今日は、午後からリピーターさん教室なんで、午前中は陸前高田の額の下絵。牡蠣は昨日描いたんで、後はホタテと昆布となるのだけれど、まずは向きだったり、どんな位置だったりすると印象が良いか?とかになるのね。
まぁ簡単に言えば、水戸黄門の助さんと角さんで一組だったり、清水の次郎長の大政小政、風神雷神・・・こんな感じに二人一組で、人気が集中せずにバランスを考えると、牡蠣とホタテがピンクレディーみたいにならないかな?
って感じな事を思い描くのね。その時に今度はジャケット撮影をするとして、背中合わせにするのなら、牡蠣とホタテの貝を合わせるようにするし、やっぱ顔を合わせる方が良いかな?と思えば、身を向き合わせるって事になる。
ただ、そうなると普通は身を売る為の行為だから、貝を背中にして、身をお客さん側にする事になるのね。何しろ新鮮さを強調したいのだから・・・。ただね、お題として産地で取れるから・・・って言うのでモチーフにはしているものの、別に
宣伝用ポスター制作では無いので、単純に入れました、使いました・・・では、安易な発想になる。そんな中、今日はかぐやとの話の中にそれを打ち破る一言があったのね・・・それは、外観の写真を見て、こんなデザインだからなぁ・・・。
って言うと、それ表ですよ・・・場所は中庭側の方だからって。あっ・・・そっか。これで何か吹っ切れたのね。そっか表じゃ無いのね・・・今の俺にはそっちの方が都合が良いのね。そもそも額縁って何?とか、考えた時に、より中身を引き立てるもの・・・
と考えたりするから、金とか凝ったデザインとか、豪華とか、何しろそっち側になると、芸術側な感じがするのね。でも表彰状って感じなら、木の枠とか、今なら無機質なアルミやプラスチックなんてものもあるが、あくまでどちらも、
中身重視の考え方であって、前者は、より見栄えとなり、そこにプラスをする考え方で、後者は中身を引き立たせる為に余計な事はしない・・・的な考え方だと思うのね。ここが重要な事で、中身の引き立たせって事。
つまりそれでは芸術家の先生を引き立たせ・・・になるのね。でもその中身の意味は?となった時、被災地の方々への思いだったりするって事はその人達なのか?と思いきや、その建物はシンガポールの支援だと言うのね。
そしてそれを設計した事務所は有名な人の会社だと・・・まぁ色々と縛りが多いのね。例えば前回のモンゴルの日馬富士学園での額の場合、思い切って責めて、相撲取りの額縁にしたのね。これなら割と決めやすいのね。ただ今回の場合、
奇跡の一本松でさえも、残す残さないは賛否両論であるのだから、ここは触りづらい。しかも青い海、青い空も、同じ理由で使えないとなると、観光地として成立しているような場所では無いみたいなので、決定打になるモチーフが無い。
そんな時に、シンガポールからの支援で建てられた・・・って事になると、親方が見つかった感じがしたのね。関係性は重要であって、それを使って、えーって事は少ないだろう。勿論個人の趣味趣向って事では好き嫌いはあるだろうが。
使ってはダメって理由にはならない。それと観光協会や市のホームページに載っている、牡蠣、ホタテ、昆布、わかめ、イワナや椿にカモメって言うのは、載っている位だから問題も少なくて済むはず。じゃこれを使って始める事にしたのね。
その時に、きっと中身の先生は被災地の人達へ・・・的に作られているのだから、もうその後押しを更に加える必要も無いだろうし、モチーフは使っても、海の青は使いづらい。所が、所がシンガポールの色合いには紺が出て来るのね。
これは非常に有難いのね。何故なら中身のタイルはどうしても白い部分が多くなるのね。つまり額縁は濃い色合いの方が中身が映えるのね。そんな中、青では無いが紺が使えるとなると、それはそれで1つバリエーションが増える。
勿論、決定では無いのだけれど、使いずらい、使えないの中、使えるは貴重なのね。ただね、そうなるとオレンジなんてのも一緒に付いて来ちゃうのね。鬼滅の遊郭編じゃ無いが、ド派手に行こうぜ・・・って言うなら、それも良いが、流石にね。
そんなこんなでリピーターさん教室なんだけれど、今残っている部分の後ろ足辺りの部分、これと同じ前足部分が初回だった事を踏まえて・・・・先生、今日頑張って終わらせて、次回は張るだけのコースターをやって見たい・・・って。
この話と、先日やって数日後、手が痛かったから左手で切る・・・って話が出たのね。まぁこの話で、この後の時間に何が起こるか?どうなるか?の想像が出来る常連さんはいるだろうけど、見なくても想像出来る事が満載なんで、その話から
説明したのね。まずこれは体験である事。では普通体験ってどんな感じ?って言うと、ここでは切る人が多いから、片手で持てる位の作品を完成して持ち帰れるのね。つまり何枚切った?となると、5.60枚以上は切ってるんじゃ無いのかな?
