駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

あぶデカってきました!

2016年02月05日 | 日記
 私は漫画を読んで育ったオタクな子供だったので、アイドル歌手とかイケメン(当時この言葉はまだありませんでしたが)俳優とかのリアル(三次元、というべきか? この概念も当時はないものでしたが)男子にハマることがほとんどないままに思春期を終えました。今や人生の折り返し地点もすぎつつあるのかもしれませんが(女性の平均寿命って今いくつでしたっけ?)、そんなわけで現時点で私が出演作を追っかけたり写真集を買ったりしてハマッたと言える芸能人は柴田恭兵とペ・ヨンジュンくらいです。
 ま、恭兵ちゃんに関しては、多分に「大下勇次」というキャラクターを愛していた部分は大きかったかな、とは思いますが…それでも彼の他の映画やドラマも見ましたし、テレビ誌や芸能誌、ファッション誌に掲載されるインタビューなんかをせっせとスクラップして、ポスターを天井に貼って眺め、目覚まし時計なんか今でも愛用しています。最近…というほどでもないけど『ハゲタカ』とかも楽しく見ました。
 きっかけはもちろん『あぶない刑事』でした。多分最初のテレビ放送(1986年。Wikipediaはこちら)に間に合っていると思います、あんまり記憶はないけれど。覚えているのはその後に夕方の再放送があって、放課後にチャリかっ飛ばして帰宅して、せっせとビデオ録画していたこと。そしてお気に入りの回を自分でノベライズに起こして悦に入っていたことです。ホント、オタクって…確かコピー誌で同人誌も作った気がします…(遠い目)
 大人になってからはDVD-BOXをそれこそ大人買いしましたし、今も愛蔵しています。ムック類は引っ越しのときなどに処分しちゃったかなー、でもまだ実家にあるかもしれません。
 映画は全部は観ていないと思います。さすがに離れた時期があったというか、大人になったというかなんというか…それでも、ラストとなればやはりアレでして、先日いそいそと映画館に出かけてきました。
 で、『さらば あぶない刑事』です。
 いやぁ、『SWⅦ』に勝るとも劣らない満足度でしたよマジで!
 やっぱり原点回帰というか初心忘れるべからずというか本編リスペクト大事っていうか、ですよ! というかリスペクトも何も完全に当人たちが製作してるんだけどさ。冒頭のクレジットの「脚本/柏原寛司、監督/村川透」って文字に小躍りしかけましたよねワタシ。そのあたりがちゃんとスタッフやってくれているって知らないで行ったので。
 というか「定年直前のタカ&ユージが…」ということしか知らないで行ったのですよ。で、なんかしょぼくれてたりとかしてたらヤダなー、とかは心配していたのです。老いて枯れて縁側でお茶すすってるような好々爺になったふたりの泣き落とし人情話みたいな映画になってたら、ヤじゃん。でも歳をとるってそういうことかもしれないし、そうなって初めてわかる人生の機微とかもあるのかもしれないし、そういう味わい深い路線の邦画とかも最近は充実してるしね…みたいな。
 でもね、全然杞憂でした。
 いい意味でやってることがまったく変わっていないの(笑)。
 でもね、それって大事だなと思いました。少なくとも私は嬉しかった。スタイル、様式美、伝統、大事! そうそうコレコレこのノリ、これがあぶデカ!ってもうニヤニヤしっぱなしでした。昭和上等! ベタ最高!!
 ホントは渋い俳優になっている仲村トオルが、すっごく若くもっさり作って町田透をやってくれているのも嬉しいし、松村課長も薫もポジション変わっても健在だし、パパさんもナカさんも出てくれてるし、「瞳ちゃん、お茶!」まである。スタイルができあがっているからこそできることですよね、素晴らしいと思いました。
 そして絵が本当にスタイリッシュでカッコいい! ハマが絵になる街だっていうのを別にしても、すっごくいいロケハンしてるし、むちゃくちゃ凝ってカッコいい構図のカメラワークにしていてシビれました。最近の邦画ってこういう方には特化していないじゃないですか、たとえば『踊る大捜査線』とかもそういう画面作りは特にしていないと思う。でもあぶ刑事は違うんだよね、こだわるんだよね、裏切らないね!
 そして一番の進化を感じたのが、実はふたりのキャラクターでした。深化、かな?
 舘ひろしと柴田恭兵というキャスティング、タカとユージというキャラクターが実はわりと偶然の産物で奇跡的なものだった、ということはわりと有名な話だと思うんですけれど、ここに来て改めてふたりのキャラクターの差異と個性、それ故の名コンビっぷりが本当に鮮やかにキマっていたと私は感じて、本当に感動しました。なんならそこにこそ泣いたね。
 なんにも知らない今の若い人が観ても、一周回ってけっこう新鮮でおもしろく感じてくれるんじゃないかなー。似たものが意外と他にないと思うんですよね。
 もちろん一番は往年のファンが観に行くものだと思うけれど、変なノスタルジーとかはないし、説教臭いオトナなものに変質してしまったとかがまったくなくて、本当に清々しかったです。このメンタリティこそがあぶデカだと思う。
 最後まで全然BL臭くないのもいい(笑)。イヤ当時だってそういう二次創作はあったんだけどさ、結局はホントに単にやんちゃな男子ふたりがただわちゃわちゃやってるだけなんだよね。そこが本当にイイ。
 ああ、幸せでした。そういえばサヨナラ感がまったくなかったのも素晴らしい。エンドロールも素晴らしい。気持ち画面が暗かったのはさすがにふたりの容色の衰えを見せないためかとも思ったけれど(^^;)、カッコよかったからもういいのです。
 お好きだった方、ゼヒ!!!

