駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ラビット・ホール』

2023年04月15日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 PARCO劇場、2023年4月13日18時。

 ニューヨーク郊外の閑静な住宅街に暮らす、ベッカ(宮澤エマ)とハウイー(成河)のコーベット夫妻。彼らの四歳のひとり息子ダニーは、八か月前、飼い犬を追いかけて道路に飛び出し、交通事故で亡くなっていた。息子を偲びつつ前に進もうとするハウイーと、息子の思い出に触れることもできないベッカ。彼女は妹のイジー(土井ケイト)や母ナット(シルビア・グラブ)の言動にもイライラし、傷つくが…
 作/デヴィッド・リンゼイ=アベアー、翻訳/小田島創志、演出/藤田俊太郎。2006年ブロードウェイ初演、ピュリッツァー賞戯曲部門受賞。2010年には映画化もされた戯曲、全二幕。

 去年かな? KATTでも上演があったんだそうですね。それをチラシか何かで見ていて、タイトルは知っていた気になっていたのかな? そのときはKATTまで行く気になれなかったんだと思うのですが(なんせかったるい遠さなもんで…むしろドラマシティとかにならホイホイ行く)、今回は役者も素晴らしく良いところ揃いだし、いそいそとチケットを取りました。とはいえ出遅れて後方でしたがほぼセンターが取れて、二階部分もあるけれど基本的に横長に作られたセット(美術/松井るみ)を綺麗に眺められて、よかったです。でも振り返ると後ろはもう空席で、平日夜の回だったからかもしれませんが満員完売ではないようでしたね。いい舞台なのになあ、シリアスばかりでもないしなあ、残念だなあ。
 アメリカ演劇の多くが家族を描いてきたそうで、その家族はたいてい機能不全に陥っていて、その崩壊で終わる物語がほとんどなんだそうです。確かにそうかも。それは「アメリカの家族の理想がとても高く、元々達成できない目標だからである」とプログラムの寄稿にあります。その感じはとてもよくわかります。
 なのでこの作品は、珍しいくらいに、家族の再生の可能性を示して終わる、稀有な例なんだそうです。「悲しい芝居である。ただし、必要以上に悲しくしないこと」という指示が戯曲の最後に作家から添えられているそうで、笑いも多い舞台でした。かつ過剰な涙も和解のハグみたいなものもない。静かでヒリヒリする。そしてほの温かくなって終わる演目しでした。
 私は結婚したことも出産したことも子供を失ったこともないので、そういう意味ではベッカに共感できないと言えば言えます。ありがたいことに両親も健在でピンピンしていて、祖父母とは疎遠に育ったので親しい人を亡くした経験もほぼありません。だからそういうときの気持ちは本当には想像できていないかもしれないからです。でも、つらいことがあるとき人はどうするか、家族はどうするか、と広く考えるならもちろんわかることがあって、そんな気持ちで見守りました。
 ちょうど見ていた韓ドラに、夫を亡くした妻は寡婦、妻を亡くした夫はやもめ、親を亡くした子は孤児という言葉があるのに、子供を亡くした親にはそういう名前がない、それだけつらいことなのだ、というような台詞がありました。韓国語にないだけで、ズバリな単語がある言語もあるのかもしれませんが…日本語でも、逆縁という言葉はあっても(もちろん中国由来の言葉かも)それはその親そのものを指すものではないから、やはりそうしたズバリな単語はないわけです。あまりないケース、あるいはあってほしくないケース、ということなのかもしれません。あるいは子供が事故なく育ち上がるようになったのはごく最近ということなのか…
 それでも、いつの時代でも、幼い子供を亡くすことは最大の悲劇のひとつでしょうが、誰を、何を失うことに関しても、どんなに親しい者同士でも同じように傷つき悲しむとは限らないし、癒やされ方や回復の仕方、スピードも全然違うものです。その齟齬による軋轢の物語だと思いました。それでも家族なら、愛があるなら、支え合い助け合っていけることもある、そんな奇跡のような物語…
 一方で、ジェンダーギャップみたいなものの物語でもあるのかもしれない、とも感じました。ダニーが娘なら、イジーが兄なら、ナットが父なら、ジェイソン(この日は阿部顕嵐)が女子高生なら、また全然違った物語になったのではないかしらん、というちょっと意地悪な視点です。作家は男性で、主人公は女性ですよね。女性作家が男性主人公でこういう話を書くかな?とか、性別をすべて逆転させても同じにならないだろう非対称性を感じる、というか…
 ともあれ、そういえばミュージカル女優さんでストプレは初かも、みたいなヒロインの宮澤エマがとてもよかったです。主人公ではなく、「ヒロインの夫」役である成河もとてもよかった。てかみんなマジ上手い。ここまで日本語以外の言語が使える役者でアメリカ住みの経験がある人もいて、いろいろ議論しながら作っていった翻訳であり演技だったそうで、そういうのも素晴らしいことだなと思いました。
 ジェイソンはダブルキャスト(もうひとりは山崎光)でけっこう違っているそうなので、それで印象がだいぶ違う作品になっているのかもしれません。私は彼が罪悪感を全然感じていないように見えることに驚いたのですが、そういう若者だ、ということなのでしょう。あくまで事故で、過失はなく、未成年だし犯罪だとはされなかったのかもしれないけれど、自分の運転で子供が死んでいたらもっと落ち込みそうなものですが、彼はそういうことがまだよくわかっていないほど幼いか愚かなのか、自分のせいではないと考えることで自分の身を守っている弱い人間なのでしょう。彼が書いてダニーに捧げたパラレルワールドもののSFは、逃避ではなくて本当にちゃんと書いていたもので、献辞のほうがたまたまだったのでしょう。何故なら彼は父親を亡くしているらしく、どちらかと言えばそれを書いたもののようだったからです。それはくわしくは語られないけれど、彼には彼の物語があるということです。
 でも、スピードを出しすぎていたかもしれないことは、謝りたかったのです。それでのこのこと訪ねてくる。まだ気遣いや社会性の熟度が足りない、子供だということです。それがハウイーを激高させ、逆にベッカはほだされるのです。ダニーもやがてこういう少年になったかもしれないから…というのは直裁にすぎるかもしれませんが、なんにせよベッカは癒やされたのでした。
 タイトルの兎の穴は、落ちると異界に通じてしまうかもしれない、というものです。ダニーの事故とそれを起こしたジェイソンのパラレルワールド小説、という意味で彼はこの作品のキーポイントで、彼だけが家族の外の存在でもある。だから彼のややザラついた、観客に違和感を持たせる存在感やぎこちなさは、演技の上手さによるものなのかはたまた下手だからなのか、すごく効果を上げていて、私はよかったと思いました。
 プログラムもお洒落な装丁で、台割りを考えるのがタイヘンかつ楽しそう、とか思ってしまいました。性別で別れて違うテーマで語る座談会も読み応えがありました。
 秋田、福岡、大阪まで、どうぞご安全に。定点カメラからの資料映像みたいなのでいいから配信があると、それも素敵そう。別にアップに寄る必要がない舞台だと思いました。





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