日本青年館、2011年8月13日ソワレ。
大空さんの公演に関しては、結局いつも劇評としてはきちんとまとめられず、観劇記ではなく日記扱いです。
でもそれが正直なところだなあ…
ファン歴は古いものの会歴は浅く、それでも『カサブランカ』以降は初日には行っているので、ドラマシティ初日にも行きました。
『カサブランカ』以降もお茶会には参加しているので、このときも申し込んでいました。
でも、地震がありました。さすがに東京を離れることはできませんでした。仕事もあったし、家族もいたし。
泣く泣くキャンセルし、でも千秋楽は、悩んだけれど、行きました。前楽とダブルで観劇しました。
それが私のドラマシティ『ヴァレンチノ』観劇のすべてでした。
で、私だって外の舞台はよっぽどのことがない限りリピートしないし、大半の観客は、一回限りの観劇なのが普通だろうから、毎回きちんといつも一定のクオリティで満足させられる出来の舞台を作り上げるのが本当だろう、とは思っています。
でも一方で、舞台って本当に生もので、日々変わるし、長く続ければ進化もし深化もし、ときにダレたり迷ったりすることもある、ということも、リピートし続けていくとわかってくる。
前楽で、千秋楽で、初日より深化中の舞台を観て、さらにもっともっと深く細やかなところまでいける、いくはずだったんだ、と思えただけに、東京公演中止が残念でした。
今だってベストなんです。でもさらに先があるように見えた。先があるはずであることに甘えているのではなくて、今は今でいろいろ確かめつつ今一番いいことをやっているんだけれど、でもまだ発展できる、広げられる深められる…という世界が見える気がしただけに、役と突然の別れを強いられる役者たちの無念さがわかりましたし、東京でないと見られないのよと歯噛みして待っている観客の気持ちもわかる気がしました。
スケジュール的になんとかなればなんとかなるのか?という噂もちらりほらりと聞こえ出して…
そして正式な発表があったとき、本当にうれしかったです。
たとえ一週間というごくごく短い期間の、本公演が終わってすぐという無謀な期間の再演だったとしても。
そして個人的には、
「初日、私の誕生日なんですけど!?」
という驚きも、ありました…
そんな訳で行ってきましたよバースデー観劇。
前日が仕事のドン詰まりで、でも比較的早く片付いて、優雅にお花とケーキなんか買って帰ったらメガネユウヒの恐ろしい(素敵過ぎる)バースデーカードが待っていて悶絶し…
一夜明けて誕生日当日、朝からケーキを食べてツイッターのフォロワーさんに祝われ、ジェルネイネの付け替えに行ってアランチャ仕様にしてもらって青年館に行って観劇して出待ちしてまた地元で一杯飲んで帰宅するという、傍目にはうら寂しいのかもしれないけど全然満足な一日を送ったわけです。
で…
演出助手は、ドラマシティでは生田先生でしたが今回は小柳先生とのこと。
そのせいなのかたまたまなのか個人の印象か、演技は初っ端からずいぶんと細やかに濃く感じられました。
ただしみんな滑舌は悪く台詞は聞き取りづらく(私の席の問題と、青年館の音響の問題もあったかもしれませんが)、力みすぎ感情が乗りすぎて歌はヨレ気味カスレ気味。
それでも、やりたい、演じたい、伝えたい、こう表現したい、という意欲が、ハートが、ビンビン伝わる舞台でした。
それはこちらが勝手に汲んでしまったものでもないと思うのです。
だって、客席はユーモラスなシーンにいちいちすっごいウケていました。初見のお客さんが多いんだと思います。東京でないと観られない、楽しみに待っていたわ、というお客さんが多くて、そういう意味では期待で甘くなっていたかもしれませんが、でも全体にとてもフラットな客席で、リピーターばっかりで全部わかっていてウケる気受け止める気満々、という空気ではないように私には見えた。
それでも、その会場の空気を動かし、感動的な舞台を魅せてくれた。
そんな初日だったように、私には思えました。
本公演中からお稽古が始まって、混乱したり集中できなかったりしたろうに、それでも生徒さんたち全員が自分の役を愛しんでいて、なりきろう、演じよう、その役として生きよう、生き方を見せよう伝えよう、という心意気を感じました。
そしてやはりいろいろと素敵になっていたようにも見えました。
素で、本当にポロポロと泣きました…
ルディーは、私にはドラマシティ版よりさらに若返ったように見えました。恐るべし研20の魔法!
