prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

スーダン―もうひとつの「テロ支援国家」  富田 正史

2007年10月10日 | 


スーダンの政権はイスラム原理主義を奉じ従わない国民に対してほとんど絶滅政策をとっているにもかかわらず、アメリカはその首脳が訪問する時は特別機を用意する。
ビン・ラディンが滞在していたので、その時の情報をスーダン政府が握っているから、ともいうが、クリントン時代のテロに対する報復で首都ハルツームを空爆したため、石油資源の開発に乗り出せず、カナダと中国に先を越されたのを取り返そうとしているため、ともいう。あきれかえったご都合主義だ。

リーフェンシュタールの「ヌバ」はこのスーダンの人々だったことに思い当たる。同じ先進国のご都合主義の産物というか。

「オタク論!」 唐沢 俊一,岡田 斗司夫

2007年10月10日 | 


好きなことの知識に浸っているだけでは幼児で、理論化しないとオタクにはならない、という岡田説に従ってか、まことにリクツっぽい。
唐沢なをきが眠るのも仕事するのも椅子に座りっぱなしの生活習慣からして自分は六十半ば以上は生きない、とか、兄さんは自殺するなよ、とかマジメに言っているというあたり、冗談に聞こえない。

「言語的思考へ- 脱構築と現象学」 竹田 青嗣

2007年10月10日 | 


「言語の謎」というか、言葉は決して一義的に意味を決めることはできないという常識的には当たり前のことを、現代思想はああでもないこうでもないとわざと難しくこねくりまわして議論していたのを、発話者の「意」に対する信憑構造によって言語の意味は決まるとという現象学的還元操作を通して、形而上的「神学論争」を終わらせるのを目論んだ書。

「人間的自由の条件―ヘーゲルとポストモダン思想」  竹田 青嗣

2007年10月09日 | 


近代社会の原則としての「自由の相互承認」をヘーゲルにまで遡って、ヘーゲル批判から出発したマルクス、さらにマルクス批判から始まったポストモダンをひっくるめて根底的(=ラディカル)に考察・批判し、近代の原則は非可逆的であり、ポストモダンの批判は無効であることを立証する。

以後の宿題として、資本主義(=欲望の追求の自由)が人の自由を否定するアポリア(難問)について、著者がどういう形で問題を終結させるかに期待。

「本当の自分」の現象学  山竹 伸二

2007年10月09日 | 


「本当の自分」とは何かを問うのではなく、現象学の本質観取によって、なぜそういうものを想定したくなるのか、を問い詰め、自由に生きられる楽しさとともに苦しさも引き受けなければいけない近代人のあり方を明らかにする。

蜃気楼を追うような自分探しても、そんなものはないのさと一刀両断するニヒリズムとも違う、「自己了解」の意義と価値に目を開かされる著。なぜ精神分析は色んな説が増えていくばかりでちっともまとまらないのか、という説明にも納得。

「悪童日記」 アゴタ クリストフ

2007年10月09日 | 


第二次大戦中の東欧の僻地で繰り広げられる戦争の狂気と前近代的な土俗性がまざった悪夢のような世界なのだが、すべて「ぼく」ではなく「ぼくら」という人称で描かれることで、おとぎ話のような透明感と非現実感と黒いユーモアとが常に張り詰めている。

モチーフはコジンスキー「異端の鳥」とも共通するが、ユーモアとふてぶてしさがあるのが大きく違うところ。

「キヤノン特許部隊 」 丸島 儀一

2007年10月09日 | 


特許というとそれでロイヤリティーを稼ぐことが目的のように思われてしまうが、本当の目的は他社が持っている特許技術を利用するための駆け引きのカードとして使い、最終的に優れた製品を作って売って儲けるというの本来の目的と説く。
巨人ゼロックスを初め、早くからアメリカに乗り込んで渡り合ってきた経緯も興味深い。

「時間はどこで生まれるのか」 橋元 淳一郎

2007年10月09日 | 

素粒子(ミクロ)の世界では時間というものは存在せず、光子から見たら(?)時間も空間も存在しない、という指摘に、そういえばそうだな、と思う。「時間」の中に生きていることが生物の存在のあり方そのもの、という発想は偶然だろうが最近読んだ「生物と無生物のあいだ」と共通している。
ここではハイデガーの「世界内存在」と「現存在」との関わりで説明されたりしている。理系と文系といった垣根が

「第五の権力 アメリカのシンクタンク 」 横江 公美

2007年10月09日 | 


シンクタンクが税制で優遇される条件としての中立的研究機関であるという建前と、政権内部に出入りする人材提供機関として抱え込む政治的バイアス、またそれ自体経営として成り立たせるためのメディアへのアピールなど、多くの側面に目配りが効いた著。
聞きなれない、または略された(AEIなど)組織名が多いので、巻末にまとめて索引をつけてくれるとありがたかった。

「ラヴェンダーの咲く庭で」

2007年10月09日 | 映画
イギリスの田舎で二人暮らししている老姉妹(ジュディ・デンチとマギー・スミス)のところに、ダニエル・ブリュール扮する英語のわからない青年が漂着する、というところからアブない展開になるのかと思ったら、まるで違う方向に行く。原作だと姉妹は40代だというけれど、年食ったからといって老名女優たちは水気たっぷりだものね。上品なところがいいとも言えるけれど。

