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御詠歌あれこれ

(お参りしたお寺の御本尊)

日曜日、掛川の親戚で法事があって女房と出かけた。自宅での法事の後、お墓参り、お寺参り、自宅で食事、そしていきなりテーブルの片づけがはじまった。何事かと思って見ていると、仏壇を前に集り、御詠歌が始まった。西国三十三観音霊場にそれぞれ一首ずつの御詠歌を鉦を叩きながら謡う。

ご近所の導師(僧侶ではない)の先導で始まる。導師が供養する仏に「××さん、へたくそな先導だけど笑わんでくれ」と語りかけた後、「風邪で声が出るかどうか解らないが」と言い訳しながら、「第1番 紀伊 那智山 青岸渡寺」と唱えて始めた。

補陀洛や 岸うつ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝つせ

中間で休憩を取り、砂糖湯を飲み後半へ。そして最後は「第33番 美濃 谷汲山 華厳寺 笈摺堂」と唱え、

今までは 親とたのみし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲

さらに善光寺の御詠歌が続き、終わりになる。「終わりまで速さが変わらないのはさすがだ」と褒める人もいた。初めはゆっくりでスタートしても、早く終わりたくて段々早くなってしまう。今日は時間が45分位かかったと導師がいう。一時間以上かかる御詠歌もあると話す。ゆっくりの時は鉦を叩くのに一拍置くのだと誰かが言った。

西国三十三観音霊場の「御詠歌」は、御詠歌の中で最も古く、江戸時代初めには既に成立していたと言われる。元は巡礼歌であった。

「御詠歌」という以上は誰かが詠じた歌であるが、西国三十三観音の御詠歌は、伝承では花山院に由来するとされている。花山院は平安時代中期の第65代の花山天皇のことである。ただ、ここでは熊野信仰や観音巡礼の先達としての花山院のイメージが強いと考えられる。

そういえば昔、故郷のお袋が熱心に御詠歌をやっていたのを思い出した。脇で聞いていて節を覚えてしまった。お袋の御詠歌はもっとはっきりと節が付いていたような気がする。御詠歌は歌は一緒でも謡い方に幾つか流儀があるようだ。
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中秋の満月

(中秋の満月?)

昨日は中秋の名月。東日本は台風16号、17号崩れで発達した低気圧により、台風並みの大荒れになった。茨城の海岸では船の座礁が相次ぎ、行方不明者も出している。静岡でも夕方まで雨が残り、中秋の名月が顔を出したのは夜半になってからで、うす曇りににじんだ月であった。

残念な中秋の名月となったが、小耳にはさんだ情報によると、昨日は旧暦の8月15日で中秋の名月であったが、月齢では今日の正午が14.6、明日の正午が15.6、従って今夜が満月である。今日、名月を愛でても悪くはない理屈である。ならば今夜の月を「中秋の満月」と名付けて、愛でることにしよう。幸い雲も去って、雨上がりのさわやかな朝であった。女房にススキとハギと団子をリクエストして出社した。

一日さわやかな風が吹いていた。夕方、もう少し早く帰れば良かったのだが、帰ったときにはとっぷりと暮れて、月ももう高く上っていた。家からは農協の建物があって東の空が見えないので、女房に月の見えるところまで車を運転させ、満月の写真を狙う。暗くて月の回りが写り込まないので、闇の中に小さい白い丸があるだけの写真になってしまう。それでも何枚か写真に取った。


(ススキとハギと団子)

リクエストのススキとハギは中国で貰ってきた花瓶に活けられていた。ハギの花はもうほとんど終わりで、種になっていた。やっと日陰に残っていた萩の花を取ってきたと女房は言う。団子はピラミッドのように積みたいのだが、柔らかくで出来なかったようだ。

月見のお供えを前に、芭蕉の奥の細道の中に、

       一つ家に 遊女も寝たり 萩と月

という句があったのを思い出した。もっともこの萩と月は遊女の名前だという話もある。

夜半になって「中秋の満月」は夜風が吹き渡る中で、天空の中心にあって煌々と輝いていた。
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大井川大花火大会

(大井川大花火大会)

台風7号も静岡県沖を通り過ぎて、また暑さが戻ってきた。今夜は島田市と金谷町が合併して2度目の花火大会である。台風で開催が心配されたが、朝、花火が上がって開催を知らせていた。

夜、花火が始まって1時間ほどたってから、女房と出かけた。今日の課題は何とか花火をデジカメで撮ることである。河原の駐車場は満車であった。土手のそばのパチンコ屋が駐車場を解放しているという女房の情報で、そこへ駐車して土手を歩いた。

旧国道の鉄橋を入れて何枚も撮ってみたが、思うように撮れない。シャッターを押した瞬間ではなくて少し時間がずれて写る。シャッターチャンスに押そうとすると、消えかかった花火がなさけなく写る。

