駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

クレア・ノース『ハリー・オーガスト、15回目の人生』(角川文庫)

2016年12月08日 | 乱読記/書名は行
 1919年に生まれたハリー・オーガストは、死んでも記憶を残したまま、誕生時と同じ状況で生まれ変わる体質を持っていた。彼は3回目の人生で体質を受け入れ、11回目の人生で自分が世界の終わりを止めなければいけないことを知る。終焉の原因は同じ体質を持つ科学者ヴィンセント・ランキス。彼はある野望を持って、記憶の蓄積を利用して科学技術の進化を加速させていた。激動の20世紀、時を超えた対決の行方は…!_
 ヤングアダルト作家が覆面で書いたそうで、キャンベル賞受賞作の、でもこれはSFと言ってもいいのかな…? でもとにかくたいそうおもしろく読みました。「『リプレイ』もの」と一口に言われることを解説者は危惧していましたが、全然そんなんではないと思います。
 そしてもし本当にこういう体質(?)ノ人間がいたら、その人生は本当に本当に過酷で、だからこそ上手く省略して書き進められる小説の形でしか存在しづらいエンターテインメント作品になっていると思います。
 あと、もっとそういうふうに読めるようにがっつり描いておいてもよかったんじゃないの?と思いますが、要するにこれってハリーとヴィンセントのBLって側面はかなり否めないと思います。ぶっちゃけ何百年もかけた恩讐なんて、世界の終わりがかかってようがなんだろうがつまるところそれは愛ですよ。愛でなければそんな時間は越えられません。ラストもホラ、涅槃で待つ、みたいになってるし(古い)。
 結局それで世界が救われたのかは描かれないし、でも救われたから今の世界があるんでしょと言っているようでもあるし、でもそんなことは今の世界に生きているリニアの人々にはわからないわけですよ。解けた結び目はなかったのと同じなのです。
 怖い。でもおもしろい。それを描いた、とてもおもしろい小説でした。



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澄輝日記6.3~宙全ツ『バレンシアイズ』@福岡

2016年12月05日 | 澄輝日記
 毎度泣いてるのでだんだん私の涙の価値が下がってるんじゃないかと思いますが、てか私ってそんな泣くキャラじゃないだろうと我ながらつっこみたいのですが、今回も泣きました。だって横浜から一週間ぶりに観たら、すっかり痩せちゃってるんですよ…!
 芝居では気になりませんでしたが、ショーは、特にプロローグは赤と黒のお衣装がシャープさを強調するので、もう頬が削げちゃって顔が尖っちゃって見えて、ギリギリだと思いました。本人は冗談めかして全国ツアーはもう卒業だと思っていたとか言うけれど、やっぱりそれだけしんどいってことなんだろうなあ、ホントは免除されたいんだろうなあ、という…イヤ全ツだからこその大きいお役をいただけていることはわかっていますしそれはものすごくありがたいことだと思っているのですけれどね。でもこれ以上はちょっと美貌にも響くと思うし、何より健康や体力やスタミナが心配なので、食べるのも仕事だと思って少し体重を戻すべくがんばって食べていただきたいです。幸いだいぶ暖かいので、寒がりなことは心配しなくても大丈夫かなと思いますが…あと一週間、事故なく公演を終えられますようにと祈らずにはいられません。
 私も櫛田神社にお詣りしてきましたよ!

 さて、福岡一回目は会総見でした。梅田の会総見では特に「ラヴィングアイズ」の場面なんか、上を向く振りが多いのをいいことに三階の会総見席見る見るでおもしろいくらいだったんですが、今回もやってくれました。
 福岡の会総見席は下手側通路を挟んでセンターブロックけっこう後方と下手サブセンターブロックけっこう後方。ショーのプロローグの客席降りで下手通路先頭を進んでくるあっきーですが、会総見席のかなり手前で止まってしまいました。でもこちらの存在をちゃんとわかってくれて、もうニコニコの笑顔!
 嬉しい! でも近くのお客さんにもちゃんとアピールして! 営業して! とも思うのですが、こっちを見てもらえてキャイキャイ喜んじゃう会席。で、舞台に帰るよってときには、振りも何もナシで両手ブンブン振って全開の笑顔を見せてから踵を返して行きました。優しい…! 可愛い…!! 「いい人…!」(byセレスティーナ)
 福岡四回目には土曜にバウ千秋楽を終えた『双頭の鷲』チームも多数観劇に来ていたようで(彼女たちは下手端前方、私は上手端後方だったのでよくわかりませんでした…)、キャーキャーヒューヒュー大盛り上がりでした。
 あと、博多在住の主婦になられたちーちゃんもご観劇! まぁ様が旦那さまと握手したりちーちゃんに迫ったりと、やりたい放題だったようですね(笑)。澄輝担としては、前回の『バレンシア』に共に出ていたちーちゃんにあきリーゴを観ていただけたことが何より嬉しいです! 『風共』のお稽古のエピソードだったかな? ちーちゃんに「あっきーはもっとできるきず!」って叱られて、あきちゃんが「ちーさんみたいにできない~」って泣いた、っていうの。そこからだいぶがんばってますよ…!
 ちーちゃんやエビちゃんとごはんに行けたんだったらいいな、「ちゃんと食べな!」って叱られて「エヘヘ」とか笑っているといいな。私は食べてきましたよ、一口餃子とか広島焼きとか!(博多なのに!)
 博多、楽しかったです!

