鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

古井由吉の「槿」を読んで、30年前と全く変わっていないことを改めて確認した

2013-01-13 | Weblog
 古井由吉の旧作「槿(あさがお)」を読んだ。といってもこの本を買ったのはいまから約30年前で、当時は10数ページ読んで、あまりに難解で放り出していた。最近になって、書店などで「古井由吉自選作品集」が並んでいるのを見たり、新聞で書評が出ているのを読んで、本箱から取り出して再び読んでみようかな、という気になったのだ。純文学のせいか、ミステリー小説のように滑らかに読み進むわけにはいかなくて、読了するのに約1カ月を要したが、途中で何度でも放り出したくなるような感じで、なんとか読み終えたものの決してさわやかなものではなかった。
 「槿」は初老の主人公が友人の妹を襲って犯したような妄想を抱き、そのことをめぐってもうひとりの女友達も登場して、その記憶が真実かどうかを思いめぐらすことで、物語は進んでいく。兄である友人も登場し、その妄想の解明にあたるが、結局最後まで真実は明かされないし、わからないままジ・エンドとなる。刊行当時には谷崎潤一郎賞を受賞し、本を入れる箱の帯には「性の記憶と妄想が分離できなくなった女に分別を持って立ち向かいながら、エロスの花咲く籬を超えていく男の姿を、濃密な女性と強靭な構築力で描いて、現代の性に新領域を切り拓いた長編小説」と書いてあって、帯には朝顔をあしらった金の屏風画が描いてあったのに魅かれて読んでみようかな、という気になったものと思われる。
 ところが、購入していざ読んでみたら、新領域どころか、どこが一体面白いのか、さっぱりわからなくて、途中で放り出してしまったようで、以来ずっと本箱の隅に眠っていた。あれから30年近く経って、少しは人生の辛酸もなめて、文学の神髄を理解できるようになったのかな、との期待を持って、再び手にとって読んでみよう、という気になった。
 しかし、実際に読んでみると、30年前と全く同じで、どこがいいのか、さっぱりわからない点では全然変わらなかった。時間に余裕ができた分、辛抱して最後まで読むには読んだが、どこに良さがあるのかちっともわからなかった。「槿」と書いて「あさがお」と読ませるのもなぜかよくわからなかった。古井由吉は1971年に「杳子」で芥川賞を受賞し、ずっと同じような作風で書き続けており、いまでは純文学の大家といってもいい文学者である。その純文学がわからないということは文学の神髄がわからないということにもなる。確か古井由吉の芥川賞「杳子」も受賞当時に読んだ記憶があるが、なぜこの小説が芥川賞を受賞したのか、よくわからなかった。最近の芥川賞受賞作品を読んでも同じで、まだ直木賞の方がよくわかる。もともと鈍想愚感子は人間の性(さが)とか、生きている根源を追究するといったような純文学の好みそうなテーマはあまり好きではない。人の生き様や考え方を具体的に描くようなもののが好きなので、こうした傾向は30年前と変わらない。
 むしろ、30年経っても読書傾向はかわらないものだな、と改めて確認した次第である。多分、こうした傾向は死ぬまで変わらないであろうし、このままいくしかないだろう、とも思った。
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