帝国劇場、2022年6月14日18時。
博多座、7月24日12時。
1930年なかばのニューヨーク。スカイ(井上芳雄)と呼ばれる大物ギャンブラーがいた。仲間のネイサン(浦井健治)は婚約者アデレイド(望海風斗)へのプレゼント代と賭場代を得ようと、スカイに指名した女を落とせるか賭けを申し込む。自信たっぷりのスカイだが、ネイサンが指名した女性は、清楚で超堅物な救世軍の軍曹サラ(明日海りお)だった…
原作/デイモン・ラニヨン、音楽・作詞/フランク・レッサー、脚本/ジョー・スワリング、エイブ・バロウズ、演出/マイケル・アーデン、振付/エイマン・フォーリー、装置/デイン・ラフリー、日本語台本・訳詞/植田景子。1950年ブロードウェイ初演。マーロン・ブラントやフランク・シナトラ出演の映画『野郎どもと女たち』も有名なミュージカル。全2幕。
宝塚歌劇星組版の感想はこちら。
発表時はやはり豪華スター陣の配役に目がくらみ、新演出になるのも楽しみだししかも外国人演出家(『春のめざめ』で有名な方だそうですが私は名前も知らず、すみません…)、きっとお洒落に仕立ててくれるに違いない!とときめき、しかしチケット取れるのかね博多まで行っちゃう?とみりお担の親友と盛り上がって都合三回手配してしまったのですが…
マイ初日、けっこう前方の下手サブセンブロックの中央寄りととても良い席で拝見しましたが、あまりのつまらなさに驚愕しました…全然良くない!
てか宝塚歌劇と違ってフィナーレがないのに、休憩込み3時間たっぷりやるって今どきどうなの? よーっぽど内容がなければ許される仕儀ではないと思うんですけど…
あとまず舞台前方に置かれている、半円形にくり抜いた黒い板が嫌。なんであんなに舞台を狭く使うわけ? もっと小さいハコの方がこの作品には合うんだってことならこの企画がそもそも駄目ってことじゃん。あとたくさんの人が喜んでいるっぽい舞台真ん中のビルのセット、意味あります? デカくて邪魔なだけでは? 二階があるビルでそこにアンサンブルが入って働いている様子とか見せているけど、メインキャストが行くことはないし(三階?屋上??にナイスリーが行くけど)、無駄では? 地下が伝道所になっていてビル全体がセリ上がると現れるようになっているんだけど、せせこましいし階段の上り下りも狭そうで見苦しい。何よりこのセットが本舞台のほとんどを埋めていて、周りにブロードウェイの通りの様子なんかが全然見えない。サラが目の敵にする通りの猥雑さが窺えないのです。それじゃ駄目じゃない?
そりゃ宝塚大劇場の舞台の間口の大きさには比べられないんだけど、とにかく全体にあまりに窮屈で、かつお洒落さが皆無だと私は感じました。
衣装(衣裳/有村淳)も、サラもアデレイドもビジュアルで出ているお衣装以外はなんか妙にくすんだ色目で、可愛くなかったです。演出家の好みか指示か、当時の風俗ってことなのかもしれないけれど、もっと鮮やかな色を使ってもよかったのに…
冒頭の、映画のクレジットみたいな映像を見せる演出も、なんならよくあるし私は舞台演劇には邪道ではと思っているクチなので、全然感心しませんでした。
そして本編が始まると…宝塚歌劇ってやっぱりよくできているんだなとまず思ったのは、スターが登場するときには、まあ音楽が鳴るパターンは最近は少ないけれど、とにかくすごくわかりやすく「ハイ出ましたよ!」って演出してくれるじゃないですか。少なくとも明るいライトが当たってめっちゃわかりやすい。でもそういうのがないままに、ネイサンもスカイもわりとなんとなく登場するので、そりゃ私はこの良席だしふたりを俳優としてけっこう知っているから見分けがつくけど、キャラとしてのつかみや魅力には欠けるし、とにかく全体に薄ぼんやりしてるなあと思ってしまいました。
あと、これまたお衣装の話かもしれませんが、普通の男性俳優がグレーや紺のスーツを着て出てくると、多少着崩れた様子があっても、それがビジネスマンなのかヤクザなギャンブラーなのか全然わかりませんでした。イヤこの時代の実際のギャンブラーが歌舞伎町のヤクザみたいな、あるいは宝塚歌劇版の紫だのエメラルドグリーンだののデーハーなスーツ着てるわけないじゃん、ってのはもちろんあるかもしれないけれど、でも舞台の演出として、キャラの記号として、もっとわかりやすくするべきではないの?