 しかし病はいよいよ膏肓に入り、すっかり脳が煮えて妄想もたくましく、もはや『バレンシアの熱い夜』のことを考えないではいられません。今回はそんなお話。Rー18(?)かもしれないので苦手な方はスルーしてください。
 その昔「宝塚グラフ」でさいとうちほ先生による宝塚歌劇のコミカライズ企画があって、私は当時はグラフを読んでいなくて、今は小学館文庫版『銀の狼』を愛蔵しているのですが、収録された『バレンシアの熱い花』を読み返してみたら貴方(byセレスティーナ)、改めて漫画としてうまく省略したり補完したりが素晴らしく、読みふけってしまいました。
 で、ロドリーゴとシルヴィアは、ロドリーゴがルカノールを倒すことをシルヴィアに告げたあと、朝チュンだけどちゃんとベッドシーンがあって、そのあとのシルヴィアも、舞台では「あのとき」と言っている「燃え尽くした記憶」云々のことを「あの夜」と言っているんですよね。
 そうだよねー、やっぱ解釈としてはそれが正しいよねー。
 でもね、私が観た限りあのくだり、あきリーゴは本当にららヴィアを慈しんでいて、キスシーンのあとの抱擁が本当に嬉しそうで優しくて愛にあふれていて、一度目を伏せて抱きしめる、からの目を開けて宙を見上げて笑う、からのまた目を伏せて微笑む…みたいな仕草がもう本当にキラキラ幸せそうで満ち足りていて、なんかここで満足しちゃって暗転後にやることやってるとは思えないな、とか思っちゃったんですよね。そうしたらお友達が、「違いますよ、アレは曲中ですでにやっているのです」と言うんですよ。
 そう言われてみると確かに…! 「瞳の中の宝石」を歌いながら柱の陰から回り込んで、からのシルヴィアの頬を撫でる手、あれがもう、美しさに騙され続け(byエルマー)ていたけれどよくよく見たら美しいより何よりエロい! 綺麗な指先の薬指だけ折ってららヴィアの顎の骨の線を摩るとか、どこで覚えたのそんな技を!
 そしてららヴィアもそこですっかり恍惚としているじゃありませんか! つまりこのくだりはもう、愛情表現とか前戯とかですらなく「最中」の表現なんですね!? ああ、だから「♪君こそ私のものだ」とか歌い上げちゃうんですね? そこで達しているんですね!?!? からの「♪愛している」繰り返し…!!!
 「もう君に打ち明けよう」からはアフターピロートークってことなんですね! だからダメ押しのキスと抱擁は満足感にあふれているんですね…!!
 よかった、よかったよ…! 妄想でうっかり泣きそうです。シルヴィアも満足して(上手かったのねロドリーゴ! ←)、でもだからこそこのまま幸せになるわけにはいかない、けじめをつけなければ、と身の処し方を考えてしまったのでしょうね…泣ける。
 でもロドリーゴは男だから、つまりもっと単純だから、そういう機微がわからなくて、本気で彼女が死ぬ意味がわからなくて混乱して、それでフェルナンドに訴えちゃうんだろうなあ…と思うとそれもまた泣けます。
 やっぱりラモンに城に遊びに来てもらわないと…そしてロドリーゴの気を紛らわせてくれないと…すみっこでいじいじ「何故だ?」とか悩んでごはんも食べなくなっちゃいそうなので、ホントよろしくお願いします…(ToT)