 タイムリーにこちらを入手したので、ねちねち読んでみようと思います(ステマ(笑))。






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宝塚歌劇月組『舞音/GOLDEN JAZZ』

2016年02月03日 | 観劇記/タイトルま行
 宝塚大劇場、2015年11月13日ソワレ(初日)、14日マチネ、22日ソワレ、12月1日マチネ、ソワレ(新人公演)。
 東京宝塚劇場、2016年1月14日ソワレ、26日ソワレ、2月2日ソワレ。

 1929年夏。フランスの若きエリート海軍将校シャルル・ド・デュラン(龍真咲)はインドシナ駐在を命じられ、駐屯地サイゴンの港に到着する。エキゾチックで魅惑的な街の喧騒と、大河から流れ込む湿っぽい風に、シャルルは不思議な予感にとらわれる。そんな彼の前に、裕福なフランス人の父とインドシナの女の間に生まれ、富裕層の男たちの心を捕らえ蝶のように飛び回る「舞音(マノン)」と呼ばれる黒髪の美少女(愛希れいか)が現れるが…
 脚本・演出/植田景子、音楽監督/吉田優子、作曲・編曲/Joy Son、装置/松井るみ。アベ・プレヴォの小説『マノン・レスコ―』を20世紀初頭の仏領インドシナに舞台を移してミュージカル化。

 『舞音』大劇場初日雑感はこちら
 珠城さんのお茶会に参加したり新公が友会で当たったりで大劇場にはせっせと遠征したのですが、東京は友会チケットを数枚手放しました。芝居がどうにもつらくて、何度も観る気になれず…
 が、お友達のお取り次ぎでオペラグラスのいらない良席で観たとき、生徒さんたちの細かい演技が鮮やかに伝わって、こちらの勝手な補完も上手くいって、やっとラスト、ほろりとできたのですよね。なので、まあ、それくらいの水準の作品ではあったかな、と今では思います。あいかわらず大絶賛ベースでなくてすみません。ちゃぴにほだされただけかもしれないし…
 どなたかが、中の人のキャラクターとしてはむしろまさおがマノンでちゃぴがシャルルタイプなんだから、そらハマるワケないみたいなことを言っていて、なるほどなと思ったりもしましたか、新公も観てまた違った感触も得られたので、まあなんだかんだ言って自分としてはこの作品を堪能し尽くしたかと思います。以下またつらつらと語らせていただきます。

