駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇宙組『双頭の鷲』

2016年12月12日 | 観劇記/タイトルさ行
 KAAT神奈川芸術劇場、2016年12月10日11時。

 とあるヨーロッパの王国、クランツ城で起きた王妃(実咲凜音)暗殺事件。暗殺者(轟悠)は毒薬に見舞われ、王妃と共に階段に倒れて発見された。黒いヴェールで顔を覆い、人前では決して見せなかった王妃が、何故顔を露わにしていたのか? 暗殺者は何故、城の中に留まることを許されていたのか?
 原作/ジャン・コクトー、脚本・演出/植田景子、作曲・編曲/斉藤恒芳、振付/大石裕香、装置/松井るみ。ジャン・コクトーがハプスブルク家皇妃エリザベート暗殺事件に着想を得て1946年に書き上げ、のちに自身で映画化もした戯曲を、ミュージカルとして再構築。全2幕。

 外での舞台を観たことがなく、内容はまったく知らないままに観に行きました。
 私はわりと景子スキーで、かつ原作アリのバウ作品には佳作が多いと思っているのですが、今回はわりとみんながその美意識が重いと言っている装置とかの美しさにはそんなに感心するでもなくまたそこまで押し付けがましく感じて辟易するとかでもなく、ただ単に演劇として特に出だしがわかりづらくて残念に思い、景子先生の演出というよりはむしろ演技指導に疑問を感じました。
 宝塚歌劇なので、どうしても役に中の人というか、演者、スターの個性を見てしまうところがあるじゃないですか。そのバイアスというかフィルターというかが私にもあって、それを超えてくる役としてのキャラクター付けまでは今ひとつできていないように見えて、なのでスタートで間違ってしまった印象なのでした。
 卒業を発表したみりおんが今、「トップスターの相手役」という枠から離れて、なんなら「娘役」という枠からも離れて、のびのび楽しそうに王妃役を演じている…というのが私の第一印象だったんですね。ちょっとエキセントリックかもしれないし高慢でわがままかもしれないけれど、そういう癖のあるキャラクターをきっちり演じきる女役としての実力がみりおんにはあるし、だから枠とか規制とかから放たれててすがすがしくていいなあ、と思ってしまったのです。でも私はみりおんの歌は上手いと思うし歌声は好きなのですが、台詞の声はなんかいつもがんばって張り上げているような発声に聞こえてキンキン耳障りに感じることが多く、それもあって結局のところそんなみりおんが演じるこの王妃という役がそんなに魅力的には見えなかったんですね。中の人は楽しそうでいいなと思う、でもその役のことは特に好きにはなれない、というスタート。でもこれじゃダメだよね。本来は演者のことはどう思おうと、役を好きにならないとお話に心が寄せていけませんもんね。
 で、なんかやたらと詩的とか抽象的とかいうよりはどうも焦点が呆けているか的外れでただ長いだけの台詞が続くので状況がどうもよくわからないのだけれど、とにかく王妃は10年前の国王との婚礼の際に彼を暗殺で亡くしていて、命日のたびにこの城でひとり宴を催している、らしい。で、思い出の中の国王と語り合うようなくだりがあり、そこに暗殺者スタニスラスが乱入してくるわけですが、まずもってこの宴の王妃が本当に楽しそうに私には見えたんですよ。つまり彼女は寡婦かもしれないし愛した人を亡くして傷ついているのかもしれないけれど、愛はまだあってそこに浸れているし宮廷から離れてひとり好き放題して、充実し満足しているようにしか見えなかったのです。
 でも本当ならここで、もっとその裏にある哀れさとか、薄ら寒さ、王妃の狂気みたいなものが見えなければいけなかったのではないでしょうか。だからこそ王妃は自分を殺しに来た暗殺者を受け入れるのですから。
 でも私には彼女が実は死にたがっていたのだ、みたいなことが全然読み取れなかったので、彼女が何故彼をかばい匿ったのかさっぱりわからなかったんですね。それこそ単に彼の顔が亡き夫と瓜ふたつだったから?ってなもんで。
 でもそれじゃダメでしょ、王妃は孤独に疲れて死にたがっていたから暗殺者を受け入れた、王族の義務とかを大事に考えるようなことはしない、精神的には無政府主義者、自由主義者だったから…となるべきなんでしょ?
 一方の詩人で無政府主義者の青二才スタニスラスは王妃暗殺を企てて城に迷い込み、王妃に匿われてとまどい、王妃に王族の義務をまっとうせよとか言っちゃったりする。精神的には王族のような、真面目で義務やルールを重んじる高潔な無政府主義者だったから…となるべきなんでしょ?
 で、そんな鏡のような、表と裏のようなふたりが、ふたつの魂が、殺す者と殺される者として出会って、だけど恋が生まれてしまった、ってなる話なんでしょ?
 だからもう王妃は死にたがらない、スタニスラスを愛しているから。スタニスラスは王妃を殺そうとはしない、王妃を愛しているから。愛があれば世界は鮮やかに変わる、白と黒だった世界が赤く色づく…ってなる話なんでしょ?
 情熱的に盛り上がって一幕が終わり、けれどふたりが死を迎えることは一幕どアタマで明示されているので、観客はその恋の情熱を不穏に眺めながら幕間に突入する。すごくいい構造ですよね。
 で、エディット(美風舞良)とかフェーン伯爵(愛月ひかる)とかフェリックス(桜木みなと)とかイロイロあって(ザツですみません)、王妃は隠遁をやめて首都に戻り政権を取ると決意し、けれどスタニスラスは王妃のスキャンダルの原因となりたくないがために王妃の毒薬を飲んで自決しようとする。
 服毒した彼が死にかけていることに気づいた王妃は嘘の愛想尽かしをして彼を怒らせ、彼の刃を自分に向けさせる。そしてふたりはともに息絶える。
 だから「王妃の暗殺事件」はむしろ、恋人同士の無理心中みたいなものだったのだ…って話なんでしょ、コレ?
 …ということが中盤からは類推されたのですが、何しろ私はスタート時につまづいてしまったもので…あともっと言うと結局私はみりおんに飽きていて苦手に思っているし、イシちゃんのこともビジュアルはあいかわらず素晴らしいけど声がひどくて台詞が怪しいのが耐え難くどういう役作りをしているのかさっぱりわからなかったので(年齢不詳すぎるのも考えものだと思います)、好きなキャストでやってくれていればもっと上手く感情移入できたのかもしれない…というのはあります。
 好きで萌え萌えで観ていた方にはすみません。
 でもこれ、実際の戯曲ではどういう年齢設定なんでしょうか? 青年と中年女優で演じられることが多いようだけれど、婚礼から10年という王妃は30歳そこそこ、スタニスラスが20歳そこそこ、みたいな設定なのかなあ? だとしたら若者同士でもいいし、つまり理事を呼んでやるような演目ではなくて、スタニスラスはフツーに愛ちゃんかずんちゃんでやればよかったんじゃないの?ってつい思っちゃうんですよね。以下に男役偏重の宝塚歌劇であろうと、卒業間際であればコンビを離れてトップ娘役が主演・座長の公演ってあってもいいと思いますし。
 それか『オイディプス』みたいに専科公演にして、まゆみさんの王妃で専科生6人だけでストレートプレイとしてきっちりやればよかったんじゃないのかな?
 まあ今の私は『バレンシア』熱に浮かされているので、来年のバウであきららで再演するなら通いますけどね?とかはちょっと思いました。題材としては自分好みっぽそうなので、こんな出会いになってしまって残念だったのです。イヤ私が悪いんだけどさ。