六日前までやっていた三成も、軍事的なことや内政的なことに関しては長けたオトナだったのでしょうが、こと色恋とか人間関係とかには初心で不器用な男性だったわけですが、それを経て、そしてまたそれとは違った意味で、田舎から出てきた純朴な少年、を体現して見せていました。
マキシムの場面ではマダムのあしらい方がより色っぽくなっていて、がっつりいく感じは『ルナロッサ』のシャーハンシャーを思わせて、
「あらあらルディー、オトナになっちゃったのね」
とかアラベスクの美女Sみたいに気持ちで見守っていたのですが((^^;)ちなみにスミカのフィナーレのダンスはキレッキレだった『ルナロッサ』を経てさらに上手くなっていたと思います)、デ・ソウルに踏み込まれてからのおたおたっぷりがもう可愛さ倍増幼さ100倍!
続く駅や撮影所の場面、ジューンのバンガローの場面での下手な嘘のつきっぷりからごはんへのがっつきっぷりまで、もしもしボクどこから来たの?いくつ?とか膝ついて聞きたくなるレベル。
そんな無邪気なルディーが
「ありがとうマシスさん!」
なんて言って抱きしめてくるくる回してくれてチュッ!なんてしちゃうものだから、バツイチで当代一のインテリキャリアウーマンのジューンだって
「ジューンって呼んで!」
なんて言ってチャオ!っておやすみの挨拶するときにはもう恋に落ちていたわけですよ。
それは観客の心の動きと完全に同化しているわけですよ。
そのあと、おもちゃのピストルを頭に当てたりして、自殺の真似事なんかしてみたりして自分を戒めようとするんだけれど、でももう心は動き出しているわけですよ。
それだけの魅力が、若い幼いまっすぐでキラキラしたルディーには、ありました。
ジョージのオフィスを訪ねたルディーが、遅れて現れたジューンに対して
「ジューン!」
と情けない声を上げて、でも顔を輝かせて言うとき、客席は沸きました。
それは、困ったところに助けが来たよ、という体のジョージの
「ジューン!」
と綺麗にかぶったからであり、そのタイミングをこそ笑うものでしたが、一方でルディーのそのあまりにも素直な頼りなさ、自信なさげな様子の愛らしさが微笑を誘ったのです。
みんなが応援したくなる、夢を見たくなる、そんなスター、ルデルフ・ヴァレンチノ。正しい。
なんとかジュリオ役をやり遂げ、一躍スターダムに踊り出て、今度は大女優と競演することになり、まだまだおたおたし、しかし持ち前の素直さと明るさで女優に気に入られてしまう…
そんな中で届いた母親の訃報。
ジューンは気を使ってルディーをひとりにしてくれたけれど、ナターシャは違った。
母親の魂に会えるかもしれない、と言われてナターシャについていくルディー。占い師の占いに心を乱れさせるルディー。ナターシャに引き寄せられ、でも踏み込めず、キスをしかけて止めるけれど、逆に引っ張り返されてキスをするルディー。朝焼けの海を見せたいと言われてそのまま夜をすごしてしまうルディー…
おそらくは合わないのに、それでもナターシャに惹かれ、流され、押し切られてしまうのも、ルディーの若さゆえ…と納得しやすい流れになっていたように、私には思えました。
ルディーにインスピレーションの源を感じ、さらなる芸術作品を作るためにルディーと結婚したナターシャ。
けれどルディーが結婚というものに求める妻と子供、家庭といったビジョンにまったく同調できず、苦しむナターシャ。
そのねじれもまた、とてもわかりやすくなっていたと思います。
ナターシャもまた、ある意味では子供だったのです。
破局と、再出発と。
『シークの息子』試写会のあとのパーティー会場で、怪我を押して出席したルディーがした、真摯なスピーチ。
それは確かにルール違反で、誰にも逆らえない卑怯な手でもある。
それでもジューンは受け入れる。ルディーに、
