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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

王森著  田中公明監訳/三好祥子翻訳 『チベット仏教発展史略』

2016年10月10日 | 抜き書き
 出版社による紹介文

 吐蕃末期からサキャ政権成立まで、400年に及ぶ分裂期を中心に、チベット族に関する鋭い分析を交えながらチベット仏教の発展史を系統立てて解説。また、きわめて独創的な「チベット十三万戸」に関する論考や、チベット仏教最大宗派ゲルク派の始祖ツォンカパ研究の代表的論文『ツォンカパ伝論』『ツォンカパ年譜』も収載。チベット学を志すものにとっての必携書である。


 以下は本書からの抜き書き。

 一部の外国人は明代のチベットについて、勅印を交換しただけでは明朝がチベットに主権を行使した根拠にならないとするが、論評するまでもない妄人のたわごととでも言うべきものであろう。 (「第10章 明代におけるウー・ツァンの政治状況」 同書257頁)

(国書刊行会 2016年5月)

蘭千壽/外山みどり編 『帰属過程の心理学』

2016年09月23日 | 人文科学
 帰属過程attribution、あるいはさらに溯って因果関係の認識が、人類普遍の思考様式であるのかどうか。またそうであるとして、ここでの”原因”がもっぱら作用因であることについて、なぜそうであるのかの説明はない。
 前者についてはNisbettによる反証井筒俊彦による反論(こちらは近代以前の非西洋文化圏における)があるし、後者においては中村元の通時的な全否定がある(インド仏教論理学においては作用因ではなく質料因もしくは形相因が原因として認められていること等)。

(ナカニシヤ出版 1991年3月)

菅野博史 「富永仲基と平田篤胤の仏教批判」

2016年02月03日 | 哲学
『国際哲学研究』別冊6「共生の哲学に向けて ―宗教間の共生の実態と課題―」、2015年3月掲載、同誌29-43頁。

 『出定後語』は内藤湖南の「大阪の町人學者富永仲基」に教えられて早くに読んでいたが、『出定笑語』は今日が初めてだった。口語体であることに驚く。『新修平田篤胤全集』(名著出版、第十巻、1977年1月)では「平田先生講説」とある。「門人等筆記」ともある。つまり講義もしくは講演を記録したものである。

相良亨 「日本人の理法のとらえ方」 より

2015年07月15日 | 抜き書き
 『相良亨著作集』5「日本人論」(ぺりかん社 19926月)所収、同書449-476頁。

 「正直の心は無欲なり」と『極楽寺殿御消息』〔注1〕はのべている。また〔北畠〕親房は「鏡は一物をたくはえず、私の心なくして、万象をてらすに、是非善悪のすがたあらわれずということなし。其すがたにしたがいて感応するを徳とす。これ正直の本源なり」という。このように正直とはまず無私無欲である。それは心情の純粋性を標榜した清明心〔注2〕の伝統をうけつぐものであった。しかし、正直は清明心のように心情の純粋性自体を、それのみを尊重するのではない。すでに親房の『〔神皇〕正統記』からの引用でも明らかなように、確かに、無私無欲を内容とするものでありつつ、しかも同時に、無私無欲たる時には、おのずから万象の是非善悪が明らかになるという内容をふくむものであった。この点をさらにいえば、「人ハ道理ヲ弁ヘ正直ナルベキ者也」(『沙石集』)〔注3〕の如く、あるいは又「正直と申すに深浅あり、虚妄の見をはなれて真正の道をさとれる、真実正直の人なり。それまではなけれども無常の理をしりて名を求めず、利をむさぼらず、仁義の道をまなびて物をころさず、理を枉げずば是又正直の人なり」(『夢中問答』)〔注4〕の如く、正直は、道・理・道理などに対応するものであったのである。この点はすでに即位宣命の考察〔注5〕によって予想されたところである。(453頁。太字は引用者)

注1 「北条重時の家訓」(452頁)
注2 「古代の日本人は清き明き心を重視した」(450頁) 「感情融合的な共同体において、他者より見通されない、したがって後ぐらいところのない心の状態、換言すれば私のない心の状態、それが清明心なのである」(450頁)。
注3 「鎌倉時代中期、仮名まじり文で書かれた仏教説話集」(『ウィキペディア』「沙石集」
注4 「南北朝時代の法語集。3巻。夢窓疎石著。〔略〕仏法の要義や禅の要諦と修行の用心を、足利直義に対する問答体として、通俗平易な和語で述べたもの。夢中問答集」(『デジタル大辞泉』「夢中問答」)
注5 「文武天皇の宣命には、百官は『明き浄き誠の心』を以て仕えよとある。文武以下、元明・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武の諸帝の宣命には、それぞれ「浄明心」・「清明正直心」・「明浄心」・「忠赤誠」・「貞浄心」・「浄明心正直言」・「忠明誠」を以て仕えよとある。ところが仁明以下、文徳・清和・陽成・光孝の諸帝の宣命はすべてが「正直心」に統一されている。〔略〕したがって大勢は清明より正直に移行したことを知るのである。〔略〕前半の天皇観には、神話的権威をになうものとしての性格が強かったが、桓武以後は定型的に大化改新の並行してあらわれたということは、われわれに清明に代って登場した正直の新しい性格を予想せしめるものがある。つまり正直は規範的なるものと対応するものとして登場して来たのではないかと予想せしめるものがあるのである」(452頁)


