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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

巷でときに耳にする「使えないヤツ」という表現は、擬物法だろうか。

2018年10月02日 | 人文科学
 巷でときに耳にする「使えないヤツ」という表現は、擬物法だろうか。たしか『万葉集』以来の伝統の復活? 中土にも韓愈の「送孟東野序」で例がある。ただ韓愈は純粋な修辞として用いているのに対し、ここでの日本語での問題は、人を物に喩える理由だ。「対象となる人間を貶める目的で用いる」と、擬物法――要は人間をモノ扱いすること――の用法が確定されてしまえば、過去の用例もそうではないかと実例を吟味しなおす必要が生じるかもしれない。

 韓愈の擬物法。「人聲之精者為言;文辭之於言,又其精也,尤擇其善鳴者而假之鳴。 其在唐虞,咎陶、禹其善鳴者也,而假以鳴。夔弗能以文辭鳴,又自假於韶以鳴。夏之時,五子以其歌鳴。伊尹鳴殷,周公鳴周。凡載於詩書六藝,皆鳴之善者也。」

 現代日本語にも「私は~というモノでございます」という用法があるが、これはこんにちは漢字で「者」と当てるが、この「者」という漢字は、平安初期までの漢文訓読体では、「ヒト」と読んで、「モノ」とは訓じなかった。大野晋先生のご指摘である。「モノといえば物体である。だから、モノは一人前の人間つまりヒト以下の存在を指すという意識が、平安時代初期までは明確にあった」(『日本語をさかのぼる』第1部第3章、33頁)。だから“丁寧の気持”または“卑下”を示す表現になるのだと(同33また34頁)。

 大修館書店の『レトリック事典』(大修館 2006年1月)には“擬物表現”についての条があるが、ここで私の言う擬物法とは異なるもののである。
 その“擬物表現”に続く「3-17-2 考察」において、所謂「自由の女神」は原の英語では"Liverty"であるものを、日本語では「自由の女神」と訳さねばならなかった、日本語と英語の「国語の抽象度」の違いが指摘されている(同書573頁)。

 ちなみに現代漢語では「自由女神」である。これはこれで別の角度から興味深い。

 王希傑『中国語修辞学』(修辞学研究会訳)には私の言う擬物法、『レトリック事典』の言う擬物表現=実体化表現ともに立項・記述がない。さらに『中国修辞学通史』シリーズ(吉林教育出版社)の手元にある巻(全5巻のうち1-3)にもない。「隋唐五代遼金元巻」韓愈項に私の引いた例文含め言及はない。

 目次をざっと眺めて、楊樹達編著『漢文文言修辭學』(原名『中國修辭學』)にもなさそうである。おそらくないだろう。この角度がないということは。例文自体は別の範疇で採られているかもしれないが、「人間を物扱いする」=擬物という修辞技法はここには設定されていない。その理由については、仮説を立てることができる







何度目になるのか、王希傑『中国語修辞学』(好文出版 2016年3月)を読む。・・・

2018年04月05日 | 人文科学
 何度目になるのか、王希傑『中国語修辞学』(好文出版 2016年3月)を読む。嘘偽り無知ゆえの言い間違いや勘違いその場しのぎのデタラメああいえばこういうの減らず口まですべて修辞と包括するその立場は、本書を漢語の枠を超えて人間の言語一般の“修辞学”をすら指向せしめている。
 そのなかで、“倒喩”とは、レッテル貼りのことだろう(本書404-406頁)。「本体と喩体を逆にする」、つまり通常「本体→比喩語→喩体」となる思惟の順序が、この倒喩では「喩体→比喩語→本体」となる。比喩は未知の事象を既知の事象に擬えて理解しようとする試みの思惟なのだが、これでは最初から結論が決まっていることになる。ほぼ思惟していない。つまりレッテル貼りである。これも修辞だというのである。ここまで来ると修辞とは何であり何のためにありいつどう使われるかということを根本から考え直す必要すら感じさせる。

王希傑著 修辞学研究会訳 『中国語修辞学』 (再読)