 さらに下品な話ですみませんが、そもそもはお友達たちと、
「女に平手打ちとか後ろから撃つとか、バルカってホント卑怯でサイテーで、前にも女を殺したとか言われてるけどきっとすごく自分勝手なプレイしてそうだよね。てか下手なの」
 みたいな話になってしまったときに、
「うん、てかルーカスってルカノールのお稚児さんなのかな?」
「ルカノール、臥所にいずに地下室までルーカス探しに来てるけど、どんなプレイを…ガクブル」
「ルーカスくんも女相手は下手そう…」
「てかレオン将軍とドン・ファンもアヤしい」
「レアンドロは自分好みの美青年ばかり義勇軍に摘発してそう」
 とかさんざんヒドい妄想を展開したことがあって、その中でロドリーゴについても、やることやったときにまさかあんまよくなかったからシルヴィアが絶望して自死しちゃったんじゃ…みたいな話になったことがあったんですよね。まあ私たちはおバカなので、「下手なんだ! ボンボンっぽい!! カワイイ!!!」とか、もう要するになんでも可愛くて大好きで笑い転げてしまっていたわけですが、ここに来てまさかの「上手いんじゃん!?」みたいな発見で、さらに色めきだってしまったのでした…
 でもだからこその「許してもらわなくちゃならないことがある」なのかもしれませんよね。あそこの芝居の妙な空気が私はずっと気になっていたのですが、結婚前にしちゃった、そして不倫に片足つっこんじゃったことがロドリーゴとしては引け目になっているのかもしれませんものね。まあ応じるフェルナンドの方はそもそも、イサベラに見抜かれたことを白状もしていないんだけどね! だから気に病まなくていいんだよロドリーゴ!
 …腐って汚れていてすみません……
 あ、でもピュア・エピソード妄想もちゃんとあって、たとえばマドリード遊学直前にロドリーゴとシルヴィアは些細なことで喧嘩しちゃって、だから本当だったら帰ってきたら結婚を、という婚約を整えていくはずだったのにうやむやになったままロドリーゴは出立してしまって、シルヴィアの方から謝ってこなければ知らないんだからねー、みたいな感じでプンスカして手紙も書き送らず、そうこうしているうちにシルヴィアにルカノールの魔の手が伸び、だからロドリーゴはあんなに遊学に出たことを後悔しているのだ…とかね。ああんマルコスがお手紙書いたげて―!
 マドリードでプンスカしているロドリーゴは「バレンシアから来た生意気な転校生(笑)」みたいな扱いで、ご婦人方とひとつやふたつの浮き名どころか、決闘騒ぎを何三度も四度も起こしたりしていたんじゃないかしらん、とかね。だからエル・パティオでもあんなに自信満々に呂ラモンとの決闘に臨んじゃってるんじゃないかしらね、とかとか。
 はっきり言っていくらでもサイドストーリーが考えられるんですよね、オタクだから! ロドリーゴを愛しすぎているから!!
 というかやはり、それだけ柴田先生が描くキャラクターと物語の骨子がしっかりしていて、ふくらみや豊かさがあって息づいていて、前後の人生に思い馳せられるからこそ、なんですよね。すばらしい演目をありがとうございます!

 話は変わりますが(トートツ)、福岡二回目のショーの三組デュエダンの決めポーズで、まいあちゃんが体勢を崩してあっきーの腰あたりに置くはずの手をぺたんと床につけちゃったんですけれど、すぐ添え直して、そうしたらあっきーがその手に自分の手をぱっと添えたんですよね。きゅんきゅんしたわー!
 現場からは以上です(トートツ)。


 次回は千秋楽を終えての総括になるので、もう少しまともな記事にしたいと思います。広い心でおつきあいいただけたら嬉しいです…





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『キネマと恋人』

2016年12月02日 | 観劇記/タイトルか行
 シアタートラム、2016年11月30日19時。
 昭和11年(1936年)、秋。東京から遠く遠く離れたも日本のどこかにある小さな島の小さな港町。この町唯一の映画館では、東京で封切られてから一年も二年も遅れてようやく新作映画がかかる。今日もスクリーンを見つめる女性がひとり。同じ映画を何度も鑑賞し、上映が終わってもひとり拍手を送り続けている…
 台本・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ、映像監修/上田大樹、振付/小野寺修二、音楽/鈴木光介。ウディ・アレン監督の1985年の映画『カイロの紫のバラ』にインスパイアされた作品。全2幕。

