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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

西脇順三郎訳の『カンタベリ(-)物語』は、・・・

2018年07月03日 | 文学
 西脇順三郎訳の『カンタベリ(-)物語』は、冒頭の'General Prologue'がどうして「ぷろろぐ」になっているのか(驚)。「解説」ではご丁寧にも「総序」と漢字に訳したうえで「ぷろろぐ」とルビを振ってある(驚2)。筑摩書房刊。

ロシアの某SF作品を邦訳で読む。一人称の主人公が・・・

2018年07月03日 | 文学
 ロシアの某SF作品を邦訳で読む。一人称の主人公が「ぼく」であるべき理由が判らず(56歳で「ぼく」? しかもひらがなで? 私なら作中の言動から判断してたぶん「私」にする。「俺」は不適かと考える)、従ってその後の役割語がことごとくこれじゃない感をもたらし、逓増し果ては気持ちの悪さとなって苛まれることになった。

某中国古典小説の邦訳を読む。・・・

2018年07月03日 | 
 某中国古典小説の邦訳を読む。舞台は宋代、ただし白話(=口語)だから現代日本語で訳すのは納得。ただ「桌兒」を「テーブル」とカタカナ英語にまでして翻訳したのなら、「銅盆撞了鐵刷帚」を、「銅の盥と鉄のたわしの取っ組み合いってところね」とそのまま単語だけ置き換えるのは如何なものか(しかも「たわし」としながら片えは「たらい」ではなく「盥」と漢字に!)。意味もよくわからない。これは、「銅盆鐵帚」(お似合いの二人の意)という成語を踏まえた表現だ(しかもいま調べたら『水滸伝』が出典だそうだ)。「割れ鍋に綴じ蓋ね」と、私ならするところだが、「テーブル」と同じ文章では両者語彙または表現としての位相が違っていて使いづらい。平たく「お似合いの二人ね」とすべきか。それとも、「テーブル」を「桌兒」に戻し、「テーブル」はルビか割注にするか。いずれにせよもっとこなれた訳しようがあったろう。

薄田泣菫『茶話』をざっと見返して・・・

2018年07月03日 | 思考の断片
 薄田泣菫『茶話』をざっと見返して「演説の用意」、有名なウィルソン大統領の「十分間の演説の準備には二週間かかる」の話も慥かに面白いが、その前の話は更に面白く感じられる。「ゲエテだつたか、『今日は時間が無いから、仕方なく長い手紙を認める』と言つたが、これは演説にもまたよく当てはまる」