「どんな役よりも、あなた自身が一番好きよ」
と言える、ただひとりの女性だから。
抱き合うふたりの姿の美しさに、爆泣きしました。
だって、何度かこの舞台を観ている私には、これがゴールではないこと、この先に悲痛な別れが待っていることを知っているから。
たとえば『ロミオとジュリエット』で私が爆泣きしたのは、ラストシーンではなく一幕ラストの「エメ」でした。
ふたりの愛があまりに美しくて、ふたりがとても幸せそうでキラキラ輝いていて、けれどこの物語の行方は万人が知っているものだから。これがゴールではないことを、彼ら以外のすべてが知っている。だから泣けて泣けて仕方がありませんでした。
同様に、このときのルディーとジューンが抱きしめあう姿の美しさ、そのあとの記者とのやり取りでののろけの愛らしさ、微笑ましさ、すべてが涙を誘いました。
その、リピーターは知っている別れの悲しさを、スミカはさらに深化した背中の芝居で見せてくれました。
ジョージからの電話に絶句し、おそらくは電話の声が聞こえなくなり、ものが考えられなくなり、でも心には穴がぽっかり開いたようで、信じたくないのに知ってしまっている、彼がもうこの世にいないことを感じ取ってしまっている自分が情けなくて忌まわしくて…
ぺたんと座り込んで。タイプライターのキーをいくつか打ってみたりして。でももう何も書けない。
涙ながらに歌う「ラテン・ラヴァー」。
そして現れるルディーの幻。ジュリオ、アルマン、ムハメッド、ガラルド。
彼らとともにオレンジの樹の向こうに消えていくジューン…
台詞はなく、ただ全身すべてで表現する、その凄み…
初見の人にはこれがラストシーンにも思えたかもしれない暗転の後、喪服姿のジョージにピンスポットが当たって、さらに涙が倍増します。
どこまでも温かい、ふたりの良き友人だったジョージ。アリスと温かい家庭を築き上げて幸せだったに違いないジョージ。
そんな彼が優しく語る後日談。彼が書く回想録。
よみがえるルディーとジューンの姿。
オレンジの枝を折って転んだルディー。彼が差し出すオレンジの枝を受け取るジューン。この世ではなしえなかった、愛の絆の証の行為…
あああいま思い出してもヒヤヒヤするんだけれど、幕が下りるのが早かったですよね?
二階席から見切れませんでした?
ちゃんとジューンが受け取るとこまで見えました?
たっぷり見せて、それから幕を下ろしてもバチは当たらないよ!
初日ならではのセットその他装置のどたばたは散見されましたが、これはホント頼みますよ!!
フィナーレで
「いつの日か集うだろう、母と妻と子供たち」
と歌うフィナーレの男S(イヤ知らないけどそんな役名なのか。フィナーレについてはプログラムの記載がないので)が、「妻と」というところでフィナーレの女Sつまりスミカを振り返るフリになっていたことに今回初めて気づいて、縛泣き。
ルディーにとってジューンは妻なの、男役トップスターにとって娘役トップスターは妻なの。
私はフェミニストですが婚姻というものにはロマンを抱いていて肯定的に考えており、一夫一夫制を信奉しているしトップコンビを夫婦になぞらえるのが嫌いではないのですよ。
トップ就任時、ユウヒが早くに退団するならスミカは残ってほしいな、でも同時退団を選ぶタイプかな、とか余計な心配をしていました。
まだまだ若いし、ユウヒが相手役として連れてこなくてもどこかできっとトップ娘役になれただろうし、そのほうが長く深くやれたかもしれないよね、ごめんね、とかエラそうなことを考えていたわけですよ。
でも、意外にもと言っていいと思うのだけれど、これだけ就任期間があるとなると、なんかこう、納得具合というかやりきった感が感じてもらえて卒業を迎えてもらえるのではなかろうかと思えてきて…