 ケラ作品はいくつかは観ていて(『三人姉妹』、『祈りと怪物』、『ノーアート・ノーライフ』、『ドント・トラスト・オーバー30』などなど)、それなりにおもしろかったり私にはよくわからなかったりいろいろでしたが、今回はお友達にお勧めいただいていそいそと出かけてきました。インフルエンザ休演の回でなくてよかった!
 役者がみんな達者で、ヒロイン・ハルコ役の緒川たまき以外はひとり何役もしているのですがそれが鮮やかで素晴らしくて、映像の使い方も凝っていて、場面転換がアグレッシブ(他にどう表現していいかわからない…)で、ストーリーがどうなるのか全然読めなくて、そして最後は泣かされました。休憩込み3時間15分の長丁場でしたが、とても贅沢な経験をさせていただきました。
 今の私にとってスターというと宝塚歌劇の生徒しか思いつかなくて、そして彼女たちはファンとの距離が近いので、最初のうちはヒロインの心情などが上手く想像できなかったのですが、これは私でいうところの大下勇次(@『あぶない刑事』)か柴田恭兵かって二択ってことかな、と思いついたらなかなかわかりやすかったです。
 でも私はオタクだからユージを選択しそう…とか思ったのですが、ハルコは間坂寅蔵ではなく高木高助(妻夫木聡の二役)を選びます。寅蔵が時代劇のキャラクターで現実世界ではなかなかつきあいづらそう、ということもあったでしょうし、ハルコは高助の全出演作を何度も何度も観ているようなマニアなので、俳優としての彼をより愛していた、というのはあるのでしょう。
 そう、女にとって、俳優としての相手を愛することと、相手を男として愛することの距離はかなり近い、と思う。けれど男は、自分をものすごくわかってくれる熱いファンの女に対して、嬉しくて感謝したり虚栄心が満たされたりということがまず大きくて、そこから相手を女としてきちんと愛すようになるところまでいくかというと、かなり怪しいのではないでしょうか。
 それでも、ハルコと高助も、もっと時間をかけられれば上手くいく、という道筋はあったと思うんですよね。けれど高助は東京に帰らなくてはならず、ハルコは夫を捨てて飛び出したものの…という、ラストでした。そりゃこんな状態で東京に行っても上手くいくわけなんかないな、とは思いました。でも泣きました、悔しくて、かわいそうで。私ならこんな生き方は嫌だ、と思ってしまって。
 でも高助は何よりもまずミュージカルスターになりたかったのだと思います。それを脇役役者に甘んじながらもずっと願って願って、密かに努力も続けていたんだと思います。だから、ハルコに恋した虎三が発憤したことがきっかけではありましたが、スターへのとっかかりが訪れた。望みは望めば手に入ることもあるのです。逆に言えば、人は望んだものしか手に入れられないのです。
 ハルコの望みはなんだったでしょうか? 夫の暴力や金遣いの荒さや浮気に耐え、なんとか平穏に暮らし、つましく働き、夜は映画館で映画を観る、ただそれだけだったのではないでしょうか。だから彼女は映画館に帰ってくるしかなかったのではないでしょうか。そんな言い方は彼女に対して酷薄にすぎるでしょうか。確かに夢を見るにも下地というかパワーというかある種の豊かさが必要なのかもしれません。ハルコがただ映画を観てその世界にひととき浸るだけではなく、「私だって…」と思えていたら、今回の事件(?)に関して彼女の顛末は変わっていたのかもしれません。でも、そうでないのが、ハルコのハルコたるゆえんでもあるのだよなあ。
 緒川たまきは映像ではちょっと癖のあると快適な女性を演じることが多いイメージですが、今回は架空の方言を縦横無尽に駆使したなんともドン臭くてでもいじらしくてチャーミングなハルコを大好演していました。このヒロイン像がなければ成立しないお話だったかもしれません。
 それに、ハルコは単に元の木阿弥で現実に戻ってしまったわけではないのかもしれません。夫は少しは気を遣ってくれるようになるかもしれないし、何よりもう映画は観ないと言っていた妹のミチル(ともさかりえ)が並んで一緒に映画を観てくれました。だから大丈夫、なのでしょう。せつないけれど、悲しいけれど。
 ラインナップで、舞台に残されたままの映画館の椅子とともに、ハルコのトランクが残されていたのも印象深かったです。たまたまなのかもしれないけれど。ハルコが持っていけなかったもの、ハルコの重荷、あるいはそれ以外の何か…みたいな。
 これが、創作は現実に関与しえない、みたいなことを訴えている作品だとは私は思いません。創作と現実はもちろん全然違う次元のものだけれど、でも、お互いに感化し合って変化していける。それは知っているし、信じている。その不可思議さを愛している。
 そんなことを考えさせられた舞台でした。おもしろかったです!



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