駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『アンナ・カレーニナ』

2023年02月26日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアターコクーン、2023年2月24日13時(初日)。

 1870年代後期のロシア帝国。美しく魅惑的な社交界の華アンナ・カレーニナ(宮沢りえ)は、著名な政府高官の夫カレーニン(小日向文世)とひとり息子セリョージャ(石田莉子)とともにサンクトペテルブルクに暮らしていた。ある日、モスクワをひとりで訪れたアンナは、駅で若き将校ヴロンスキー伯爵(渡邊圭祐)と出会う。アンナはヴロンスキーからの強烈なアプローチを拒絶し続けるが、自分の心を偽ることができず、ついに…
 原作/レフ・トルストイ、上演台本・演出/フィリップ・ブリーン、翻訳/木内宏昌、美術/マックス・ジョーンズ、照明/勝柴次朗、音楽/パディ・カーン。シアターコクーンが2016年秋からスタートさせた「DISCOVER WORLD THEATER」第13弾で、本来は20年夏に第8弾として上演される予定だったもののリベンジ公演。全二幕。

 わりと好きな作品のひとつで、宝塚版だとこちら、他にもこちらこちらなどを観ています。キーラ・ナイトレイ主演の映画も最近テレビでやっていたので見ましたが、トム・ストッパード脚本でそれこそ舞台演劇仕立てになっていて、とてもおもしろかったです。ジュード・ロウもよかった!
 というわけで大空さんご出演の報には舞い上がりました。その後コロナで中止になってしまい、再び上演が発表されたときにもまた舞い上がりました。しかし今見ると、続投キャストは宮沢アンナと大空ドリーだけなんですね。カレーニンは段田安則、他に今『エゴイスト』でときめく宮沢氷魚と白州迅って、えっどっちがリョーヴィン(浅香航大)でどっちがヴロンスキー…? 川島海荷はキティ(土居志央梨)ですよね、吹越満がスティーヴァ(梶原善)? ヤダこのバージョンも観たすぎました…!
 でも、もちろん宮沢りえありきのリスケで、他にスケジュールが合わせられたのがたまたま大空さんだけだったのかもしれないけれど…とか思って観たのですが(ホント失礼ですんません)、ドリーがとても大きないいお役になっていて、この作品はこの大空ドリーあってのものだったのかもしれないわ!とか思いました。てかアンナじゃないのはもちろん、ミッツィとかにならない大空さんをホント愛し信頼しています…!! 一、二幕とも1時間40分という長さ、濃さの作品でしたがまったく退屈せず、夢中で観ました。てか一、二幕とも仕事始めるのは大空さんだもんね? すごいよね信頼されてるよなー…
 というわけでまずドリーとスティーヴァの諍いの場面、継いでスティーヴァがリョーヴィンと会ってキティに求婚するようけしかける場面、からのやっと駅にアンナが現れてヴロンスキーと出会う…と流れる構成なので、まあ私の見方がちょっとアレだったのかもしれませんけれどアンナはあまりヒロイン、主人公、タイトルロールに見えない気がしました。この群像劇の中の一キャラクターに見えた、というか。ミュージカルではないので心情を歌い上げるような場面もないし、彼女の内心や本当の姿が見えづらかった気がしたのです。
 宝塚版だとヴロンスキーが主人公で、タイトルロールでヒロインであるアンナと恋に落ちるのはほぼ自明なわけですが、実際の、というか原作小説の、そして他の舞台でのヴロンスキーはむしろ鼻持ちならない青二才の色事師、に近いイメージのキャラクターですよね。この舞台でも、駅でのアンナとの出会いはまだしも、その後の舞踏会でのキティを利用したアンナへの近づき方や気の持たせっぷりなど、ホント最低男としてきっちり描かれているわけで、その後も押せ押せで列車までついてこられたりなんたりとあったにせよ、何故アンナが恋に落ちるのか、もっと言うとこの男と寝る決心がつけられたのかがわりと謎だよな、とは思いました。