これはヨシオとかウラケンとかがある種の演劇界のアイドルなのでみんなが人柄とかも知っちゃってて、どうしてもいい人に見えちゃう、ってのもあるのかもしれないけど…でもそれでいったら宝塚歌劇だって同じことで、やはり演出や記号や、何より芝居が足りてなかったのではないでしょうか。
そう、なんか芝居が、というか役者の演技が全体にぼんやり感じられたんですよね…もともとそんなに書き込まれた脚本ではないのかもしれないけれど、それをなんとかするのが役者の力量では? でもなんかヨシオもウラケンも手抜きしてないか?って思えるくらい上っ面の演技をしているように感じました。歌は別にフツーに上手いんだけど。でも感情が伝わらないから全然心が動きませんでした。
そしてヒロインのみりおが全然良くなかった…この人って真面目だから、できてないってのが自分でわかってて、それが態度に出ちゃってるんじゃないの?とも思いました。現役時代は歌える人枠だったのに外部では歌がきついのはあいかわらずで、高音が出ないならこういうザッツ・ソプラノのヒロインのお役を引き受けてはいけないのではと思ったし、とにかく細くて小柄すぎて舞台で映えない! 別に歌舞伎役者みたいに顔がデカい方がいいとは言わないけれど、登場時にオーラが全然なかったのは問題では…サラって、お祈り姉ちゃんとか揶揄されつつも、それさえなければ口説きたいと野郎どもが思うようなめっちゃ美人、って設定なんじゃないの? でも全然そこらの小娘に見えました。ヒロインがこれじゃ萌えないよ…だからハバナではっちゃけようと私は全然ノレませんでした。とにかく閉じていたと思う。全然ディンドンしてなかったです。
あと、リアルチューにびっくりしましたね…まずあの場面、何を歌っていて何を表現しているシーンなのか私には皆目つかめなくてただ眺めていたら、いきなりのキスだったので、あっ恋に落ちたってこと?それか誘惑し、魅了されたって場面だったの!?と素で驚きましたし、今どき実際にする口づけ(!)だったことにも仰天しました。こんなにヒロインふたりが宝塚のOGで同期、みたいな売り方してるんだからキスも宝塚式でよかったのでは? まあスカイも単なる誘惑のつもりだったのにサラが可愛くてつい本気出しちゃって性急にキスしちゃった…みたいなことを表現したかったのだろうから、むちゅーっとくっついている口と口を見せなきゃならなかったのかもしれないけど…別に「あのみりおが男性とキスなんて!」みたく騒ぐ気はないんだけれど、ヨシオの妹が同期ってのも喧伝されている事実だし、そんな兄がアンタまさか手を出すなんてイヤー!(><)とはなりますよね…しかも二度も三度もさあ…
それから、だいもんアデレイドはそりゃ上手かったけど、でもやはり無理してチューニングしている感じがしました。舞台をさらわないように(『ガラスの仮面』で言うところの舞台あらしですね)わざとセーブしてるんじゃないのかな、とかね。あとはみりおのサラとちゃんと違うポジションにいるキャラとして存在していようとしているというか…イヤそれは役者としてはまったく正しいことなんだけれど、でもそういうことを無理してやっているのが垣間見えるこの座組、芝居、演出全体がそもそも駄目なんじゃないの?って気が私はしました。『ネクスト・トゥ・ノーマル』の方が断然よかったですよね…
あと、結局アデレイドって男に騙されている、ちょっとアタマの足りないブロンドのショーガールの役なわけで、だいもんはそりゃいい塩梅でやってるんだけど、こんななんでもできる人にこんな役やらせんでくれよ…と悲しい気持ちに私はなりました。
年相応のアデレイドでいい、みたいな意見も聞いたけど、そうかなあ? わたしはこっちゃんアデレイドが絶品だったと思っているし、あれくらいすっとんきょうに突き抜けてくれれば吹っ切れて観られたかなと思ったんですよね。そしてたとえば16歳で婚約して14年待たされているなら30歳ってことですけど、そしてこの時代ならそれは立派な行き遅れのおばさんだったんでしょうけど、今の感覚だとアラサーって20歳と変わらないくらいぴちぴちしている人が多いし、こっちゃんアデレイドを若すぎると思ったことは私はなかった気がします。あと、くしゃみの数が減ってませんでした? でもコレ、このお話の根幹に関わる大問題ですよ?