 私が引っかかっていたのはまず、マノンとの一夜のあと、シャルルが去り際のマノンを平手打ちするくだりでした。せめてそのあと、シャルルが自分がしたことにハッとなってちょっと悔やむ顔をする…とかの芝居をつけてくれればまだアリだったかなと思うのですが、現状シャルルがただのDV男に見える気がするのが嫌なんですね。でも景子先生としては、これを激情ゆえの暴挙、情熱の証だと解釈してほしいのでしょう…
 ともあれその前のふたりの芝居が、明らかにシャルルは舞い上がっていてマノンは真剣には取り合っていないというのがよくわかるようになっていたので、そのすれ違いっぷりからこうなるのもまあ仕方ないかな、と考えることはできました。でもやっぱり主人公をワガママな坊ちゃんでしょうもない男に見えちゃうように描くべきではないと思いますよ景子先生…
 で、そのあとラ・ペルルで再会して、シャルルがマノンを悪し様に娼婦呼ばわりしたあと、マノンがシャルルを追っかけてくることに私はまったく納得がいかなかったのですが、ここも一応補完できないこともなかったのでした。このくだり、新公のときちゃんはちゃぴよりかなり怒っている口ぶりだった気がしたのです。そしてときちゃんはちゃぴより全体に悲しげだった。ちゃぴのマノンは天真爛漫で享楽的な少女だったけれど、ときちゃんのマノンはもう少し大人っぽい、自分の立ち位置がよくわかっている女のように私には見えました。
 とはいえ、というかだからこそ、そこまでの侮辱を受けるいわれはない、と一言言ってやりたくて追っかける…ということは、まあ、なくはないでしょう。私は初見では、マノンにとってシャルルは一夜限りのあまたいた男たちのひとりにすぎず、彼らから何を言われようと蛙の面になんとやらなはずでわざわざ追いかけて言い返すのはおかしい、と思ったのでしたが、まあストーリー展開的にもそれでは何も始まらないのだから仕方がありません。このあとのちゃぴの歌がどんどん良くなっていったからこそ、このくだりは別の色を見せ始め、作者都合でない説得力を持ち始めていったのかもしれません。
 マノンは本当に、子供のころに享受していた裕福な世界が一変したことが耐えがたかったのでしょう。そうならないよう事前に何も手配してくれなかった父の愛情を疑うようになるくらいに、ショックだったのでしょう。愛していたなら私たちをこんな目には遭わせないはずだ、愛ってそういうもののはずだ、だから私の面倒も見てくれようとしないし他の女と結婚しようとするような男は私を愛していないということなのだ、なのにこの人は「愛」を押しつけようとする、その愛っていったいなんなのか教えてよ…マノンの歌はそんなふうに聞こえました。不運な境遇を経て、マノンは愛情と経済的な保障を結びつけてしか考えられない、メンヘラちゃんな女に育ってしまっていたのです。でも彼女の中では理屈は通っているのでした。
 それがわかってシャルルは、なら本当の愛を自分が教えてやろうと思ったのか、はたまたマノンの考える形の愛でいいからとりあえず与えられるものは与えてやろうと思ったのか、婚約者その他を捨てて彼女と一緒に行くことを選んだのでした。…と考えれば一応、納得できました。