 プログラムには「これまで無数の『アンナ・カレーニナ』の映画や舞台が、アンナの自殺に決定的な理由を提示しようとしてきた。トルストイはそれをしていない」と書かれていますが、どちらかというと自殺の理由はどの版でも十分わかるように描かれているのではないかしらん。でもこの時代のこの国のこの階層の女性で、処女で嫁ぎ夫しか男を知らず夫の息子を産み、社交界の華と呼ばれしかし聡明で貞淑で浮気ひとつしない、それはしていても尻尾を出さないという意味ではなく本当にしたことがない、そういう女性であるアンナが道を踏み外す理由に紙幅を割かないのは、いかにも男性視点な気はしました。若い二枚目になら堕ちるだろ、みたいな視線すら感じる。なんと安易な…男ってホント馬鹿ですね。
 アンナの愛情や性欲はもっと強く豊かで、カレーニンとの結婚生活だけでは満たされなかったのだ、というならそこにもっと注視し、男性としてまず反省してもらいたい。その上で話を進めていただきたい。それはドリーも同じで、九年の結婚生活で七人産んで五人育てて、夫はもう妻はただの母親になってしまって女じゃない、だから興味は失せたもっと若いよその女のところに行く…とか言うんでしょうが妻の方は別にそうではないわけで、未だにちゃんと夫に抱かれたいと考えているわけです。なんならこれまでだってちゃんとしてもらったことはなかった、とすら考えている。だからただ真っ当に要求しているだけなのに、男は逃げるんです。男は妻のひとりも満足させられていないのに愛人を囲おうとする愚行について、もっと反省すべきでしょう。そういう視点が全然ないぞ。
 だから、アンナがドリーやキティと対比されるのではなく、またヴロンスキーとカレーニンが対比されるのでもなく、むしろアンナとリョーヴィンが対比されるのがこの作品の構造となっているのだけれど、それが「都会に生きる女は愛欲に破滅し、田舎で暮らす男は労働に平穏と幸福を得る」みたいな雑なまとめになるのなら、私は全力で抗う生き方をしますけどね、としか言えないわけです。まあ実際には、ラスト暗転間際、星を眺める夫を横から見上げるキティのなんとも言えない表情に解答があったのでしょうけれどね。もちろんそこには愛情もあった、けれど何言っちゃってんのこの人(「それより洗面台」)みたいな視線も確かにあったと私には思えたのです。これがこう批評的に演出されているなら、まだ救いはあるのかもしれません。
 それは、ドリーやキティの描かれ方にも表れていたのかもしれませんね。ドリーが単なる地味で不美人な主婦とか、あるいはキティが単なる浅はかな浮かれた令嬢、みたいに描かれることもままあるのですが、今回はそんなじゃありませんでした。個人的にはキティはもうちょっと可愛くてもいいんじゃないの、と思うくらいには私にも若い娘への幻想はあるのですが(笑)、ヴロンスキーにフラれて恥かいて落ち込んで寝込んで暴れて、リョーヴィンと結婚するとなっても彼の過去に嫉妬して叫んで暴れて、というキティはまっすぐで健全で健康的です。人間、我慢はよくない。もちろん円滑な社会生活のためにはある程度は必要なんだけど、でも限度はあって、我慢しすぎるとアンナのように暴発するのだ、ということなのでしょう。リョーヴィンも決して心の広い完璧な男なんかでは全然ないし、キティをほとんど盲目的に崇めるように愛していることにはむしろ大丈夫かこいつ、みたいに心配になる面もあるのだけれど、信仰ってそういうものでそういう強さが彼にはあることも確かで、だからキティが暴れてもリョーヴインが逃げ出すことはおそらくない、だからここはうまくいく…と思えてお話は終わる、「神空にしろしめし、すべて世はこともなし」というのがこの作品なのかもしれません。もちろんその陰でタイトルロールたる女がひとり死んでいるのだけれど。ヴロンスキーは左遷気味とはいえ、そしてもしかしたらこの先前線で戦死するかもしれないとはいえ、貴族として軍人として生きていはいるというのに…ああ、無情。これはそういうお話なのでしょう。