星組版の記事でも書きましたが、このお話のキモは、女性は結婚できないことにストレスを感じていて、男性は結婚することにストレスを感じていて、だからネイサンと結婚できないアデレイドはくしゃみを連発しているし、アデレイドと結婚したネイサンはくしゃみをするようになる、ってところです。あと、結婚って要するにギャンブルで、まあ未来のことはやってみないとわからないんだからすべて賭けみたいなものなんですけど、とにかくそのことに気づいたギャンブル嫌いの多少凝り固まっていた女性ふたりが、結婚という賭けに打って出る、ってのがおもしろいワケです。あるいはそのアイロニーがいい作品なんでしょ? でもそこが今回も全然わかりやすく出ていないなと思いました。
さらに言うと、確かに未来がこれからどうなるかなんて誰にもわからなくてすべて賭けなんだけれど、でもあまりにも分が悪い賭けなら打って出る必要はないわけで、そんな配当の安そうなギャンブルみたいな結婚ならやめちゃえば?という視点が現代に生きる観客にはあるわけじゃないですか。そりゃ作品当時は男も女もよっぽどの事情がないと結婚しないなんてことはない時代だったのかもしれないけれど、今上演するなら今観る観客がどう受け止めるかってことを慮る必要があるわけでさ…
それから言うと、この作品はもう、コンテンツとして寿命を終えているんじゃないでしょうかね? 曲はいいし、いくつか有名になったものもあるけれど、ストーリーがもうしんどい。もっと刈り込んでぐっとテンポアップして、こういう時代もありました、そういう時代のラブコメです、オトナのレトロなファンタジーです、って感じにお洒落に作れるならまだしも…(というか今回私はそれをとても期待していたわけですが)
いやそれでも、「結婚」なるものを巡って男女で違うストレスがあるのだ、ってのがなんかもう、ねえ…もはや我が国以外では婚姻は男女間でのみするものでもないしさ、いろんな理由で非婚化って進んでいるしさ(我が国では自由や多様化のためというより貧困のためである点は本当に嘆かわしい…)、そんなにストレスなら無理してせんでいいよ、もっと愛して愛されて結婚する楽しく美しいお話プリーズ、って思っちゃうんですよね。アイロニーとか要らないわけです。
スカイやネイサンはあまりキャラが立っておらず、対してサラやアデレイドはわりとちゃんと設定があるわけですが、それは要するに当時の制作者の男性陣が女性をこの2種類程度にしか考えていなかったということなのであって、それがもう古いんですよ化石レベルなんですよ、もう終わコンなんですよ多分…宝塚歌劇でファンタジックなお伽話、として上演するのでギリ、なんじゃないですかね…?
マイ楽を終えたあと親友が言い出しておもしろいなと思ったのは、今ならもう『GUYS AND GAYS』みたいな作品を作るべきなんじゃないの?という意見でした。たとえば精神的マッチョなデイトレーダー男性ふたりと、真面目なLGBTQ活動家男性と長い間待たされ関係を内緒にさせられているドラァグクイーン男性の物語…とかに翻案しておもしろくなるなら、そのほうが観たいですよねもはや…
はー、みっきぃもよかったけど今回もアーヴァイド(林アキラ)がよかったです。彼だけがよかったくらいです。
久しぶりのミサノエ~ルもきっちり仕事してましたけどね。マリオももちろん上手いよ、でもどなたかが言っていましたがそもそも似たような役者を揃えすぎなんですって。みんなミュージカルの主役が張れるタイプでしょ、そんな佃煮感いらないよね…
客席もどっかん湧いてなかったし、まーったりしていたように感じられました。でも博多座ではカテコのおねだりがすごくて退いたな…中止になったりしているんだから、スタオベになったらそれを最後にしてさっさと規制退場アナウンス流して客電つけるべきだと思いました。だらだら何度もやらせてヒューヒュー言わせて、感染が広がったらどうすんの…?