ブリュールの正体が明かされていくところで政治的なものが絡んでくるのかと思ったら、これまたハズレ。
あれだけのバイオリンの腕をどこでどう身につけたのか、というのもよくわからない。わからないのが魅力になってればいいけれど、ちょっと違う。

イギリスらしい風景・衣装・調度などは魅力的。
(☆☆☆★)


「のんき大将 脱線の巻」(カラー版)

2007年10月08日 | 映画
うーん、のんびりした調子がジャック・タチ作品の身上なのはわかるのだけれど、あまりにのんびりしているのでビデオで見るのはきつい。早送りしてもまだのんびりしているくらい。好きな人にはそこがいいのかもしれないけれど。
製作当時(1947)公開された白黒版とは別に保存されていたカラー版。歴史的意義はあるのでしょうけれど、なおさら古めかしく見えるのは仕方ない。

自転車がひとりでにえんえんと倒れずに走るシーンはどういう仕掛けなのだろうと不思議になる。
村に常設映画館がなく、西部劇が巡回上映されているのがノスタルジックな雰囲気。
(☆☆☆)



A Clockwork Orange: Complete Original Score

2007年10月07日 | 映画
スタンリー・キューブリック監督「時計じかけのオレンジ」のためにウェンディ(当時はウォルター)・カーロスが作曲・編曲した、映画では使われなかった曲も含めたコンプリート・アルバム。

映画ではちらっとしか出てこない、当時のいかにも前衛音楽という感じの「タイムステップス」全長15分版に始まり、シンセ版「泥棒かささぎ」、オリジナル・スコア三曲を含む。

Country Laneに「雨に歌えば」のフレーズがちらっと出てくるのはともかく、ベルリオーズの「断頭台への行進」(後の「シャイニング」のメインタイトル曲)のフレーズが入っているのが興味深い。

キューブリックはピンク・フロイドの「原子心母」も使いたがっていたとのこと。


「キャンディ」

2007年10月06日 | 映画
ドラッグ絡みのドラマっていうのは、話を動かす人間の意思そのものが破壊されるから、どうしても単調になる。
人格が壊れたら愛もへったくれもなくなるものね。行くところまで行ってしまう人物(ここではジェフリー・ラッシュ)が役としては得してる。

ドラッグ中毒の初期症状にはやたら甘いものが欲しくなるというのがあるので、「キャンディ」って名前はそれにひっかけているみたい。

アル・パチーノが「ゴッドファーザー」の前に出た「哀しみの街かど」の方が、どうしようもない二人がそれでも別れられないヒリつくような感覚はよく出ていた気がする。これは良くも悪くも陰惨になりすぎないように仕立てているみたい。
(☆☆☆)


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キャンディ - goo 映画

「ロストロポーヴィチ 人生の祭典」

2007年10月05日 | 映画
ロストロポーヴィチより夫人のガリーナ・ヴィシネフスカヤの方が目立っているくらい。
故・淀川長治はソクーロフ日本初公開の「静かなる一頁」について、正確には覚えていないが、べたべたととどまることなく脂ぎった手で相手を撫で回すごときタッチと形容していたが、ここで撫でさすっている相手は明らかに夫人の方。出演した映画の抜粋まで出てくる。

祝賀会のアトラクションで若い奏者がアコーディオンでアストル・ピアソラの「リベルタンゴ」を演奏したのに、あれ、と思った。サントリーのCMでヨー・ヨー・マがチェロにアレンジして演奏したので有名だけれど、関係あるのかいな。


本ホームページ


ロストロポーヴィチ 人生の祭典@映画生活

「バリー・リンドン」

2007年10月04日 | 映画
映画全体が名画、美術、名曲そのもの。

蝋燭の光だけで撮影された室内シーン、男でも白塗りでつけぼくろするメイク、一斉射撃に対して逃げも隠れもしないで行進していってばたばた倒れる戦闘シーン、など普通だったら映画的に「リアル」にアレンジするところを、考証的にリアルにしすぎて逆にシュールとも何かの冗談みたいとも見えてくる、およそ例のない作り方。
人が心臓発作を起こして死ぬ前に平然と死亡報告書をナレーションで読み上げる冷徹なセンス。

不思議なことにキューブリック作品全般に言えるが、劇場公開版、VHS版などはモノラル音声だったのが、DVDではステレオ音声になっている。「フルメタル・ジャケット」の頃までモノラルで、しかも劇場公開時、ドルビー時代に完全に入っていたのにドルビーではなかった。ドルビー使うとどんな音使うかドルビー社に指定されるのを嫌ったから、なんて説あったけれど、ホントかな。DVDはドルビー仕様になってます。

「グレン・ミラー物語」が初公開時は映画館の設備が追いついていなかったのでモノラルで公開し、別にステレオ音源を保存しておいてリバイバルの時はそっちに差し替えた、なんて例があるが、あちらでは映画を何十年も売れる商品として位置づけているが、日本では公開したら終わり、という時期が長かった(今でも怪しい)。
差は大きい。

ライアン・オニール扮するバリーは最初と最後では20年以上時が経っているはずだが、あんまりそういう風に見えない。一応頭は白くしているのだけれど。
オニールと、義理の息子役のレオン・ヴィターリ(この後キューブリックの秘書兼助監督になる)が、ともに左利き、と揃っているのが仇同士の役なので妙な感じ。

原作も読んだが、なんで映画にしようとしたのか不思議みたいなあまり魅力のない小説。

あまりキューブリック作品としては人気がないけれど、個人的にはベスト。
(☆☆☆☆)