ありがたい、よかった、とも思うし、ごめんねという気兼ねを感じなくてすむようになってきたというか…こちらの勝手な一方的な感情なのだけれど…
で。
『誰鐘』でやりきって、男役のある種の極北を演じきって、もう思い残すことないな、そろそろいいな、次でいいなとホントに本人も一度は考えたと思うんですよね。
だけど、ルディー役が意外に難しかった。そして魅力があり、やりがいが感じられた。まだまだ出来ないことってあるな、やれることってあるな、って思っちゃったと思うんですよね。
だから続けたくなった。組子の変化もあってすぐには手放せなかったという巡り合せもあっただろうし。
そして何より一番近くで、スミカがどんどん変わっていって見せたんだと思うんですよね。
不器用だけど、でもなんでも出来て、本当に深いところまでいっちゃう、若くて綺麗とかだけでは全然ない相手役で。
ふたりでまだ出来ることがある、だからいられるならもう少しいたい、と思ってくれたんじゃないかと思うんですよね。あくまで想像なんだけれど。
だから、そういう形で、ユウヒのそばにいてくれるスミカに、感謝しないではいられないし、そういうトップコンビのあり方は本当に夫婦になぞらえていいものだと私は考えているのです。
今「スミカ」って打とうとしたら「住処」って出たよこのパソコン。本名由来だって、もっと素敵な漢字だって知っているけれど、本当にありがとうスミカ、ありがとうなんて言うことが上から目線だってわかってる、でも他に言いようがないの。
男役トップスターのファンには相手役を嫌うタイプの人もいます。やっかむ心理はわからなくはない。でも私は相乗効果を愛したいの。大好きな人を一番近くで支えてくれる相棒がいてくれるということが嬉しいの。
だから、フィナーレに、泣きました。
えーと、スーパーあもたまタイムが妖しくて素敵だったよとか、スーパーもっさんタイムが妖しくて素敵だったよとか(前者と後者の「妖しい」は著しく意味が違うが)、せーこアラ可愛いよやっぱナターシャとくっついてたらイロイロこじれなかったのにねとかすっしぃさんが二役とも素敵とかタマミちゃんより気合の入った新進わがまま女優っぷりだったなとかいろいろあるのですが、酔いもいい加減回っていますので本日はこのへんで。
誤字脱字ひどかったらすみません…
あくまで個人の感想と思いの丈です…
大空さんの公演に関しては、結局いつも劇評としてはきちんとまとめられず、観劇記ではなく日記扱いです。
でもそれが正直なところだなあ…
ファン歴は古いものの会歴は浅く、それでも『カサブランカ』以降は初日には行っているので、ドラマシティ初日にも行きました。
『カサブランカ』以降もお茶会には参加しているので、このときも申し込んでいました。
でも、地震がありました。さすがに東京を離れることはできませんでした。仕事もあったし、家族もいたし。
泣く泣くキャンセルし、でも千秋楽は、悩んだけれど、行きました。前楽とダブルで観劇しました。
それが私のドラマシティ『ヴァレンチノ』観劇のすべてでした。
で、私だって外の舞台はよっぽどのことがない限りリピートしないし、大半の観客は、一回限りの観劇なのが普通だろうから、毎回きちんといつも一定のクオリティで満足させられる出来の舞台を作り上げるのが本当だろう、とは思っています。
でも一方で、舞台って本当に生もので、日々変わるし、長く続ければ進化もし深化もし、ときにダレたり迷ったりすることもある、ということも、リピートし続けていくとわかってくる。
前楽で、千秋楽で、初日より深化中の舞台を観て、さらにもっともっと深く細やかなところまでいける、いくはずだったんだ、と思えただけに、東京公演中止が残念でした。