あと、そもそもそんな出来のいい、集中した、盛り上がった舞台じゃなかったじゃん…
帝劇公演はマイ初日のあとわりとすぐにコロナで中止となり、二度目予定だったチケットが飛び、三度目の予定だった博多座はなんとか無事に観られてこれがマイ楽となりましたが、さすがに全体に掛け合いのテンポなどが良くなっていてマシに思えましたし、みりおは歌はあいかわらず微妙だったけど芝居はいいな、ちゃんとサラをやってるな、と思えるようになっていました。だいもんのチューニング具合もより良くなっていた印象です。
でもやはり全体に翻訳が良くなくて、洒脱な会話になっていないぞとかジョークや諧謔が日本語に落とし込みきれていないぞとイライラさせられどおしで、私はやっぱり観ていてとにかく疲れたのでした。まあノット・フォー・ミーということだったのかもしれませんが…ウダウダお読み苦しいことばかり書いていてすみません…
ちなみに博多旅行は、太宰府にお参りに行ったり、ザ・ルイガンズに泊まって海の中道海浜公園をサイクリングしたりマリンワールドに行ったりと、夏休みを満喫できて楽しかったです。ことあるごとに手指消毒して、マスクも二重にして、ノーマスクで騒ぐ子供たちにはなるべく近寄らないようにして気をつけたつもりです。引き続き引きこもれるところは引きこもり続けて、しかしもういつ罹ってもいいように解熱剤やうがい薬やのど飴やトローチやゼリーの準備だけはして、それでもなんとか罹らないですむよう身を清め息を潜めて、生き延びたいと思います。みなさまもどうぞご安全に…
博多座、7月24日12時。
1930年なかばのニューヨーク。スカイ(井上芳雄)と呼ばれる大物ギャンブラーがいた。仲間のネイサン(浦井健治)は婚約者アデレイド(望海風斗)へのプレゼント代と賭場代を得ようと、スカイに指名した女を落とせるか賭けを申し込む。自信たっぷりのスカイだが、ネイサンが指名した女性は、清楚で超堅物な救世軍の軍曹サラ(明日海りお)だった…
原作/デイモン・ラニヨン、音楽・作詞/フランク・レッサー、脚本/ジョー・スワリング、エイブ・バロウズ、演出/マイケル・アーデン、振付/エイマン・フォーリー、装置/デイン・ラフリー、日本語台本・訳詞/植田景子。1950年ブロードウェイ初演。マーロン・ブラントやフランク・シナトラ出演の映画『野郎どもと女たち』も有名なミュージカル。全2幕。
宝塚歌劇星組版の感想はこちら。
発表時はやはり豪華スター陣の配役に目がくらみ、新演出になるのも楽しみだししかも外国人演出家(『春のめざめ』で有名な方だそうですが私は名前も知らず、すみません…)、きっとお洒落に仕立ててくれるに違いない!とときめき、しかしチケット取れるのかね博多まで行っちゃう?とみりお担の親友と盛り上がって都合三回手配してしまったのですが…
マイ初日、けっこう前方の下手サブセンブロックの中央寄りととても良い席で拝見しましたが、あまりのつまらなさに驚愕しました…全然良くない!
