作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv32002/
以下、早稲田松竹のHPよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。
=====ここから。
バカなクラスメイト、つまらない大人たち――死んだ町をぶらぶら彷徨い歩く ふたりの少女の分かれ道
1990年代、アメリカ都市郊外の名もなき町。幼馴染で親友のイーニド(ソーラ・バーチ)とレベッカ(スカーレット・ヨハンソン)は、高校卒業後も進路を決めず、町をぶらついては面白いことを探して過ごしている。
ある日、二人はモテないレコードマニアの中年男・シーモア(スティーヴ・ブシェミ)に出会う。ダサくても自分の世界を持っているシーモアに興味を持ったイーニドは、アウトサイダーとして生きる彼の“理解者”として交流を深め、奇妙な友情関係を築いていく。
一方、アパートを借りるために地元のコーヒーショップに就職し、社会と折り合いをつけて自立しようとするレベッカ。同居生活を計画していた二人の間には次第に距離が生まれ…。
=====ここまで。
原作はコミックらしい。
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ちょっと前に、リバイバル上映があるとTwitterのタイムラインで流れて来て、見たいな~、と思いつつ結局行けず仕舞い、、、。TSUTAYAでDVDレンタルできるみたいだし、まあいっか、、、と思っていたところ、早稲田で上映してくれたので見に行ってまいりました。
◆誰もが通る道
映画友も本作を早稲田に見に行ったらしく、感想を長文メールしてきた。そこには「すべてのサブカル女子は“イーニドはわたしだ”と思ったのでは」と書かれていて、彼女の10代の頃の話をイロイロ聞いて来た者としては、「まあそーだろうね」と納得したが、私はどちらかと言うまでもなく、完璧にレベッカタイプの人間なので、映画友ほどイーニドに入り込むことは出来なかったのだった。
でもね。あの頃の女子独特の冷笑的気質、空虚感、残酷さ、、、等々は、ある意味、誰もが通る道という感じもして、大いに共感する部分でもあった……のだが、私が本作を見て感じたことは別のことであった。んで、上記の映画友のメールを見て、さらにそれを強く感じさせられたのだった。
つまり、私の10代(大学で家を出るまで)は、なーんにも考えていなかったのだなー、、、ということ。別に親のせいにするわけじゃないが、とにかく、支配されることに慣れてしまっていて、思考停止だったような気がするのだ。
4歳上の姉がメチャクチャ優秀で、私は足元にも及ばない成績だったんだが、それ故、本人としては頑張ったつもりでも、母親の眼には「まるでダメ子」にしか見えなかったらしく、とにかく勉強机の前に座っていないと怒られた。本を読むのもダメ、当然マンガもダメ、音楽聞くのもダメ、、、。小学生のとき、名古屋まで塾に通わされていたのだが、マリー・ローランサンの展覧会が塾から駅までの帰り道で開催されているから行きたいと言ったら「こんな成績で絵見に行きたいって、あんたアホと違う??」と路上で罵られたんだけど、私が憮然として断固「行きたい!」と訴えたら、ウンザリした顔で辛うじて見に行かせてくれた。が、その帰り道、電車に乗っている間中、家に着くまでずーーーーーーーっと、お説教だった。もう、いつも言われていることで、私にとってはご利益の無い念仏みたいなもんだったから、脳内でさっき見たローランサンの絵を思い浮かべてぼんやりしていたのだった。そういう私の態度がますます母親の癪に触り、家に帰ってから怒鳴り散らされた。
ある時は、学校で休憩時間中にお絵描きしようと思って、お絵描き帳を出そうとノートに触ったら、やけにノートの厚みがない。はれ??と思ってよく見ると、絵が描いてあったページは全部破り取られていて、残り真っ白な数ページが辛うじて残っていた、、、なんてこともあった。家に帰って「ノート破った?」って母親に聞いたら「もう○年生にもなってあんなくだらん絵描いとったらあかんの!!」と言われて終わりだった。
