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「竹下村誌稿」を読む 66 榛原郡 2

(大代、森ノ谷の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠31/2月18日撮影)

大代の久昌寺の境内にある秋葉社である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また榛原の字、古書蓁原に作る。古事記、日本紀、朝野群載、榛原と書し、姓氏録、榛原、蓁原両様に記し、続紀、続後紀、蓁原に作る。萬葉集、榛原(はりはら)と読み、和名抄、蓁原(波以波良、はいはら)と訓ずるを見れば、史に載する所、ほとんどその制なきに似たり。また元亨釈書、針原と書き、三河物語、蝿原に作る。これ皆傍証なりとす。
※ 朝野群載(ちょうやぐんさい)- 平安時代後期の詩文集。算博士の三善為康が当時の漢詩文,宣旨,公私の文書などを集めて分類したもの。
※ 元亨釈書(げんこうしゃくしょ)- 日本の歴史書。鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史。著者は臨済宗の僧、虎関師錬。
※ 三河物語(れい)- 大久保忠教(彦左衛門)によって書かれた、徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交えて、武士の生き方を子孫に残した家訓書である。


地名書に、

榛原は古書、多く蓁原(はりはら)に作る。正係図帳已後、公用、榛原に定めらる。和名抄、波以波良と註し、九郷に分かつ。しかしても、古訓は、波里波良とす。萬葉集の読例に徴すべし。

さてこの郡名の起源は、郡中広原あり。蓁原郷ありて、郡名に負わせしことは、何人も否定せざるべし。西郷南舟氏の説に、

遠記伝に、蓁原と号する所以は、蓋し蓁原郷に基ずく、と書きし。掛川志にも、榛原、或るは蓁原に作る。佐野郡の東、駿河国の西にありて、大井川を堺とす。この郡中広原あり。また蓁原郷あり。因りて郡の名とす、とあるを以って見れば、榛原の郡名は蓁原郷より起りしものゝ如し。さればこの蓁原郷は、往古何れの辺なりしかの問題に就きては、諸説錯出して、一定せざる如くなるも、種々方面より考究して、大要、今の萩間村付近ならんと推定するを妥当なりと信ず。

按ずるに、諸国郡名に関しては、その郡内一地方に存する郷名などより起りて、郡の名となりし例、世に頗る多し。武蔵国榛澤郡の郡名が、榛澤郷より起り、駿河国庵原郡の郡名が、蘆原郷より起り、遠江国佐野郡の郡名が、佐夜中山辺より起りしが如き、皆な好個の傍証たらずんばあらず。
※ 好個(こうこ)- ちょうどよいこと。適当なこと。

古事記、応神段に、これ大山守命は、土形君、幣岐君、榛原君などの祖なり、とあり。土形、幣岐、榛原などの地名は諸国に多くして、何れとも定め難けれど、本州城飼郡(今小笠郡)に土形郷(今土方)あり、比木村あり。榛原郡に蓁原郷あり。さればこれらの貴族は、城飼、蓁原両郡より出でしならんと、史学者間に説明せらる。
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