てか宝塚歌劇と違ってフィナーレがないのに、休憩込み3時間たっぷりやるって今どきどうなの? よーっぽど内容がなければ許される仕儀ではないと思うんですけど…
あとまず舞台前方に置かれている、半円形にくり抜いた黒い板が嫌。なんであんなに舞台を狭く使うわけ? もっと小さいハコの方がこの作品には合うんだってことならこの企画がそもそも駄目ってことじゃん。あとたくさんの人が喜んでいるっぽい舞台真ん中のビルのセット、意味あります? デカくて邪魔なだけでは? 二階があるビルでそこにアンサンブルが入って働いている様子とか見せているけど、メインキャストが行くことはないし(三階?屋上??にナイスリーが行くけど)、無駄では? 地下が伝道所になっていてビル全体がセリ上がると現れるようになっているんだけど、せせこましいし階段の上り下りも狭そうで見苦しい。何よりこのセットが本舞台のほとんどを埋めていて、周りにブロードウェイの通りの様子なんかが全然見えない。サラが目の敵にする通りの猥雑さが窺えないのです。それじゃ駄目じゃない?
そりゃ宝塚大劇場の舞台の間口の大きさには比べられないんだけど、とにかく全体にあまりに窮屈で、かつお洒落さが皆無だと私は感じました。
衣装(衣裳/有村淳)も、サラもアデレイドもビジュアルで出ているお衣装以外はなんか妙にくすんだ色目で、可愛くなかったです。演出家の好みか指示か、当時の風俗ってことなのかもしれないけれど、もっと鮮やかな色を使ってもよかったのに…
冒頭の、映画のクレジットみたいな映像を見せる演出も、なんならよくあるし私は舞台演劇には邪道ではと思っているクチなので、全然感心しませんでした。
そして本編が始まると…宝塚歌劇ってやっぱりよくできているんだなとまず思ったのは、スターが登場するときには、まあ音楽が鳴るパターンは最近は少ないけれど、とにかくすごくわかりやすく「ハイ出ましたよ!」って演出してくれるじゃないですか。少なくとも明るいライトが当たってめっちゃわかりやすい。でもそういうのがないままに、ネイサンもスカイもわりとなんとなく登場するので、そりゃ私はこの良席だしふたりを俳優としてけっこう知っているから見分けがつくけど、キャラとしてのつかみや魅力には欠けるし、とにかく全体に薄ぼんやりしてるなあと思ってしまいました。
あと、これまたお衣装の話かもしれませんが、普通の男性俳優がグレーや紺のスーツを着て出てくると、多少着崩れた様子があっても、それがビジネスマンなのかヤクザなギャンブラーなのか全然わかりませんでした。イヤこの時代の実際のギャンブラーが歌舞伎町のヤクザみたいな、あるいは宝塚歌劇版の紫だのエメラルドグリーンだののデーハーなスーツ着てるわけないじゃん、ってのはもちろんあるかもしれないけれど、でも舞台の演出として、キャラの記号として、もっとわかりやすくするべきではないの?
これはヨシオとかウラケンとかがある種の演劇界のアイドルなのでみんなが人柄とかも知っちゃってて、どうしてもいい人に見えちゃう、ってのもあるのかもしれないけど…でもそれでいったら宝塚歌劇だって同じことで、やはり演出や記号や、何より芝居が足りてなかったのではないでしょうか。
そう、なんか芝居が、というか役者の演技が全体にぼんやり感じられたんですよね…もともとそんなに書き込まれた脚本ではないのかもしれないけれど、それをなんとかするのが役者の力量では? でもなんかヨシオもウラケンも手抜きしてないか?って思えるくらい上っ面の演技をしているように感じました。歌は別にフツーに上手いんだけど。でも感情が伝わらないから全然心が動きませんでした。
そしてヒロインのみりおが全然良くなかった…この人って真面目だから、できてないってのが自分でわかってて、それが態度に出ちゃってるんじゃないの?とも思いました。現役時代は歌える人枠だったのに外部では歌がきついのはあいかわらずで、高音が出ないならこういうザッツ・ソプラノのヒロインのお役を引き受けてはいけないのではと思ったし、とにかく細くて小柄すぎて舞台で映えない! 別に歌舞伎役者みたいに顔がデカい方がいいとは言わないけれど、登場時にオーラが全然なかったのは問題では…サラって、お祈り姉ちゃんとか揶揄されつつも、それさえなければ口説きたいと野郎どもが思うようなめっちゃ美人、って設定なんじゃないの? でも全然そこらの小娘に見えました。ヒロインがこれじゃ萌えないよ…だからハバナではっちゃけようと私は全然ノレませんでした。とにかく閉じていたと思う。全然ディンドンしてなかったです。