では頭の部分を見ると、20枚弱かな?つまり半分以下なのね。じゃ特別遅かったり、手際が悪かったのか?となると、遅いかどうか?は判らないけど、ピッタリ切っていると思うのね。つまり質を取って、時間を捨てたやり方なのね。
だから体験なのに、その日に終わらない・・・になっているのね。それが1日目の結果。それを踏まえて、その人が今日は終わらせる・・・に変更したのね。場合に寄っては、拾っても良いですか?みたいにね。だから、あくまで体験なんで、
こちらとしては、どうぞ・・・の姿勢だから、これを受け入れた時点で、イレギュラーな訳で。そもそもが出来たぁって感じに終われば良いのだけれど、質を取ったのは、あくまでお客さんの方なのね。つまりこだわりが十分な姿勢って事。
実は既にここで矛盾が生じているのね。つまり、こだわりがあるから体験だけど持ち込んだ。こだわるからピッタリ切った・・・だから進まない。別に下手だから、それしか進まなかった訳じゃ無くて、あくまでこだわったからなのね。
つまりそのこだわりを終わるまで続ければ、初日よりも経験値がある分、上手くなり、時間は掛かったとしても、初日のままで完成が出来るのね。これが初日の気持ちだったはずなのね。所が手の痛みや、切るのが大変だった事、そして進み
具合を考えた時、切らない方が楽で、困らずに進める・・・と考えたから、初日の気持ちを全部変えてしまったのね。一転、綺麗に・・・では無く、終わらせる・・・に。勿論、それはそれで体験なんだから、こうして切るのかぁって経験で
十分なんだから構わないのね。ただね、そもそもが俺の問題のように思っているようだけれど、自分なのね。まぁ果たして最初に言った通りに出来るかどうか?なのね。勿論、最初に無理せずに拾って頂いても結構です・・・とも言ったのね。
左手で器用に切っていたし、お腹の部分を終わったのだから、倍近く終わっている。残りは初日と同じ量。完全に次回終わるのね。ただ、ただなのね、一枚も拾って入れなかったのね。ほらね、入れなかったでしょ?つまり左手でもこだわった。
最初から判っていた事なのね。そもそも初日のパーツのピッタリ加減を見れば、どれだけこだわるか?は想像出来るのね。つまり指導としては、無理せずにもっと楽して良いよ・・・なのね。体験なんだから。これがこれを初日で終わらせ
ようとするのなら、逆にこらこら、いくら何でも乱暴過ぎる・・・もっと丁寧にって言うだろうね。つまりこだわり側の人だって事は判った。しかし手が痛くなった。でも例えば、テニスにテニス肘があったり、ギターの弦を抑えて痛かったり、
ペンにペンダコだったり、反復するってそう言うものだったりするのね。とは言っても、体験なのね。だから、左手でも良いですよ・・・なのね。ただ当然リスクはある。つまり利き腕よりも落ちるし、教えたのは右腕。つまり今日は初日。
しかも利き腕じゃ無いのだから、初日以下でも仕方無いのね。それを判っていれば何も問題無いのだけれど、普通は痛いから・・・だけでやっちゃうのね。ここが問題なのね。ここでその覚悟をして進まないと、結果が満足出来なくなるのね。
つまり気の話になるのね。病は気から・・・こんなの誰でも知っている言葉で、どーでも良いって思われがちなんだけど、全てそれで出来ていると言っても過言じゃ無いのね。やる気、根気、負けん気、気力、気質、気兼ね、気性・・・
キリが無く出て来るのね。つまり大事なワードなのね。例えば、仮に初日のまま終われたとする。そしたらピッタリって作品で終われたのね。しかし左手で切った以上、ピッタリにはならないのね。つまり別人で2日目が終わったのね。
そして数日後にいらしゃるのだけれど、どっちの人が来るのだろうか?もしピッタリの人だったなら、ピッタリ、そうじゃ無い、ピッタリって作品の仕上がりになるのね。でも、もし左手の人が来たのなら、ピッタリ、そうじゃ無いx2になる。
