』だけの進化にのっかって、せかせかと生産、商売にはげむおまえたち。いくらおまえたちが生き生きと人生を生きているツラをしていても、おまえたちに根源的な意味はない。なぜ人間はあるのか? そもそもそれがわからなければ何が意義のあることなのかわかるわけないだろう? 俺は立ち止まるぞ。俺だけは立ち止まる。そうして、おまえたちに、時代遅れだ、陰気だと言われながら、俺は考え抜く。本当の生の意味を。それだけが本当の行為だ!」
 このメッセージは、「偉大さ」にあこがれる若者のストレートなメッセージであり、あまりに人間的である。
「出版されるやいなや、哲学界に深刻な影響を与えた」と、どの翻訳書の解説にも必ず書いてあるが、そんなもってまわった言い方をしなくても、学者たちは、ただこう言えばよかったろう。
「うおーっ。全面的にあんたに賛成だ。ハイデッガーっ!」と。
 ショーペンハウアーの言葉に倣えば、「商売として大学で哲学を教えているやつら」は、おおかた、いったい自分が学問に奉仕しているのか、国に奉仕しているのか、家族に奉仕しているのか、それとも自分は実生活ではなんの役にも立たないガラクタなのか、自信が持てなかった。そこにハイデッガーが出てきて、自分たちの目的、学者としての存在理由をはっきりさせてくれたのだ(これは、ニーチェのいう「あらかじめ想定されたのでなければ存在しなかった真理」だが)。
「そうだ。俺はそのために学者であったのだーっ。これが、俺の言いたくて言えなかったことなのだー」
 そういうメッセージは、真の芸術になら必ず聞かれるものであるが、彼らはそれが「学問的」に叙述されていることが、またとても気に入ったのだ。
 しかし、こういう仕事は誰にでもできるものではない。
 信奉者たちは、自分の素直な感動をナマでは表現できないプライドの持ち主なので(だから学者になったわけだが)、この感動をこねくりまわし、原著よりも何倍も難解な「ハイデッガー論」を書くことで、とりあえず「なにかやること」を見つけた。

「ニーチェ」の冒頭を読むと、しかし、ちょっと不安になる。ハイデッガーは、ジャーナリスティックな面を持っている。なぜなら、彼は基本的に作家だからだ。私には、ニーチェが、「力(権力)への意志」を自分の到達点と考えていたとは、まったく思えない。なぜなら、ニーチェも真の作家であり、その点では、ハイデッガーよりも偉大な作家であり、そうであれば、その著作における「私」は、つねに一人称ではあるが、物語の複数の登場人物であり、ということは、登場人物のすべてがつねにひとつの主張を繰り返す物語はありえないからだ。
「ツァラトゥストラ」にしても、ツァラトゥストラが、つねに周囲から見て自分は何者であるかを意識しているのは、この書物が、宗教書でも思想の体系を述べたものでもなく、創作だからだ。
 ニーチェにはゲーテと同様のバランス感覚がありすぎて、ひとつの思想の説教者にはなれない。
ニーチェの場合、創作の雰囲気を作り出す風景や、プロットとしての恋愛事件などが欠如した物語を書く作家なのだ。
 なぜそれが欠如してしまったのか。
 それは、彼がいつも、感覚に酔うよりも、倫理・道徳のことを考えていたからだ。コリン・ウィルソンの言葉を借りれば、ニーチェには「天才が持ってよい健全なうぬぼれ」が少ない。それは、道徳的に自分に厳しいからで、なぜそうなのかといえば、彼は聖職者の息子だからだ。おそらくオイディプスコンプレックスも含めて、彼は父親に対し罪の意識を強く感じていたはずだ。感じたからこそ、自分の、詩人となるべき感受性を殺し、有能な秀才ぶりを世間に認めさせるために文献学の教授になどなったのだ。
「父ちゃん、俺は道を外れることは外れたけど、有能は有能なんだよ。詩人のような道楽者ではないよ」と、言うために。
 結局、爆発は起こってしまったが。
 ニーチェが若いうちに、もっとうぬぼれを抱き、家出少年にでもなれていたら、それこそ彼が望んでいたような詩人に、もっと早くなれたことだろう。
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