あと、リアルチューにびっくりしましたね…まずあの場面、何を歌っていて何を表現しているシーンなのか私には皆目つかめなくてただ眺めていたら、いきなりのキスだったので、あっ恋に落ちたってこと?それか誘惑し、魅了されたって場面だったの!?と素で驚きましたし、今どき実際にする口づけ(!)だったことにも仰天しました。こんなにヒロインふたりが宝塚のOGで同期、みたいな売り方してるんだからキスも宝塚式でよかったのでは? まあスカイも単なる誘惑のつもりだったのにサラが可愛くてつい本気出しちゃって性急にキスしちゃった…みたいなことを表現したかったのだろうから、むちゅーっとくっついている口と口を見せなきゃならなかったのかもしれないけど…別に「あのみりおが男性とキスなんて!」みたく騒ぐ気はないんだけれど、ヨシオの妹が同期ってのも喧伝されている事実だし、そんな兄がアンタまさか手を出すなんてイヤー!(><)とはなりますよね…しかも二度も三度もさあ…
それから、だいもんアデレイドはそりゃ上手かったけど、でもやはり無理してチューニングしている感じがしました。舞台をさらわないように(『ガラスの仮面』で言うところの舞台あらしですね)わざとセーブしてるんじゃないのかな、とかね。あとはみりおのサラとちゃんと違うポジションにいるキャラとして存在していようとしているというか…イヤそれは役者としてはまったく正しいことなんだけれど、でもそういうことを無理してやっているのが垣間見えるこの座組、芝居、演出全体がそもそも駄目なんじゃないの?って気が私はしました。『ネクスト・トゥ・ノーマル』の方が断然よかったですよね…
あと、結局アデレイドって男に騙されている、ちょっとアタマの足りないブロンドのショーガールの役なわけで、だいもんはそりゃいい塩梅でやってるんだけど、こんななんでもできる人にこんな役やらせんでくれよ…と悲しい気持ちに私はなりました。
年相応のアデレイドでいい、みたいな意見も聞いたけど、そうかなあ? わたしはこっちゃんアデレイドが絶品だったと思っているし、あれくらいすっとんきょうに突き抜けてくれれば吹っ切れて観られたかなと思ったんですよね。そしてたとえば16歳で婚約して14年待たされているなら30歳ってことですけど、そしてこの時代ならそれは立派な行き遅れのおばさんだったんでしょうけど、今の感覚だとアラサーって20歳と変わらないくらいぴちぴちしている人が多いし、こっちゃんアデレイドを若すぎると思ったことは私はなかった気がします。あと、くしゃみの数が減ってませんでした? でもコレ、このお話の根幹に関わる大問題ですよ?
星組版の記事でも書きましたが、このお話のキモは、女性は結婚できないことにストレスを感じていて、男性は結婚することにストレスを感じていて、だからネイサンと結婚できないアデレイドはくしゃみを連発しているし、アデレイドと結婚したネイサンはくしゃみをするようになる、ってところです。あと、結婚って要するにギャンブルで、まあ未来のことはやってみないとわからないんだからすべて賭けみたいなものなんですけど、とにかくそのことに気づいたギャンブル嫌いの多少凝り固まっていた女性ふたりが、結婚という賭けに打って出る、ってのがおもしろいワケです。あるいはそのアイロニーがいい作品なんでしょ? でもそこが今回も全然わかりやすく出ていないなと思いました。
さらに言うと、確かに未来がこれからどうなるかなんて誰にもわからなくてすべて賭けなんだけれど、でもあまりにも分が悪い賭けなら打って出る必要はないわけで、そんな配当の安そうなギャンブルみたいな結婚ならやめちゃえば?という視点が現代に生きる観客にはあるわけじゃないですか。そりゃ作品当時は男も女もよっぽどの事情がないと結婚しないなんてことはない時代だったのかもしれないけれど、今上演するなら今観る観客がどう受け止めるかってことを慮る必要があるわけでさ…