 宮沢りえが嫋々としていて、浅香航大が朴訥で、渡邊圭祐がしゅっとしていて、梶原善がホントしょーもなくてホントよかったです。今回のカレーニンはどちらかというといい人風味でしたかね。あとはあまり描かれることのないリョーヴィンの兄ニコライ(菅原永二)のガールフレンド?同志?内縁の妻?のマーシャ(深見由真)がとてもよかったです。あとシチェルバツカヤ伯爵夫人の梅沢昌代、卑怯なまでによかったわー存在感あったわー。あとはペトカ(片岡正二郎)が泣かせてくれましたが、しかしこれはいわゆるマジカル二グロ枠キャラなのではあるまいか…うぅーむ。
 そして大空さんドリーが本当に素敵でした。お腹の大きい大空さんを見るってのもなかなかないしね! 「周りの男性は子育てしかしていない教養のない女性と思っている」ようなキャラクターをあんなにクレバーな大空さんがきっちりいい感じに演じてくれていて、ホントにまにましちゃいました。それでいて舞踏会の場面のお稽古でリードがなっていなかったのか代わりにやって見せて宮沢りえに惚れられかける一幕もあったらしいからさすがです。いやでもアンナとのシスターフッドぶりや、後半みんながアンナを冷遇し出してもドリーだけは変わらず愛情を注ぎ案じ心配し気を配っているところ、ホントいいなと思うんですよね。ドリーはアンナの忠告に従ってスティーヴァを赦したことを悔いているかもしれないけれど、怒っているのは自分の決断でありこんなことがあってなお変わろうとしないスティーヴァに対してであって、アンナを逆恨みするようなことはしていないのです。そこが素晴らしい。まあアンナの方はそこまでドリーの友情を必要としていなかったのだろうけれど、それはアンナの問題だし、友情にも片想いはあるので仕方ないことです。アンナがドリーの助けをもっと支えとしていれば、死ななくてすんだのかも…というのはそれこそ後の祭りなのでしょう。
 舞台の上には椅子や小道具がゴタゴタ置かれていて、役者が移動させつつ空いた空間がどこかの場となって芝居が進む演劇らしい演劇で、ミュージシャンもそこにいて演奏するのも素敵で、かと思えば汽車の汽笛をコーラスのように役者たちが歌うのが恐ろしく、不穏で素晴らしかったです。そしてセリョージャだけでなく、スティーヴァとドリーの子供ターニャ(この日は佐々木奏音)とグリーシャ(渡辺心優)もずっと舞台のどこかしらにいて、それは別の時間や空間ではあるんだけれど大人たちのメロドラマが子供たちに絶対に影響を及ぼしているよね、ってのが感じられて、しんどく恐ろしく悲しくなりました。上手い。天井から下がる覆いのような、箱の蓋のような部分も効果的でした。ただニコライが死ぬくだりでだけここにロシア語の字幕が出ていた気がしましたが、当然読めませんし、なんの意味があったかは不明だったかな…
 決してわかりにくい舞台だとは私は思わなかったけれど、幕間に後ろの席のふたり連れが、今どきのわかりやすい舞台ではなく、ソフトカバーではなくハードカバーの本を読んでいるような感覚に…みたいなことを語り合っていて、まあロシア文学ですしね、と思いました。でも別にものすごく格調高いとか重厚すぎるということはなく、ユーモラスな場面も多くて客席からもけっこう笑いが湧いていましたし、人間ドラマとしてとてもよかったと思いました。アンナとヴロンスキーの恋愛も決してロマンティック一辺倒ではありませんでしたしね。列車の音がダメな人や寝間着の血がダメな人はいるかもしれません。でも私はとてもおもしろく観ました。
 初日でしたが挨拶みたいのものは特になく、ラインナップだけであっさり終演。でもハケ際の宮沢りえが隣の小日向文世の背に手を当てていたのが微笑ましくて、よかったです。
 そうそう私はコクーンの一階サイド席に初めて座りましたが、観づらいことはなかったけどやはりいかがなものかと思いました。席は斜めに振られているけどまっすぐ座ると正面は舞台の端になり、結局舞台に向くには椅子に対して斜めに座って観ることになるし、なので隣の人が多少前にかかるし自分も逆サイドの人の邪魔になっていやしないかとヒヤヒヤするわけです。こんな席を作ることは劇場の構造上おかしいと思う。コクーンがなくなってここにまた新たな劇場が建てられるのか知りませんが、予定があるならぜひ設計段階からよく吟味していただきたいです。





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