作品は見なくても判るでしょ?でも、体験なのね。そもそも持ち込みで初回から好きに出来る・・・こんな教室は中々無いと思うのね。だから結果として出来た・・・で十分だし、どちらを選ぶのも本人だから、どちらでも・・・なのね。
問題はこの後なのね。楽しむだけならどっちでやっても十分楽しめるのね。でももしピッタリ切った初日の私が出て来たら、許せないパーツが出て来るだろうし、逆にそうじゃ無い私が出て来れば、楽しく終われるだろうし、その後、時間も
作れるから、張るだけ・・・のコースター位は作れるだろうね。ただねただなのね、本当に?なのね。張るだけ・・・言葉のあやって言う人はいるだろうが、違うのねー、そうじゃ無いのね。そのまんまなのね。これを違う分野に置き換えると、
料理なら、切る方が難しい前提で、後は味付けだけだから・・・別に包丁は使わないし・・・ってだけ。ほら、だけ。打つの難しいけど、取るだけなら・・・だけ。楽器は難しいけど、歌だけなら・・・だけ。これらのだけの意味・・・。
つまり両者を比べて、自分の判断で、そっちが簡単って決めている表現なのね。後はバックだけ・・・ってね。つまり本当にそうであるなら、何も起こらずにその人の考え通りの結果になるのね。しかし、しかしなのね。もしそうじゃ無かったら?
そもそもこだわった初日と、今日のどちらが来るの?そして拾っても・・・って言ったのに、拾わなかった。つまり左手でもこだわった事になる。数日後に痛みは無いのだろうか?そして手慣れない初日の、張るだけ・・・は、果たして簡単なのか?
もしボンドだらけになってしまったり、真っすぐにならなかったりしたら、気持ちって気はどんな事になるんだろうか?その話も軽く触れたんだけど・・・流石に体験教室では話したくなかったなぁ・・・。詰まんないから。
体験って、もっと気楽・・・ここでも気ね。ラクに楽しく終われれば、越した事が無いんだけれど、それを経て上手くなりたい・・・って言うなら、気ってね・・・って教える事は大事なんだけれどね。心技体なんて、所詮、技なんて心の後なんだけどね・・・。
気が整わないと、気忙しいとか言うでしょ?そんな時は、落ち着いたら・・・なんて事で後回しにしたりもするのだから。気持ちを自分で作らないと、いつか・・・っていつになるんだろうって事になる。ただね、そんなの体験にはいらない。
そんな中、ちょっとした会話の中で、被災地に行った事があるらしく、いくらか片付いてはいたものの、痛々しい所が至る所にあった・・・と。そうなんだよね・・・当然、俺が取り付ける時は、綺麗な場所になっている訳で・・・。
目に見える場所では無くて、目に見えない場所って言うのは、気持ちって気の部分。何が良くて、何が悪いか?なんて誰にも判らないし、みんな大義名分良かれと思ってやっているのだろうから・・・。ただね、判らないから、知らなかったから、
って言うのは簡単だけど、知ろうとしない悪もある。良く、そんな事言ってくれなかった・・・とか、言ってくれれば良いのに・・・とか、言うのを聞くが、逆を返せば、そんな事を言わせるような人では無かったとも言えるのね。
ただ知らなかった・・・で済むのなら、簡単に進めるが、簡単に進んでは果たして芸術か?そんなものが。寄り添うなんて綺麗な言葉がどうも苦手でね・・・痛みが共有出来ているのなら寄り添う言葉が成立すると思うが、痛い人と痛くない人。
同じである訳が無い。何処まで行っても。でもだからと言って、考えてもしょうが無い・・・って言えるのなら、そっち側で生きられるが、どうやら俺はそっち側では無さそうで・・・とは言ってもそれを判るとも言えないし、言わない。
ただ、ただこう言う事?って問い掛けるだけ・・・そんな事の繰り返し。そこに残る人がいて、そこを去った人もいる。そこに支援してくれる国があって、それで今が成り立っている。残った松でも観光として役立つのなら・・・。
そのトッピングにでもなるようなものになると良い・・・そんな気持ちなんだけれどね。