相良亨 「日本倫理思想」 より

2015年07月15日 | 抜き書き
 『相良亨著作集』5「日本人論」(ぺりかん社 19926月)所収、同書392-400頁。

 上代の清き明き心を直接他者に対する私のない心とすれば、正直は倫理に対する私のない心ということになろう。そしてここから、道理や道の観念と正直との対応関係もなりたち得たわけであるが、人間がすなおに感応すべきものとされたこの道理や道がいかなるものであったかというと、まず道理は、かねて道理として固定的なものとして捉えうるような道理ではなかった。中世の日本人は、行為が則るべき道理があることを自覚してはいたが、その道理は、実は主観的心情を無私なからしめる時に、しかもその時にはじめて、その時、その場において則るべきものとして捉えうる道理と理解した。だから道理の問題は道理への感覚問題となり、主観的心情のあり方に問題が還元されていった。ここからして、主観的心情を無私ならしめることは大いに説かれたが、〔略〕これとは別の通路から道理を追究する姿勢は成熟してこなかった。 (395-396頁、太字は引用者、以下同じ)

 仏教的な道理とことなり、儒教の道を問題とする場合は、客観的固定的なものとして捉えることが多かったが、これ又、儒教の思想を自明な真理としてうけいれ、敢えて道を自ら反省的に追求する姿勢をとらず、個々の実践、その則るべき道をあやまらぬ主観的心情の確立を、道の源として強調することになった。道理や道に対する正直が重んじられたのもこのためである。 (396頁)

 このようにみてくると、中世の日本人は、外来思想をうけいれ、一応は客観的法則的な倫理の存在を理解してはいたが、なお、彼らの実践をつきうごかしたものは、上代の人々と同じように主観的な心情であったということになる。何よりも倫理を客観的法則的な面で反省し、自ら追求する姿勢を欠いていたことが大きい。 (396頁)

『コトバンク』「分別(ふんべつ)とは」 項から

2015年07月06日 | 抜き書き
 https://kotobank.jp/word/%E5%88%86%E5%88%A5-128656

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
分別
ふんべつ
vikalpa

仏教用語。思惟 (しゆい) ,計度 (けたく) とも訳される。『阿毘達磨倶舎論』では,(1) 自性分別,すなわち直覚作用のこと,(2) 計度分別,すなわち判断推理作用のこと,(3) 随念分別,すなわち過去のことを心に銘記する追想記憶作用のことの3種に分けて説明し,また意識は,三分別すべてを有しているので有分別であると説明している。

デジタル大辞泉の解説
ふん‐べつ【分別】

[名](スル)
1 道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。「―のないことを言う」「よく―して態度を決める」
2 仏語。もろもろの事理を思量し、識別する心の働き。

『漢典』「分別」項を見て

2015年07月06日 | 人文科学
 http://www.zdic.net/c/6/2b/67096.htm

  6.佛教语。谓凡夫之虚妄计度。 唐 白居易 《答次休上人》诗:“禪心不合生分别,莫爱餘霞嫌碧云。”

 『佩文韻府』には6の仏教語としての「分別」の用例は見えない。当然ながら『漢典』にある白居易の詩句もない。諸橋轍次『大漢和辞典』には「分別」の四番目の意味に仏教の語彙として「はからひの心」「対象を知覚するはたらき」とある。ただし例文は示されていない。

相良亨 「日本の『理』」

2015年06月26日 | 日本史
 『文学』55-5、1987/5、71-81頁。

 諸慣習をふまえて、状況に適切な処置をとることが、彼ら〔『貞永式目』を定めた北条泰時ら〕の道理を推す営為であった。それが彼らのいう「了見」することでもあった。道理を推すとは、〔略〕習(ならい)あるいは例(ためし)・定(さだめ)を、新しい状況に即応して生かす営みであり、それはまた『吾妻鏡』の表現をかりれば「例(ためし)を始める」営みであったといえよう。 (72頁)

 相良先生は、「道理」は「慣習の次元を超えるものでない」(72頁)、また「時代や場所をこえる普遍的な規範ではなく、また普遍的なものを追究する姿勢はここには認められない」(72頁)と断じた上で、さらに「政治的次元でも倫理的次元でも、まず慣習的な内容をもつものであった」(73頁)と、念を押される。では先生も引かれる『沙石集』の「義トハ、正直ニシテ道理ヲ弁ヘ、是非ヲ判ジ、偏頗ナク奸邪ナキ事也」の「正直」は何だろう。人が「義」たるべく「是非ヲ判ジ」るための手段が「正直」のようである。
 
