katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

かるびのお姉ちゃんとみどりの親子教室と東錦の表札

2017-10-10 08:06:55 | モザイク教室
今日は午後からかるびのお姉ちゃんとみどりの親子教室。要するにみどりの娘なんだけれど、みどりの娘ってかるびじゃないの?って事にならないように・・・と思ったのね。それまでの午前中はワークショップ用の下地のペーパー掛けと2度塗り。

半分位は終わったのね。そんなこんなでお姉ちゃん。自宅でやって来たんだけれど、大きな文字と小さな文字の悩みが違った話をしていたのね。まっ単純な話で、小さな文字は縦長でも横長にもならずに同じ形っぽいもので構成されているから、悩み事は小さい形に

切れるか?・・・小さいパーツを持っていられるか?って悩みになるのね。所が大きい文字の場合、大きい分、色んな形にこだわれると思うのね。通常はようかんのような長方形みたいな形で一筆書きをして行くようになるのね。多分、俺以外もそうするだろうね。

それが横向きは横、縦向きには縦みたいな切り方をしたんで、一応説明はしたんだけれど、彼女なりの違和感があったんだろうね。それと、それもそれで見て見たい気もしたし、それならそれをキープして・・・としたんだけれど、当然それは難しいのね。

要するにそれはフォーマルとカジュアルなんて話で、フォーマルってそこにたどり着くまでに、それが良いって万人に認識するまでに時間が掛かっていて、それだけに安定感がある。しかしながら、そこはみんな一緒になるから個性的と言うよりはきっちりになる。

つまりフィギュアの規定演技と自由演技の採点みたいなもので、規定演技はマイナスして行く感じで、自由演技はプラスをして行く感じの違いがあると思うのね。その時に最初に自分が何を選んだか?になると思うのね。その時に彼女は自由を選んだのね。

つまり文字を作る時に大抵はこういうのが普通って規制の掛かる事よりも、自由を選んだのね。つまり自由を選んだ場合、自由なのだから、人が出来ない、見た事の無い、自分が美しいと思われる何か?を考えないとならないのね。何せ自由なのだから・・・。

そこは教える事は出来ないのね。ただ、これがクラッシュでも、輪郭の線だけは守ってね・・・なんて事位は最初には言うけれど、選択の中にそこは無かったんで、一般的な事では無いものを選択した時点で、自由は個性的の方向になったと思うのね。

まっここが難しいんだけれど、じゃ何故、自由を選んだ大きな文字に悩み、不自由・・・つまり同じ形で小さくしないとならない規制だらけの小さな文字はどうして悩まず進めたのか?・・・実はそれが全ての答えなんだけれどね・・・。

例えばフォーマルってもんは誰が見ても決まりってもんがあって、そこを大体守れば、大体って感じでもそれに見えたりする。ただその決まりってものが自由を求める気持ちが強いととても窮屈な気持ちにもなる。そんなものがフォーマルとすると、逆にカジュアルは

自由なだけに好きにすれば・・・なんで、自分の提案が素敵かどうか?になる。ただここで自分がしっかり保てるとこれで良いって思う事も出来るんだろうけれど、評価は常に人なんで、もし気持ちの中に自分が良ければ良いって言い切れない自分になれない性格の場合、心がうらはらになるから、あぁは言ったものの・・・って事になったりする。

つまり最初にどちらを選んだか?に寄って、マイナススタートなのか?プラススタートなのか?みたいな話になり、更に言えばその選択によって、自由を選んで不自由になり、不自由を選んで自由となるなんて事に繋がって行く・・・なんて事が起こったりする。

まっ、とても簡単な話で、ではそれを立証してくれるのが、母のみどりなのね。では見て見て・・・。


これは12月のイベントで販売しようとしているパーツの一部なんだけれど、何時間やってたんだろうか?恐らく自宅でも相当考えていたと思うのね・・・今までのみどりの作品を見て来た人なら、えっ?これ・・・・なの?って思うだろうね。

じゃ何でこうなの?って言うのが、今まで言って来た事で、しっかり考えて大作として何年掛かっても・・・ってものからすると、誰にでも作れそうだし、大して切ってもいないし、これの何処にそんなに困るの?って単純に思ったりするだろうね・・・。

