ツイッターの「暇潰し」や「面白半分」は江戸時代の戯作の「うがち」と「ちゃかし」の末孫もしくは転生ではないか。中村幸彦「増補 戯作論」(『中村幸彦全集』第八巻所収)を読んでの着想。
卒論で沙陀部族のある人物を扱ったのだが、そのときは当方アホで気も付かなかったが、沙陀が地名で、自分の部族名もしくは集団名を、なんらかのゆかり(アイデンティティのよりどころ)がある地名から採るというのは、漢語的発想のようにも思える。
これは沙陀もしくは彼らが同心円で同胞と感じる周辺もしくは上位集団の文化的思考様式でもあったのか、それとも彼らが漢語世界と交渉するうちに多少とも漢化して(漢語を使用するようになったと言うくらいの意味)、そういう思考法を取るようになったのか、それとも彼らとは関係なく、記録する漢語世界のほうでそう、いわば勝手に彼らを“名づけ”(=世界を分節)たのか。
これは沙陀もしくは彼らが同心円で同胞と感じる周辺もしくは上位集団の文化的思考様式でもあったのか、それとも彼らが漢語世界と交渉するうちに多少とも漢化して(漢語を使用するようになったと言うくらいの意味)、そういう思考法を取るようになったのか、それとも彼らとは関係なく、記録する漢語世界のほうでそう、いわば勝手に彼らを“名づけ”(=世界を分節)たのか。