今だってベストなんです。でもさらに先があるように見えた。先があるはずであることに甘えているのではなくて、今は今でいろいろ確かめつつ今一番いいことをやっているんだけれど、でもまだ発展できる、広げられる深められる…という世界が見える気がしただけに、役と突然の別れを強いられる役者たちの無念さがわかりましたし、東京でないと見られないのよと歯噛みして待っている観客の気持ちもわかる気がしました。
スケジュール的になんとかなればなんとかなるのか?という噂もちらりほらりと聞こえ出して…
そして正式な発表があったとき、本当にうれしかったです。
たとえ一週間というごくごく短い期間の、本公演が終わってすぐという無謀な期間の再演だったとしても。
そして個人的には、
「初日、私の誕生日なんですけど!?」
という驚きも、ありました…
そんな訳で行ってきましたよバースデー観劇。
前日が仕事のドン詰まりで、でも比較的早く片付いて、優雅にお花とケーキなんか買って帰ったらメガネユウヒの恐ろしい(素敵過ぎる)バースデーカードが待っていて悶絶し…
一夜明けて誕生日当日、朝からケーキを食べてツイッターのフォロワーさんに祝われ、ジェルネイネの付け替えに行ってアランチャ仕様にしてもらって青年館に行って観劇して出待ちしてまた地元で一杯飲んで帰宅するという、傍目にはうら寂しいのかもしれないけど全然満足な一日を送ったわけです。
で…
演出助手は、ドラマシティでは生田先生でしたが今回は小柳先生とのこと。
そのせいなのかたまたまなのか個人の印象か、演技は初っ端からずいぶんと細やかに濃く感じられました。
ただしみんな滑舌は悪く台詞は聞き取りづらく(私の席の問題と、青年館の音響の問題もあったかもしれませんが)、力みすぎ感情が乗りすぎて歌はヨレ気味カスレ気味。
それでも、やりたい、演じたい、伝えたい、こう表現したい、という意欲が、ハートが、ビンビン伝わる舞台でした。
それはこちらが勝手に汲んでしまったものでもないと思うのです。
だって、客席はユーモラスなシーンにいちいちすっごいウケていました。初見のお客さんが多いんだと思います。東京でないと観られない、楽しみに待っていたわ、というお客さんが多くて、そういう意味では期待で甘くなっていたかもしれませんが、でも全体にとてもフラットな客席で、リピーターばっかりで全部わかっていてウケる気受け止める気満々、という空気ではないように私には見えた。
それでも、その会場の空気を動かし、感動的な舞台を魅せてくれた。
そんな初日だったように、私には思えました。
本公演中からお稽古が始まって、混乱したり集中できなかったりしたろうに、それでも生徒さんたち全員が自分の役を愛しんでいて、なりきろう、演じよう、その役として生きよう、生き方を見せよう伝えよう、という心意気を感じました。
そしてやはりいろいろと素敵になっていたようにも見えました。
素で、本当にポロポロと泣きました…
ルディーは、私にはドラマシティ版よりさらに若返ったように見えました。恐るべし研20の魔法!
六日前までやっていた三成も、軍事的なことや内政的なことに関しては長けたオトナだったのでしょうが、こと色恋とか人間関係とかには初心で不器用な男性だったわけですが、それを経て、そしてまたそれとは違った意味で、田舎から出てきた純朴な少年、を体現して見せていました。
マキシムの場面ではマダムのあしらい方がより色っぽくなっていて、がっつりいく感じは『ルナロッサ』のシャーハンシャーを思わせて、
「あらあらルディー、オトナになっちゃったのね」
とかアラベスクの美女Sみたいに気持ちで見守っていたのですが((^^;)ちなみにスミカのフィナーレのダンスはキレッキレだった『ルナロッサ』を経てさらに上手くなっていたと思います)、デ・ソウルに踏み込まれてからのおたおたっぷりがもう可愛さ倍増幼さ100倍!