 さらに、相良先生は宇井伯寿『仏教思想研究』を引いて、その説を紹介しておられる。それが実に興味深い。

 中国においては理が事に現われるということを主としたが、日本では、事即理であり、事を離れた理を見てこれを一層高遠なものとすることなく、事が理に外ならぬとするところに日本仏教の特色がある。 (74頁)

 類概念を持たない唯名論の古代漢語に対し、日本語は平安初期に実念論を獲得して事物の抽象化を行ったところが、中世に入ると、理の概念においては個別具体的にいわば退行し、中国の方が却って抽象的な理観念を示しているようにも見える。

山下正男 『新しい哲学 前科学時代の哲学から科学時代の哲学へ』 (その2)

2015年06月08日 | 自然科学
 2015年05月16日より続き。

 ギリシア的自然観はこのようにして東洋的自然観と多くのものを共有しているのであり,とくにその反技術性という点で大きな共通点をもつ。しかしギリシア人の自然観は観想の立場をとり生産や労働をおろそかにはしたが,この観想という立場できわめて合理的な理論体系をつくりあげることに成功した。とくにデモクリトス(c. 460-c. 370 B.C.)のアトミズム(原子論)はギリシアの自然哲学の最高の形態であり,近世ヨーロッパの自然科学は、ある意味でこのギリシアのアトミズムの復活であり,延長であるといってもよいのである。そしてこのギリシアの自然科学のこの理論性,合理性という点が西洋と東洋の自然観の決定的な相違点だということを忘れてはならない。 (「2 哲学の歴史的背景」“ヨーロッパ的自然観”186頁)

 板倉聖宣『原子論の歴史』(仮説社2004/4)と相互に参照すること。

 ギリシア人は自然が人間にとってよそよそしい得体の知れぬものでなく,人間と同質のものであり,人間は自然の内部にはいりこみ,自然を十分理解できるのだという確信を抱いていた。人間はロゴス(理性)をもつ動物であるが,そのロゴスはまた宇宙を貫く客観的原理でもあったのであり,内なるロゴスと外なるロゴスは本来同質のものだったのである。〔略〕人間はこの理性をもつが,しかし宇宙それ自体もまた理性的なものである。そして人間理性と世界理性の同一性の確信がすなわち,ラショナリズム(rationalism, 合理主義)にほかならなかった。 (同上186-187頁)

 ここで述べられる人間理性と世界理性のありようは、朱子学における性と理のそれ(理一分殊)に酷似している。

 それはこういうふうにも言うことができよう。つまりいったん分化,分別へと向かった方向がヨーロッパにおけるように徹底的に遂行されたのではなく,その途上でコースが曲げられた,いやさかさまにひっくり返されたのだと。東洋でも古代ヨーロッパにおけると同様,はじえは神も人間も自然に内在していた。しかしもちろん超越への萌芽はあったし,超越はある程度遂行された。しかしこの超越はとことんまで遂行されはしなかった。この超越の方向は逆転され内在がめざされた。しかしその結果得られた内在はかつての内在とは質の違ったものだったのである。 (「2 哲学の歴史的背景」“東洋の思想と西洋の思想”276頁)
 
 これは下から明かなように、主として仏教を指して言われた指摘であるが、仏教の影響を大いに受けて成立した新儒学(宋学)にも当てはまる内容であろう。
 
 仏教でよくAと非Aが別であり,しかも同一であるといった独特の表現が使われる。主観と客観が別であってはいけない,つまり二元であってはいけないのであり,不二でなければならないが,しかし不二であるためには二元的な対立があらかじめなければならない。二元であってしかも一つである。たんなる未分化,無差別でもいけないし,たんなる分化,差別でもいけない。こうして結局未分化の状態にもたらされた分化,無差別の状態にもたらされた差別が仏教の真にめざすところだといわざるをえないのである。/このようにして仏教では未分化から分化へとまっすぐに進むのではなく,未分化から分化へ,そしてふたたび未分化へと進む。
 (同上277頁)

(培風館 1966年3月)

狩野直喜 『中国哲学史』 から

2015年05月25日 | 抜き書き
 前項より続き。
 「第五編宋元明の哲学 第一章 宋代(960-1276A.D.)の哲学 第一節 概説」に、

 之を要するに、此の時代の学問が規模宏大であると謂ふは、漢唐儒学に比して宏大であるといふだけのことであり、彼等が所謂新局面を開いたと云ふは、仏教を加へて性理の説を詳かにしただけのことであつて〔後略〕 (同書353頁・原文旧漢字。下線は引用者)

 と、只今の私にとってはまことに身も蓋もないと思えることが書かれている。

(岩波書店 1953年12月)