 『エリザベート』をやった宙組で、シシィを演じたみりおんで王妃を、という企画性があったのだとしたら、エディットはスターレイを演じたもあちゃんで観てみたかったです。あおいちゃんだとさすがにずんちゃんが元カレとか今は愛ちゃんのスパイをしていて…みたいなところが上手く萌えられませんでした。
 ずんちゃんよかったなー、王妃に顔を見せてもらったときの感動っぷり、恋する青年っぷりがもう、散歩に呼び出されたワンコみたいなキラキラさ加減で(笑)いじらしかったです。キュンキュンしました。
 愛ちゃんもすんごいカッコよかったけど、構造としてどういう立ち位置にいるキャラクターなのかは私には今ひとつよくわかりませんでした。悪役ってことにしては、なんか、微妙な気もして…
 ほまほまはさすがの仕事をしていましたよね。あとそらもお疲れさまでした、これまたさすがだと思いました。
 あとはパパラッチという名のアンサンブル、というかつまるところモブをやっていた宙組子ですが、さすがにみんな顔がわかるので眺めていて単純に楽しかったです。スタイリッシュでホントいいよね! でももっと仕事させてあげたかったけれどね。
 
 大仰な音楽が、盛り上げすぎていて世界を壊していると感じる人もいるだろうけれど私は嫌いじゃなかったかな。新鮮味がありました。
 逆に腕クネクネいちゃいちゃ振り付けはもう三度くらい観たぞ!って気がしました。セットは本当に素敵だと思いました。お衣装もどれも素敵でしたね。
 芝居のサイズとしてはバウが合っていた気もするので、KAATだと印象の違いはあっただろうなと思います。チケットも余っているようだし、残念ではあります。
 でもこれも良き経験、となっていますように!


コメント
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