……というようなことが幼少期から日常茶飯事であると、だんだん感性が麻痺するというか、学校へ行っている時間は辛うじて自身を取り戻すのだが、家に帰ると“無”になるしかなかったような気がする。中学で自分の部屋を与えられると、多少、親の目を盗んで、本を読んだり、マンガを読んだり、日記を書いたり、、、していたけど、見つかって激高されると、絶望するんだよね。あーあ、、、って。高校生になっても、机の中を漁られたり、本棚を調べられたりはしょっちゅう、友人との電話を別の電話で聞かれたり、なんてこともあったが、さすがに高校は通学時間という学校でも家でもない空間があり、そこで本を読んだりマンガ読んだり友人と駄弁ったりはできたが、所詮知れている。
なので、イーニドのように、世間に対し不貞腐れることさえ思いが及ばない、、、というか、ところてんのように押し出されるがまま、、みたいに生きていた10代だった。
ただ、私の本質的な気質として、イーニドのように思いっ切りレールを外れる勇気もなく、レベッカ同様、世間というものに自ら馴染んでいく常識人なので、イーニドのぶっ飛んだ言動は面白い半面、正直言ってヒヤヒヤするばかり。自分の小心者っぷりを改めて思い知る。
さらに言えば、拗らせることのできるイーニドがちょっぴり羨ましくもなった。イーニドはイーニドなりに悩み苦しんでいるのだろうが、それは、私のような思考停止少女からみれば、それだけ“余裕”があるのであり、自分らしく居られているのではないか、、、と思えてしまう。……これってヒガミかしらん。
◆あのバスは何処へ、、、。
ラストシーンが、見方が分かれているらしい。
前述の映画友は、メールに「哀しいラスト」と書いてあった。ネットを見ると、あのバスに乗ってどこかへ行くのは、自死の暗示だという解釈があるらしく、ビックリ。
私は、イーニドが拗らせにケリをつけるべく、ここではないどこかへ旅立つ、割と前向きなシーンと捉えたのだけど。
監督自身はインタビューで、見る人の心に委ねたいと言っているようだけど、若い子たちのモラトリアム映画の結末が自死だなんて、私としては好きじゃないので、その解釈は好きじゃないなぁ、、、という感じだ。
ただ、ちょっとなぁ、、、と思っちゃったのは、オタクのブシェミとイーニドが、終盤男女の関係になっちゃうこと。ああなっちゃったら、ブシェミはただのキモオタに成り下がってしまうではないか。私はブシェミが好きなので、余計にそれは受け入れがたい(と、飽くまで個人的感情)。
あと、気に入らなかったのが、あの美術の教師。イーニドが出したあの絵を見抜けない時点で、教師としてマズいんでないの? あの美術の授業シーンは、何がかは自分でもイマイチ言語化できないけど、どうもイヤな感じを受けた。結局、彼女の指導がいい加減だったことで、イーニドは余計にドツボにハマってしまったわけだし。教師である以上、生徒の人生に影響を与えていることに自覚的になって欲しいよなぁ。
スカヨハはおもったより出番が少なかったけれど、今もあまり変わらないなー、という印象。ソーラ・バーチの拗らせ演技が実に良かった。スカヨハと逆の配役は、、、あり得んなー、と思いながら見ていた。
世間もバカだが、自分はもっとバカ。
あのバスのシーンは、私の気持ちの状態によって、見え方が変わります。調子が良いときには、あの町を出て新たな一歩を踏み出すんだろうなと思えるのに、落ち込んでいるとどうしてもネガティブな捉え方になっちゃいますね。
子どもにとって、親は権力者であり、逆らうと生存に関わることを子どもは本能的に知っています。
ヘタレなわけでも、意気地がないわけでもなく、子どもには選択肢がないだけだと思います。
悪い子がそのままオバサンになったような私でも、子どもの頃は、渋々親に従っておりましたわ、、、テヘ(^^;
教師と言えば、昔の先生って、今じゃ問題になりそうな人、結構居たような、、、。
私はオバサン先生(と言っても今の私よりゼンゼン若いケド)のウケが最悪で、イジメ倒されました(*_*)
まあ、今振り返ると、大人から見ればめっちゃ憎たらしいガキだったと自分でも思うので、むしろ先生たちに同情します(^^♪
いや、でも、ヘンな先生、結構居たよなぁ、、、。
バスのシーン、映画友もamoreさんと同じこと言っていました。
見るときの自分の状況によって、受け止めが変わると。
分かる気がします。