鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

正直、一体なにを伝えたかったのか、と思った演劇「19歳のジェイコブ」

2014-06-29 | Weblog
 28日は東京・初台の新国立劇場で演劇「19歳のジェイコブ」を観賞した。芥川賞作家、中上健次の原作を現代風にアレンジしたもので、、演出は大阪の演劇集団、維新派の松本雄吉が担当し、若手の石田卓也らが出演していたせいか、若い人が大勢詰めかけていた。ただ、原作の中上健次の無頼派の若者を忠実に追い過ぎたため、鈍想愚感子のような60歳以上のシニアにとっては見ているのがつらいような感じがした。若手俳優らが一生懸命に演じているのは伝わってきたが、見終わってそれが一体何を言おうとしているのかが正直よくわからなかった。
 「19歳のジェイコブ」はおそらく都心のジャズ喫茶にたむろする19歳のジェイコブとその仲間たちがジャズ、酒、セックスに溺れ、みずからを失っていく様をテンポよく描いていく。仲間のなかには金持ちの息子が左翼思想にかぶれてイデオロギー闘争に加わり、爆弾を投じて家族を死に至らしめたうえ、自らも死へ旅立ってしまう。親友を失くしたジィコブも途方に暮れてかつては一家皆殺ししてしまおうと思った恩師のもとにはせ参じるが、頼りの恩師もかつての輝きを失っていあみゃペンキ塗りに勤しんでいる始末で、益々追い詰められたジェイコブは結局、沼に飛び込んでいく。
 中上健次の影があまりにも大きすぎて、脚本も演出もどう料理していいいかわからないまま、取り組んだ感じで、その迷いが出演している俳優にも影響したようで、見ている観客も無頼派のこれでもか、これでもかという叩きつけるようなアクションにばかり目がいって、肝心のその精神を読み取るような余裕は全く生まれてこなかった。休憩のない2時間の幕あいだったが、見ているのがしんどくて途中何回も時計を見た。演劇を見ていて、こんなに時計を見たのは初めてのことだった。最前列で、演者の熱気が直に伝わってきたせいもあるが、これで一体なにを伝えようとしているのか、わからなくなってきたせいもあった。
 考えてみたら、2時間ずっと緊張が続いていて、途中笑いを誘うようなシーンが1回もなかった。普通、演劇のなかでは舞台回しを務めるような老婆とか、女中もたいな役回りの出演者がいて、なんということのないセリフをしゃべって観客にホッと一息つかせるようなことがあるものだが、この「19歳のジェイコブ」に限ってはそんな役者は見かけなかった。だから、見ていて疲れたというのが正直な感想である。
 戦後まもなくの演劇を現代風にアレンジしたのだが、いまだに赤電話というのは納得がいかない。いまは携帯電話の時代である。場面転換や、登場人物の感じていることをスクリーンに映る文字で表現しているのはいいが、それが演技のうえで生かされていないような気もする。主人公のジェイコブの魅力のようなものが全然伝わってこないのもそのせいかもしれない。
 土曜日で昼の部で、夜の公演も控えていたせいか、終了してだれ一人カーテンコールに出てきなかったのも符に落ちない。熱演で拍手くらいしてもいい、と思っていたのにあてがはずれた。観劇で終演後に出演者が一人も出てこなかったのは初めてのことだ。見ている観客が疲れてしまったのを感じ取ったのか、自ら疲れてしまったのか、どちらなのだろうか、と思った。
 それとタイトルの「19歳のジェイコブ」は現代風にアレンジするのなら、せめて「19歳の太郎」と日本風にしてよかったのではと思ったが、それでは観客動員ができないし、原作者の意図なり、著作権を損ねることになる、とでも判断したのだろう。
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