2017年05月01日 | 人文科学
 2017年03月12日同名項より続き。

 面白い。まず文言文と白話文の区別をしないところが面白い。新渡戸稲造の『武士道』を読んでいるかのようである。また、地口の類い(「品詞転換と返源及び蔵語としゃれ」)や、漢字を分解するほかの文字遊び(「拆字と拆語及び釈語と析語」)を、中国語における正規の修辞技法の一つとして数えているところも面白い。さらには、ああいえばこういう式の減らず口やその場しのぎの言い逃れ(「頓跌と曲説」)も、無知ゆえあるいはわざとの誤用や、知ったかぶりのマラプロピズムやデタラメ(「擬誤と存誤」また「象嵌と偏取」)も、立派な修辞技法であるとして数えているところが、とても興味深い。だが一番興味深いのは、弁証法を学ぶことが言語学ひいては修辞学を学ぶうえで最も大切だと総括しているところである(「結語 修辞学と弁証法」)。

 2017年5月11日追記。
 あれからひとつ判った。この書が取り上げる対象として文言文(古代漢語)と白話文(近・現代漢語)の区別をしないのは、文言文は中国の伝統的な修辞論、白話文は外来の西洋(語)修辞学の適用と、大きく二つに分断されている学問世界の情況を反省して、一貫しかつ漢語の内在的な論理と実際に即した漢語の修辞学を打ち立てようとするこの分野の研究者の意思の現れなのであろうと。

(好文出版 2016年3月)

王希傑著 修辞学研究会訳 『中国語修辞学』

2017年03月12日 | 人文科学
 出版社による紹介

 なかで使用される術語と概念に「釈語(释词)」というものがあって、「ある種の修辞効果を上げるために用いる語句解釈の方式で、語句本来の意義から偏差、逸脱し、それに寄せて自己の意見を大いに述べること」だそうである(第八章、337頁)。現代語の「釈詞」のこの用法を以て古文を観ると、『經傳釋詞』という書名などは、「ありがたい聖賢の教えの書かれた経典や古き良き時代の古典に記された事どもをダシに、そこに書かれた文章を自分に都合のいいように我田引水して解釈する」と読めてしまって苦笑する。だがもともと訓詁学というのは(清朝考証学でさえその癖を免れていない)そのようなものだと思うと、笑おうとして開きかけた口がふと閉じる。

 「析词」という用語もある。「析词」とは迂言法だろう。「析語(“析词”)とは語句を分析した後で、それに関係する、あるいは同等の言い方で代替することをいう。例えば、”眼睛裡流出来的那种液体”(目から流れてくるあの液体)で、“眼涙”の代替をする」(同章、339頁)。分析かつ/あるいは直接的でない言い換えのことであるらしい。(ただ続く以下の記述は留意すべきか。「析語は『提喩』(“借代”)の一種で、特殊な修辞技法である」(同上)。特殊かどうかはさて措くとして、これを提喩の一種と見なすのは興味深い。)
 これに関連して、韓愈と欧陽脩の古文とを比べてみると、後者は前者の文体を析詞した文体と評することができるだろう。粗っぽく言うと、韓が難解な一語やきわめて簡潔に数語で表現したことを、欧陽は平易な語に置き換えたうえでパラフレーズした観がある。では欧陽脩の作品は全編析語=提喩か?(妄想を逞しくして言う。)

(好文出版 2016年3月)

王希傑著 修辞学研究会訳 『中国語修辞学』

2016年12月19日 | 人文科学
 出版社による紹介

 面白い。まず文言文と白話文の区別をしないところが面白い。新渡戸稲造の『武士道』を読んでいるかのようである。
 次に、地口の類い(「品詞転換と返源及び蔵語としゃれ」)や、漢字を分解するほかの文字遊び(「拆字と拆語及び釈語と析語」)を、中国語における正規の修辞技法の一つとして数えているところが、面白い。
 さらに、ああいえばこういう式の減らず口や、その場しのぎの言い逃れ(「頓跌と曲説」)も、また無知ゆえのあるいは論点ずらしをするためのわざとな誤用と知ったかぶりのマラプロピズムやデタラメ(「擬誤と存誤」「象嵌と偏取」)も、立派な修辞技法だとして数えているところが、とても面白い。
 だが一番おもしろいのは、弁証法を学ぶことが言語学ひいては修辞学を学ぶうえで最も大切と総括しているところだ(「結語 修辞学と弁証法」)。

(好文出版 2016年3月)