それから言うと、この作品はもう、コンテンツとして寿命を終えているんじゃないでしょうかね? 曲はいいし、いくつか有名になったものもあるけれど、ストーリーがもうしんどい。もっと刈り込んでぐっとテンポアップして、こういう時代もありました、そういう時代のラブコメです、オトナのレトロなファンタジーです、って感じにお洒落に作れるならまだしも…(というか今回私はそれをとても期待していたわけですが)
いやそれでも、「結婚」なるものを巡って男女で違うストレスがあるのだ、ってのがなんかもう、ねえ…もはや我が国以外では婚姻は男女間でのみするものでもないしさ、いろんな理由で非婚化って進んでいるしさ(我が国では自由や多様化のためというより貧困のためである点は本当に嘆かわしい…)、そんなにストレスなら無理してせんでいいよ、もっと愛して愛されて結婚する楽しく美しいお話プリーズ、って思っちゃうんですよね。アイロニーとか要らないわけです。
スカイやネイサンはあまりキャラが立っておらず、対してサラやアデレイドはわりとちゃんと設定があるわけですが、それは要するに当時の制作者の男性陣が女性をこの2種類程度にしか考えていなかったということなのであって、それがもう古いんですよ化石レベルなんですよ、もう終わコンなんですよ多分…宝塚歌劇でファンタジックなお伽話、として上演するのでギリ、なんじゃないですかね…?
マイ楽を終えたあと親友が言い出しておもしろいなと思ったのは、今ならもう『GUYS AND GAYS』みたいな作品を作るべきなんじゃないの?という意見でした。たとえば精神的マッチョなデイトレーダー男性ふたりと、真面目なLGBTQ活動家男性と長い間待たされ関係を内緒にさせられているドラァグクイーン男性の物語…とかに翻案しておもしろくなるなら、そのほうが観たいですよねもはや…
はー、みっきぃもよかったけど今回もアーヴァイド(林アキラ)がよかったです。彼だけがよかったくらいです。
久しぶりのミサノエ~ルもきっちり仕事してましたけどね。マリオももちろん上手いよ、でもどなたかが言っていましたがそもそも似たような役者を揃えすぎなんですって。みんなミュージカルの主役が張れるタイプでしょ、そんな佃煮感いらないよね…
客席もどっかん湧いてなかったし、まーったりしていたように感じられました。でも博多座ではカテコのおねだりがすごくて退いたな…中止になったりしているんだから、スタオベになったらそれを最後にしてさっさと規制退場アナウンス流して客電つけるべきだと思いました。だらだら何度もやらせてヒューヒュー言わせて、感染が広がったらどうすんの…?
あと、そもそもそんな出来のいい、集中した、盛り上がった舞台じゃなかったじゃん…
帝劇公演はマイ初日のあとわりとすぐにコロナで中止となり、二度目予定だったチケットが飛び、三度目の予定だった博多座はなんとか無事に観られてこれがマイ楽となりましたが、さすがに全体に掛け合いのテンポなどが良くなっていてマシに思えましたし、みりおは歌はあいかわらず微妙だったけど芝居はいいな、ちゃんとサラをやってるな、と思えるようになっていました。だいもんのチューニング具合もより良くなっていた印象です。
でもやはり全体に翻訳が良くなくて、洒脱な会話になっていないぞとかジョークや諧謔が日本語に落とし込みきれていないぞとイライラさせられどおしで、私はやっぱり観ていてとにかく疲れたのでした。まあノット・フォー・ミーということだったのかもしれませんが…ウダウダお読み苦しいことばかり書いていてすみません…
ちなみに博多旅行は、太宰府にお参りに行ったり、ザ・ルイガンズに泊まって海の中道海浜公園をサイクリングしたりマリンワールドに行ったりと、夏休みを満喫できて楽しかったです。ことあるごとに手指消毒して、マスクも二重にして、ノーマスクで騒ぐ子供たちにはなるべく近寄らないようにして気をつけたつもりです。引き続き引きこもれるところは引きこもり続けて、しかしもういつ罹ってもいいように解熱剤やうがい薬やのど飴やトローチやゼリーの準備だけはして、それでもなんとか罹らないですむよう身を清め息を潜めて、生き延びたいと思います。みなさまもどうぞご安全に…
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