旧国道を渡ると観客がぐっと増えた。金谷にこんなに人口がいたか知らん、と思うほどの人、人、人である。会社からの帰りに渋滞を避けて駅前通りを通ると、電車から降りた人の列が大井川の方に向かって続いていた。歩けば河原までは2km以上あるはずだ。派手な浴衣の娘たちも多く、彼女らの中には“花火追っかけ”もいるらしい。


8時33分、打ちあげ花火でナイヤガラを表現した、“空中ナイヤガラ”という花火で最後となった。この花火でもバシャバシャと撮った。その最もよく撮れたのがこの一枚である。コツがあるのだろうが、花火を撮るのは難しい。

花火は6~10世紀に中国で発明された。しかし発展したのは伝播したヨーロッパと日本であった。

ヨーロッパでは13世紀にイタリアを中心に、王侯貴族の庇護の下発展した。16世紀にはイギリスで花火技術が大きく進歩した。

日本では16世紀に各地で花火が打ち上げられた、との記述が多く残っているが、発展したのは平和になった江戸時代になってからである。隅田川では花火店の鍵屋と玉屋が技を競った。江戸の花火は庶民のものであった。

かつて、テレビでイタリアの花火と日本の花火の競演を見たことがある。コンピュータ制御され、音楽にのった大迫力のイタリア花火に対して、1つ1つの花火に魂を込めたような華麗な日本花火は対照的であった。
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ある初盆の法要

                       (ある初盆の法要)

今日、掛川のY家の初盆の法要に女房と出かけた。梅雨が明けたような蒸し暑い日であった。

Y家の奥さんの話では、住職が行くか息子の副住職が行くか判らないが、息子の自分が行くことになったら外れだと思ってくださいと言われた。

掛川市内の浄土真宗のR寺の住職が自宅に来てくれた。今日は当りであった。磊落な飄々とした住職で、息子と二人で手分して30軒の初盆の家をこなしているが、幸いと7月お盆と、8月お盆の檀家が混在しているので助かる。今日は午前中に2軒、午後に2軒回る。高校の教員の息子(副住職)が手伝ってくれるので楽が出来るという。時間があるからと、ゆっくりと絽なのか紗なのか夏用の墨染めの袈裟がかなり上等なものだなどと話している。72歳の住職には何も怖いものは無くなっているようだ。

御焼香になって、焼香の意味も教えてくれた。焼香はその煙でお参りする自身の心を清めるという意味がある。だから合掌する前に香をくべて新しい煙を立てる。香を摘んだ後は次の人のために均して置くのがマナーである。

仏説阿弥陀経を読みながら御焼香となった。不思議なお経で、途中でお経を止めて何度か解説が入った。

「從是西方過十萬億佛土有世界名曰極樂其土」つまり「これより西方、十万億もの仏国土を過ぎて、世界があるが、それを名づけて極楽という」というところでは、英語の教師をしていた昔、東京のある講習会で、講師が、僧職にある自分がいるとは知らずに、阿弥陀経に「西方十萬億佛土に極楽がある」と書いてあるが、この「十萬億佛土」がコンピュータで調べてもどこにあるのか判らないなどと話していた。

阿弥陀経には東西南北にそれぞれ仏がいると説いているが、注目すべきことは上方世界にも下方世界にも、つまり上にも下にも仏がいると説いていることである。

「善男子善女人皆為一切諸佛共所護念」つまり「善男子・善女人は、みな、一切の諸仏に念じ護られている」と書かれている。よく仏教は女性のことは書かれていない。女性差別だという人がいるが、阿弥陀経にはちゃんと男性も女性も平等に書かれている。

こんな解説がお経を中断して入るのである。何とも不可思議な、しかし興味深い法要であった。
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お庚申さん

(お庚申さんのお札)

昨日、日曜日の話である。夕方、班長さんがお庚申さんのお札と供物を持って来てくれた。

今日はお庚申さんだったかと、暦を見ると確かに申の日である。しかし何か違和感がある。よくみると今日は申(さる)だが、壬(みずのえ)である。お庚申さんは庚(きのえ)申(さる)の日だから、今日は違う。さらに詳しく見ると、庚申の日は1月31日だった。

それがどうして今日なのか。班長さんが届けてくれるのが遅れたのか。庚申の当番が同じ申(さる)だからと、平日の1月31日を避けて日曜日の今日にしたのか。そのどちらかであろう。しかし、深く追求するのは止めよう。

人の腹中に棲む三尸(さんし)と呼ばれる三匹の虫が、その人が隠している罪を知って、庚申の夜に、睡眠中に天に昇り、その罪悪を天帝に告げる。その人はそのために命を縮めるという、中国の道教に由来する禁忌(タブー)がある。

人々は三尸に告げ口させないため、皆んなで集り、お庚申さんの本尊の青面金剛を祀り、語り明かし徹夜して過ごす。そういう民間習俗が形骸化しながら今でも残っている。

この町の庚申堂は常安寺の境内にあり、当番に当った班は朝からお寺に詰めて、お堂で御詠歌をあげるお年寄の世話をし、お札とお供物を班別に戸数に分けて、町内の各班長さんに配る。もちろん今は徹夜することはない。