 ホイアンのランタン祭りでキャッキャウフフしているうちはいい。しかしマノンはシャルルの給料で賄える以上に贅沢な暮らしをしたがり、シャルルは金が欲しくてクォンに誘われるまま賭博に手を出すようになる…
 マノンはシャルルの金がどこから来ているのかなんか気にしないし、にぎやかで楽しいお客様は大好きだから家に招待しもてなし騒ぐ。むしろシャルルがそれを怒ることに驚く。シャルルはそんなマノンを愛することがやめられない…
 身に覚えのない嫌疑で投獄されて、シャルルからの手紙を読んで初めて、マノンは経済的に豊かな暮らしを送らせることだけではない「愛」を知るのですね。字が読める程度の教育を授けられていてよかったよね…ともあれここの歌もかなり響くようになりました。
 とはいえ物語のクライマックスはやはり収容所前での政府軍と独立運動の志士たちとの睨み合いのくだりになると思います。ここで主人公のシャルルが傍観者になってしまっているのは物語の構造としてやはり問題だと思いました。もちろん後半、銃を手にしてからは活躍しているのだけれど、たとえばマノンが歌い出した歌を歌い継ぐのはシャルル、としてもよかったのではないでしょうか。もちろんホマが歌い継ぐからこそ感動的なのだ、という部分もあるのだけれど、フランス人のシャルルがマノンから寝物語に教わっていたインドシナの歌を歌う、そこにみんなが唱和する…ということで生まれる感動もあったのではないかしらん。
 そしてこのクライマックス場面に、二番手男役がすでに死んでいて絡んでない、というのがまた大問題なわけですよ…珠城さんでなくても、カチャでもみやちゃんでもいいから絡んでいてこそだろう、と思うのですが、そうなっていません。だから弱いんだよ、盛り上がりに今ひとつ欠けるんだよ…そしてここで活躍しているとしちゃんソンがオスカルチックな儲け役になってしまっています。むしろソンの役を大きくして珠城さんにやらせるべきだったのかも?
 宝塚歌劇は基本構造としてトップトリオが色恋沙汰をやらかしてなんぼだと、私は考えているのです。もちろん私の勝手な持論ですが、たいていの作品はそういう構造になっていますよね。もちろんそうでなくてもおもしろかったり名作だったりする作品もいくつもありますが、でもまずはこの基本を抑えておけば大きな間違いにはならないんだから、だったらそうするべきなんじゃないのかなあ? なんでこんな中途半端になっちゃってるんでしょうかね…
 ラストも原作どおりとはいえ、ヒロインが死んで、主人公がボロボロ泣いて、そりゃ悲しいしもらい泣きもするんだけれど、でもやっぱりちょっと、なんだかなあ…と思わないではないのでした。私はもっとスッキリ気持ちよく泣きたい。キャラクターに感情移入しストーリーに心揺さぶられて泣きたいのです。
 音楽も装置も美しく、水の精のコロスも効果的で、綺麗でいい舞台だったんですけれどもねえ…やはりその肝心のキャラクターとストーリーにいろいろ難がありすぎたのではないか、としか私には思えないのでした。