続く駅や撮影所の場面、ジューンのバンガローの場面での下手な嘘のつきっぷりからごはんへのがっつきっぷりまで、もしもしボクどこから来たの?いくつ?とか膝ついて聞きたくなるレベル。
そんな無邪気なルディーが
「ありがとうマシスさん!」
なんて言って抱きしめてくるくる回してくれてチュッ!なんてしちゃうものだから、バツイチで当代一のインテリキャリアウーマンのジューンだって
「ジューンって呼んで!」
なんて言ってチャオ!っておやすみの挨拶するときにはもう恋に落ちていたわけですよ。
それは観客の心の動きと完全に同化しているわけですよ。
そのあと、おもちゃのピストルを頭に当てたりして、自殺の真似事なんかしてみたりして自分を戒めようとするんだけれど、でももう心は動き出しているわけですよ。
それだけの魅力が、若い幼いまっすぐでキラキラしたルディーには、ありました。
ジョージのオフィスを訪ねたルディーが、遅れて現れたジューンに対して
「ジューン!」
と情けない声を上げて、でも顔を輝かせて言うとき、客席は沸きました。
それは、困ったところに助けが来たよ、という体のジョージの
「ジューン!」
と綺麗にかぶったからであり、そのタイミングをこそ笑うものでしたが、一方でルディーのそのあまりにも素直な頼りなさ、自信なさげな様子の愛らしさが微笑を誘ったのです。
みんなが応援したくなる、夢を見たくなる、そんなスター、ルデルフ・ヴァレンチノ。正しい。
なんとかジュリオ役をやり遂げ、一躍スターダムに踊り出て、今度は大女優と競演することになり、まだまだおたおたし、しかし持ち前の素直さと明るさで女優に気に入られてしまう…
そんな中で届いた母親の訃報。
ジューンは気を使ってルディーをひとりにしてくれたけれど、ナターシャは違った。
母親の魂に会えるかもしれない、と言われてナターシャについていくルディー。占い師の占いに心を乱れさせるルディー。ナターシャに引き寄せられ、でも踏み込めず、キスをしかけて止めるけれど、逆に引っ張り返されてキスをするルディー。朝焼けの海を見せたいと言われてそのまま夜をすごしてしまうルディー…
おそらくは合わないのに、それでもナターシャに惹かれ、流され、押し切られてしまうのも、ルディーの若さゆえ…と納得しやすい流れになっていたように、私には思えました。
ルディーにインスピレーションの源を感じ、さらなる芸術作品を作るためにルディーと結婚したナターシャ。
けれどルディーが結婚というものに求める妻と子供、家庭といったビジョンにまったく同調できず、苦しむナターシャ。
そのねじれもまた、とてもわかりやすくなっていたと思います。
ナターシャもまた、ある意味では子供だったのです。
破局と、再出発と。
『シークの息子』試写会のあとのパーティー会場で、怪我を押して出席したルディーがした、真摯なスピーチ。
それは確かにルール違反で、誰にも逆らえない卑怯な手でもある。
それでもジューンは受け入れる。ルディーに、
「どんな役よりも、あなた自身が一番好きよ」
と言える、ただひとりの女性だから。
抱き合うふたりの姿の美しさに、爆泣きしました。
だって、何度かこの舞台を観ている私には、これがゴールではないこと、この先に悲痛な別れが待っていることを知っているから。
たとえば『ロミオとジュリエット』で私が爆泣きしたのは、ラストシーンではなく一幕ラストの「エメ」でした。
ふたりの愛があまりに美しくて、ふたりがとても幸せそうでキラキラ輝いていて、けれどこの物語の行方は万人が知っているものだから。これがゴールではないことを、彼ら以外のすべてが知っている。だから泣けて泣けて仕方がありませんでした。
同様に、このときのルディーとジューンが抱きしめあう姿の美しさ、そのあとの記者とのやり取りでののろけの愛らしさ、微笑ましさ、すべてが涙を誘いました。
その、リピーターは知っている別れの悲しさを、スミカはさらに深化した背中の芝居で見せてくれました。
ジョージからの電話に絶句し、おそらくは電話の声が聞こえなくなり、ものが考えられなくなり、でも心には穴がぽっかり開いたようで、信じたくないのに知ってしまっている、彼がもうこの世にいないことを感じ取ってしまっている自分が情けなくて忌まわしくて…
ぺたんと座り込んで。タイプライターのキーをいくつか打ってみたりして。でももう何も書けない。
涙ながらに歌う「ラテン・ラヴァー」。
そして現れるルディーの幻。ジュリオ、アルマン、ムハメッド、ガラルド。
彼らとともにオレンジの樹の向こうに消えていくジューン…
台詞はなく、ただ全身すべてで表現する、その凄み…
初見の人にはこれがラストシーンにも思えたかもしれない暗転の後、喪服姿のジョージにピンスポットが当たって、さらに涙が倍増します。
どこまでも温かい、ふたりの良き友人だったジョージ。アリスと温かい家庭を築き上げて幸せだったに違いないジョージ。
そんな彼が優しく語る後日談。彼が書く回想録。
よみがえるルディーとジューンの姿。
オレンジの枝を折って転んだルディー。彼が差し出すオレンジの枝を受け取るジューン。この世ではなしえなかった、愛の絆の証の行為…
あああいま思い出してもヒヤヒヤするんだけれど、幕が下りるのが早かったですよね?