ところで、当番班はお札も作成する。何年前であったか、当番になった我々の班に何の説明もなしに青面金剛の版木と印判が回ってきた。見本にお札のコピーが数枚入っているだけであった。作り方が判らず手探りで、隣のH氏とインクを購入し、バレンでこすって作った。最初は下手だったが、戸数分の300枚作るうちにコツがつかめた。

お庚申さんが終って、次の班のために作り方をメモして、版木、インク、バレンを揃えて送った。しかし次の年に配られたお札はコピーだった。以来お札が版木で摺られたことはない。結局、後にも先にもインクで摺ったのは我々の班だけだった。
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雪国の節分

(記憶を頼りに厄払いに出す紙包みを作ってみた)

今日は節分、家に帰ると女房が待っていて、形だけ「福は内、鬼は外」を行う。窓を開けて声をひそめて「鬼は外」、家に向けてほんの数粒、「福は内」。それを窓のある部屋ごとに家の中を一回りする。声をひそめるのは近所への遠慮、ほんの数粒は掃除が大変という家内への遠慮である。

子供の頃の故郷、雪国の節分を思い出す。

節分の日、使い込んだ五合マスに半紙を敷き、炒った大豆をたっぷり載せて、家中に「福は内、鬼は外」を行った。近所からも元気な声が聞こえてきた。その後、中の間の半畳の堀ゴタツを囲んで、自分の歳の数プラス1個の豆を数えみんなでそれぞれに食べた。豆の数がたくさんの大人達に比べ、子供たちの少なさを不満に思ったこともあった。

さらに同じように豆を数え、家族全員分を半紙に5円玉と一緒に載せて、丸めてゴムバンドで止める。それを家族全員の身体の弱いところに当てて、厄のすべてをその茶巾に吸い取って貰う。慢性結膜炎の病気を持っていた自分は主に目と、ついでに頭がよくなるようにと、頭に当てられた。

外は雪が降っているのだろうか。すべての音が掻き消えて静寂な夜である。そばの長火鉢で沸騰する鉄瓶の音がちんちん聞こえるだけである。

やがて遠くから「やっこ(厄を)、払いましょう!」という子供たちの声が聞こえてくる。始めはかすかに、やがてはっきりと。表に近づいた頃を見計らって門口に出る。雪は止んだようだ。暗い街灯の灯りに、大屋根から降ろした雪が、各戸の軒下に山になって、道路の両側に並んでいるのがぼんやりとみえる。

その向こうから新雪を蹴散らすように、子供たちが防寒具に身を固め、先ほどまで降っていたであろう、雪にまみれてやってくる。手には提灯の明かり。各戸から人が顔を出し、その子供たちに豆の包みを渡す。門口でどんな会話は交わされたのだろうか、そのときにお菓子のようなものを渡したのだろうか、はっきりしない。

その子供たちは市街の南の端、京都から来ると最初の町であることから「京口」と呼ばれる町の子供たちで、新川が出来て今は廃川となった川縁にあるお堂のお守りをしているのである。

かくして、厄落としも終わり、旧暦の大晦日は過ぎて行き、明ければ立春、暦の上での春を迎える。昭和30年前後の時代の話である。
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豊川稲荷へ初詣

久しぶりの雨の午後、子会社K社の皆んなと商売の神様の豊川稲荷に初詣に出かけた。一昨年に続いて2度目である。

参拝したあと奥の院に回ってみた。奥の院、大黒殿と並んで、奥まった所に「霊弧塚」があった。大小の狐の石像が無数に祀られている。すべての狐に赤い前掛けが掛けられていた。

狐はお稲荷さんの使いなのだから、その使いを礼拝の対象にするのは少しおかしくないかと、罰当たりな会話をしながら、両側にびっしりと雨にぬれる「千本のぼり」が立ち並ぶ道を戻った。白地に赤く(あるいは赤地に白く)染め抜かれた「千本のぼり」にはそれぞれの願いが墨書され、絵馬の奉納のようなものであろうか。

帰りの車の中で、名物「宝珠まんじゅう」を買わなかった理由として、正月以来、我家には饅頭類が貯まっている話をすると「それブログに書いてありました」と声がかかる。Y店のことが話しに出たので、デジカメをそこで買ったというと「それもブログに」と。これにはマイッタ。ブログに書き込んでしまうと、これから話題に困ることになるかもしれない。

それなら仕事の話でもするかというと「それだけはご勘弁」の声。
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娘と初詣に

                  (年が変わったばかりの大井神社)

紅白は白が勝ち、年が変わって、早速娘と島田の大井神社に初詣。
女房と息子は誘ったがパス。自分もブログを始めなければ出かけなかった。

着ぶくれて出てきたが、星はなく寒い年末だった割には暖かい年明けだ。
県内では初日の出が見えるところはない、とは娘の情報。

大井神社では参拝に長い行列が出来て、鳥居の外まで続いていた。

おみくじは娘ともども「吉」。
「吉」は大吉/中吉/小吉/末吉/凶のどこに位置するのか。

何はともあれ、年男の新年は明けた。
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