 お友達とあれこれ話していたときに、「マノンが死ぬのがかわいそう、納得がいかない。何も悪いことしてないのに、なんで死ななきゃならないの?」と言っていて、確かにな、とちょっと思いました。原作どおりなんだけど、原作はだいぶ昔の男の作家が書いたものであり、そこからして改変したってよかったかもしれないんですよね。
 でも景子先生は要するに、娼婦なんか死んで当然、と考えてるんじゃないのかな、と私は思ってしまうのでした。人が身を売らなきゃならないことがありえるとか、愛とかセックスが換金できる場合がありえるとかいうことについて、想像力がないというか、すごく一面的な考えしか持っていないんじゃなかろうか…すみません、完全な憶測であり誹謗中傷にもあたるかもしれませんが、作品からはちょっとそんなことが読み取れる気が私はするのでした。それでは狭いよ、浅いよ、宝塚歌劇はもっと大きな愛が描けるものだと思うよ…?

 珠城さんのクォンは東京ではより鮮やかに濃く悪くゲスくなっていて(肌色もより浅黒くしましたかね?)、よかったと思います。当人は役作りに苦労していたようですが、それはおそらく役や役の考え方がつかめないというよりは、物語の中で演出家が望むようには上手く悪役として立てなくて大変だった、ということではないのかな、と私は思うのでした。でもそれって当然なんだよね、だってクォンって別に間違っていないんだもん。
 フランスもインドシナも彼を守ってくれなかった、だから彼も国なんか愛さない。ソンやカオたちは国を愛しているから国のために命も捨てられるのだろう、でもクォンが愛しているのは自分だけで(この「自分」の中に無意識のうちに妹のマノンが含まれているのだと思うのだけれど)、自分を保つために金と力が必要なだけで、国も独立運動もどうでもいい。それはいたって普通でまっとうな考え方です。
 彼はシャルルとマノンの恋の障害に、あるいはインドシナ独立運動の障害に、特になっていません。どちらの邪魔も彼は積極的にはしません。そこから絞れる金を絞り取ろうとしているだけなのですから。景子先生がクォンをこの物語の障害として書けていないのに、生徒にただ悪役をやれ、悪さが足りないって注文つけたってってそりゃ無理ですよ。
 珠城さんが真面目にグレている熱く暗い男をギラギラと演じているのを観られて、私は十分楽しかったですけれどね。でもやはり物語の中でもっと機能するポジションを、もっと言えばおいしい儲け役の二番手を、光る悪役を、与えてあげてほしかったですよね…
 クォンはあそこでカオに刺されていなくても、ソンに撃たれていなくても、他にも人からたくさん恨みを買っていたし遅かれ早かれどこかで殺されていただろう…みたいなことを珠城さん自身は語っていましたが、そんなこともないと思うよ、クォン幸せエンドだってありえたと思うよ。マダム・チャンに執心していたようにように確かに彼はマザコン気味で、妹とはまた違った意味で愛がなんなのかよくわかっていなくて、なかなかめんどくさい男だとは思うけれどでも、たとえば彼に一心に愛を捧げる女が現れて追っ払われても追っ払われても愛し続けてそばに居続けたら、どこかで心がほぐれたかもしれないよ。そういう夢は見たっていいんだよ…私は、見ます。

 ナガさんやるうちゃんやからんちゃんまゆぽんがさすがの上手さで、ゆりちゃんがシャルルの婚約者に横恋慕している青年を演じていてその斜に構えっぷりがきゅんきゅんで、わかばがまたさすがの華やかさで、みやちゃんが本当に素敵で幻想的で、それぞれ印象的でした。あーさも目立ったよね。あとあちくん! 素敵でした。
 新公ではれんこんのクリストフが鮮やかだったなー、いい親友っぷりでした。あーさがまさおより生真面目ないかにもな青年士官に見えて、ときちゃんがちゃぴよりいかにもな高級娼婦っぽくて、ストーリー的には納得しやすかったのも観ていておもしろかったです。さくさくのカロリーヌが素晴らしかったなー! あとくらげのマダム・チャンも。ありちゃんは歌はいいんだけどクォン役としては全然足りていなかったかな。ソンをやったまゆぽんが良かっただけに、ふたりの対決場面は本公演と全然違うものに見えてしまっていましたね。東京ではどうだったのかしらん…?


 グランド・カーニバルの作・演出は稲葉太地。
 こちらは楽しいショーでした!
 冒頭に「♪1年ぶりのショー」と歌っちゃうくらい、月組も本公演では久々のショーだったんですよね。
 トンチキな衣装のマルティグラ・プロローグも楽しいし、珠城さんに「♪でっかいだけでなんか地味だ」とか歌わせちゃうチェロとレイニー・オーケストラの場面も楽しいし(ここはまだありちゃんをそんなにフィーチャーしなくてもいいんだよ!)、まさみや十八番の妖しさ色っぽさバクハツのミラージ場面も素敵だし、手拍子しやすい中詰めも素晴らしいし、ちゃぴセンターのアフリカン場面はまさに圧巻! そしてゴスペル、フィナーレと流れも美しい。珠城さんの初の大羽根は小さく見えるくらいで頼もしい!
 私はロケットが大好きなので、フィナーレではなく中詰めのラストに置かれた分、たっぷり一場面やっているように見えたのも好感度が高かったです。
 ゆうき、ご卒業おめでとうございます。すごくすごくいい子っぽかったよね…


