イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
自分を救うためなのか他人を裁くためなのか
「イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。」(マタイ12:9-10)
---
現代に生きる私たちは、たとえば、あなたは窃盗をしたので有罪である、というように法律の条文を適用する。
上の聖書箇所でも、彼ら(パリサイ人)は安息日を破ったとイエスを指弾している。
安息日を守れとは確かに律法に定められたことであるが、しかし、律法は法律とは決定的に異なる点がある。
それは、律法が御父と個人との救いについての契約だということであり、その個人が内面の罪を自覚して罪深さに気づくことが律法の目的である。一方、法律は、もっぱら人を裁くためにある。
上のパリサイ人は、貶めたい対象であるイエスを貶めたいから安息日のことをイエスに言っているだけだが、これは律法を法律として扱っているからだ。
自分を救うためなのか、他人を裁くためなのかが、ここでは問われている。
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[一版]2018年 4月 6日
[二版]2022年 5月 5日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。」(マタイ12:9-10)
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現代に生きる私たちは、たとえば、あなたは窃盗をしたので有罪である、というように法律の条文を適用する。
上の聖書箇所でも、彼ら(パリサイ人)は安息日を破ったとイエスを指弾している。
安息日を守れとは確かに律法に定められたことであるが、しかし、律法は法律とは決定的に異なる点がある。
それは、律法が御父と個人との救いについての契約だということであり、その個人が内面の罪を自覚して罪深さに気づくことが律法の目的である。一方、法律は、もっぱら人を裁くためにある。
上のパリサイ人は、貶めたい対象であるイエスを貶めたいから安息日のことをイエスに言っているだけだが、これは律法を法律として扱っているからだ。
自分を救うためなのか、他人を裁くためなのかが、ここでは問われている。
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