ただね、何でも一緒でね人のやる事は大抵ね・・・例えば走るの早いから100M走もマラソンも一緒か?とか、野球が上手いって、守備も攻撃も走るも、全部野球なんだけれど、全てが備わっているか?となると、大抵はどっち向きか?ってな話になる。

つまりみどりは大作としての作品に評価があって、その作品は徹底的に切るってスタイル。つまり長距離走のマラソンに得意で、打つか守るか走るのどれかを特化させて来た人って事になると思うのね。つまり小物とは何?となった時、短距離走な感じ。

しかもこのスペースの中を得意の切るを繰り返して素敵になるか?とかいくらで販売するか?となった時、凄い作品に結果が出たのは売る目的では無く、凄いと言われただけで、販売作品には一切関係の無い話で実績は一切無しって事、つまりいかに謙虚に出来るか?になる。ほぼ今までの実績は何の役にも立たない・・・それ位の覚悟が必要だろうね。

じゃそんな覚悟をしていたか?となると、確実にそんな事は無く、もっと簡単に思っていたと思うのね・・・つまりその度合いのギャップが戸惑いになる。いくらか謙虚のつもりだったとしても、実際こうして販売作品を作った時の結果が全てなのね・・・。

まぁきっと、きついな・・・が本音だと思うのね。言い方は悪いが大作の方が気が楽なんてね。あははは。そっちも大変って言うんだろうけれどね。つまりどっちも大変だったとしても、普段やり付けない事は常に初めての姿勢が肝心なのね。

で、そろそろまとめると、簡単な話、不自由って規制はピアノのバイエルみたいなもんで、つまんないなぁ・・・って思う人は自由を求めるし、続ける人はしきたりとか所作とか、難なくこなすのなら規制は基礎と考えたりも出来たりするだろうね。

逆に自由から始めると、好きな事をいきなり始められるけれど、当然行き止まりがあるのね。何しろ基礎が無いのだから、やりたい事が簡単なウチは良いけれど、難しい事はそんなに簡単には乗り切れない。って話なら簡単なんだけれどね・・・・。

人はそんなに単純じゃないのね。そもそも簡単かどうか?が判った時点で上手いって事なのね。相当な実力者だって事。それをやってもいない事を判断出来ると思い込むのが非実力者だと思うのね。ただついついキャリアなんて積むと、それを評価されたりして

それでもそれが全てに当てはまる気持ちになってはいない・・・と謙虚に取り組んだとしても、その気持ちがわずかでもあると、ちょっとした気持ちで手が止まる・・・それは何故?それがプレッシャー。日頃の評価が高ければ、その評価を今回も・・・と、

考える。意識せずにね。つまり自覚とは、意識しないと芽生えない。所が、ついつい結果が欲しくなるから、意識は仕上がりの結果に行く・・・しかも得意な切るを封印みたいになる・・・つまり今回の小物ってのは、アイデアだったり、思いつきだったり、

要するにいつもの腕を見せづらい状況下で、普段とは違う悩みの中での制作なのね。しかも張るって事も均等な目地幅とか、きっちりとか、規定演技的評価なんで、いつもの上手いね・・・評価には繋がりづらい。

更にこれがみどりの作品・・・って自分が思えば思う程、楽しくは作れていないと思うのね。まぁ売ってなんぼのプロって言うのは、腐っても鯛みたいな話なら、2軍暮らしでもプロはプロ。そんな環境の中から這い上がるもんなのね・・・・。

ただね、セミプロ的な感じの売れたら良いなぁ・・・は楽しいなぁ・・・に繋がるもんで、むしろそんな感じで取り組んで欲しいもんなのね・・・って話を今、みどりが理解して出来ていたとするのなら・・・・娘さんにも伝わるだろうけれど、判ってるぅぅ

的な話なら、きっと同じ事を娘さんも言うだろうな・・・とお小言って訳では無いが、判っている人は判っているとは言わないもんで・・・いずれにせよ、2人共に課題としての作品内容は違えど、同じ初心って事が大事であって、取り組む姿勢さえ間違わずに

最後までやれば、自ずと結果は後から付いて来るものと考えるのね。俺からのアドバイスはこれで十分とは思うけれど・・・。
そんな後は、東錦の表札。


やはり金魚と言う事で、ウロコ柄は入れて置いた方が良いかな?・・・と入れる事にしたのね。




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