 さてしかし、最後に毎度しょっぱいながら人事の話をちょっとだけ。以下あくまで勝手に語らせていただく私見なのですが。
 えーと、結局のところ、この先どうするんですかね…? つまり、まさお退団後の陣容は、という話ですが。
 なんか劇団は着々と珠城さんトップスター就任への外堀を埋めてきている気がするのですが、私は珠城さんのファンですけどやっぱりちょっと早すぎない?とびびってしまうのですよ。春でやっと研9になるんでしょ?
 月組はもともと若いトップがいたとか昔のトップは就任がもっと早かったとかは私だって20年以上観ていますから知っていますけど、近年ではそれこそまさおやちえちゃんが低学年での就任だったと思いますが、それでもふたりともそれなりに準備期間がもっとあったじゃん、という…イヤ珠城さんも研2で新公二番手とかやってて抜擢続きで、準備期間があったと言われればそれはそうなんだろうけどさ、でもさ。
 おいしい二番手時代というものが、生徒の引き出しを増やすためにもファンを増やすためにも必要だと思うのですよね…
 二番手時代なるものがかなり不確定だったまぁ様は今は押しも押されぬトップとして花開いていますが、たとえば二番手時代が一公演しかなかったキムとかは、まあそれが原因だったわけではないでしょうがあれだけ大事に育てられてきたのに意外に短いトップ期間で終わったわけだし…
 まあ私の初代贔屓・ヤンさんも二番手は一公演しかやっていませんでしたから、一概には言えないというのはもちろんわかっているんですけれどね。
 とにかく、現状、珠城さんにはまだまだできないことも多いし足りないところもあるし、集客力という点でもまだまだ不安だし、今じゃなきゃ旬じゃないとか長くやらせると飽きられちゃうとかいうタイプではないと思うし、そんなに急ぐ理由もないし、もっといろいろやらせてあげてきちんと育て上げてからトップにしたっていいんじゃないの?と言いたいのです。ファンとしてももっと長く楽しみたいって気持ちが正直あるわけですし。だってトップ就任はめでたいけれど、それは卒業カウントダウンの開始ですからね。
 結局、どうなりそうなんでしょうかねえ…
 珠城さんに充実の二番手時代を与えたい!という観点からだけで考えるなら、公演期間の被りとかまったく考慮せずに発言しますが、だいもんかベニーかゆりかに月組に組替えして来てトップになってもらいたいです。それか、みりおが月トップにスライド。トップ娘役が二組に渡ったことはあるがトップスターでは『ベルばら』ブーム前後でトップスター制度が確立されて以降はそんな事例はない、ということは承知で、あえて。
 それでだいもんを花でトップにしてあげた方が喜ぶファンも多いんじゃないのかなー、とかね。そしてキキにもいい二番手時代を与えてあげたい。それか、月組次期トップをどうするかはまったく別にして、珠城さんを花組二番手にスライドさせるとか。いい勉強になりそうだけどなー。その場合はキキちゃんは星組に戻す、とかね…
 月組次期トップスターを珠城さんで行くというのなら、その下の二番手・三番手人事をどうするつもりでいるのでしょう…? あーさ、ありってワケにはまだいかないと思います。みやちゃんが残ってくれるなら、そして今度こそ正二番手扱いしてくれるのなら、それもいいかなと思いますが…それかちなつを戻すとか? 95期あたりの大シャッフル組替えを断行するとか? うーむ…
 知人で、20年前くらいまで関西で観劇していて、『PUCK』初演も観ているという人を久々に先日の再演『PUCK』に誘い、その後に今回の公演にも同伴したときに、彼女に組の現在の布陣を説明していてハッとなったんですよね。カナメさん時代に、下級生ながら二番手を務めていたユリちゃんのボビーを珠城さんが再演で演じ今二番手になり、それより学年が上で同期のノンちゃんとミツエさんが当時はいて、ノンちゃんはダニーで再演みやちゃんで、ミツエさんはラリーでカチャで、その後ミツエさんは退団して、ユリちゃんがトップになったときにノンちゃんは二番手になった、というその符合っぷりに…震撼しました。
 どうするつもりなんでしょう? 近々何かしらの発表があるのでしょうか…
 お願いだから、発表のタイミング含めよく考えて、なるべくみんなが幸せになれる、栄転人事を頼みます…泣かない人が出ないなんてことはありえないのだろうけれど、でも。
 何があっても観続けるんだろうけど。でも、でもね…

 










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