二階席から見切れませんでした?
ちゃんとジューンが受け取るとこまで見えました?
たっぷり見せて、それから幕を下ろしてもバチは当たらないよ!
初日ならではのセットその他装置のどたばたは散見されましたが、これはホント頼みますよ!!
フィナーレで
「いつの日か集うだろう、母と妻と子供たち」
と歌うフィナーレの男S(イヤ知らないけどそんな役名なのか。フィナーレについてはプログラムの記載がないので)が、「妻と」というところでフィナーレの女Sつまりスミカを振り返るフリになっていたことに今回初めて気づいて、縛泣き。
ルディーにとってジューンは妻なの、男役トップスターにとって娘役トップスターは妻なの。
私はフェミニストですが婚姻というものにはロマンを抱いていて肯定的に考えており、一夫一夫制を信奉しているしトップコンビを夫婦になぞらえるのが嫌いではないのですよ。
トップ就任時、ユウヒが早くに退団するならスミカは残ってほしいな、でも同時退団を選ぶタイプかな、とか余計な心配をしていました。
まだまだ若いし、ユウヒが相手役として連れてこなくてもどこかできっとトップ娘役になれただろうし、そのほうが長く深くやれたかもしれないよね、ごめんね、とかエラそうなことを考えていたわけですよ。
でも、意外にもと言っていいと思うのだけれど、これだけ就任期間があるとなると、なんかこう、納得具合というかやりきった感が感じてもらえて卒業を迎えてもらえるのではなかろうかと思えてきて…
ありがたい、よかった、とも思うし、ごめんねという気兼ねを感じなくてすむようになってきたというか…こちらの勝手な一方的な感情なのだけれど…
で。
『誰鐘』でやりきって、男役のある種の極北を演じきって、もう思い残すことないな、そろそろいいな、次でいいなとホントに本人も一度は考えたと思うんですよね。
だけど、ルディー役が意外に難しかった。そして魅力があり、やりがいが感じられた。まだまだ出来ないことってあるな、やれることってあるな、って思っちゃったと思うんですよね。
だから続けたくなった。組子の変化もあってすぐには手放せなかったという巡り合せもあっただろうし。
そして何より一番近くで、スミカがどんどん変わっていって見せたんだと思うんですよね。
不器用だけど、でもなんでも出来て、本当に深いところまでいっちゃう、若くて綺麗とかだけでは全然ない相手役で。
ふたりでまだ出来ることがある、だからいられるならもう少しいたい、と思ってくれたんじゃないかと思うんですよね。あくまで想像なんだけれど。
だから、そういう形で、ユウヒのそばにいてくれるスミカに、感謝しないではいられないし、そういうトップコンビのあり方は本当に夫婦になぞらえていいものだと私は考えているのです。
今「スミカ」って打とうとしたら「住処」って出たよこのパソコン。本名由来だって、もっと素敵な漢字だって知っているけれど、本当にありがとうスミカ、ありがとうなんて言うことが上から目線だってわかってる、でも他に言いようがないの。
男役トップスターのファンには相手役を嫌うタイプの人もいます。やっかむ心理はわからなくはない。でも私は相乗効果を愛したいの。大好きな人を一番近くで支えてくれる相棒がいてくれるということが嬉しいの。
だから、フィナーレに、泣きました。
えーと、スーパーあもたまタイムが妖しくて素敵だったよとか、スーパーもっさんタイムが妖しくて素敵だったよとか(前者と後者の「妖しい」は著しく意味が違うが)、せーこアラ可愛いよやっぱナターシャとくっついてたらイロイロこじれなかったのにねとかすっしぃさんが二役とも素敵とかタマミちゃんより気合の入った新進わがまま女優っぷりだったなとかいろいろあるのですが、酔いもいい加減回っていますので本日はこのへんで。
誤字脱字ひどかったらすみません…
あくまで個人の感想と思いの丈です…
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