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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

二宮陸雄 『サンスクリット語の構文と語法』

2016年07月06日 | 人文科学
 2016年07月06日「J. ゴンダ著 鎧淳訳 『サンスクリット語初等文法 練習題,選文,語彙付』」より続き。


 5・・・・・・asti「~である」(繋辞)は省略されることが多い。
     その場合、述語が先行することがある。〔以下例文、省略〕
 6・・・・・・astiには(1)~である,(2)存在する,の2義がある。〔以下例文、省略〕
 (「繋辞」本書5頁)

 いまふと思ったが、『爾雅』の「悠,傷,憂,思也,懷,惟,慮,願,念,惄,思也」は、繋辞がないこともさることながら(古代漢語には繋辞自体が存在しない)、これは述語が先行している構文ではないのか。これは「思」という字の説明なのだから。そしてさらに思うのだが、古代漢文には、従来AB(AはBである)と解釈訓読されている文に、もしかして「BはAである」の文がまじっているということはなかろうか。

(平河出版社 1989年6月)
 

C. H. ドッド著 室野玄一/木下順治訳 『神の国の譬』

2016年07月02日 | 宗教
 おそらく譬は、ただ非ユダヤ的環境においてのみ、寓喩的に神秘化されたものと思い違いされたのであろう。ユダヤ人教師の間では、譬は一般的でよく了解されていた説明の方法であり、イエスの譬も形式においてはラビの譬と類似のものであった。それゆえ、なぜ彼が譬で教えたかという問題が起こったとは思われないし、なおさら、そんな当惑するような回答をうけとることもなかったであろう。これに反して、ヘレニズムの世界においては、寓喩的解釈を施して神話を用いることは、密教的教理の道具とされて、広く行きわたっていた。そしてこの種のあるものは、キリスト教の教師達の中にも見いだされるであろう。これが何ものにもまして、解釈を誤った線にもっていったのである。  (「第一章 福音書の譬の性格と目的」 本書18頁。下線は引用者、以下同じ)

 それでは、もしそれが寓喩でないとすれば、譬とは何であるか。それは、真理を抽象観念で考えるよりも、むしろ具体的な光景の中で見ようとする心の自然な表現である。  (同、19頁)

 寓喩=アレゴリー。

 もっとも単純な形では、譬は自然とか日常生活から取り出された隠喩 (metaphor) か直喩 (simile) で、聞く者達をその潑剌さや珍しさで捕え、それを的確に適用するに当たって心にかなりの疑惑をおこさせ、次第にそれを生きた思想にかえていくのである。  (同、19-20頁)

(日本基督教団出版部 1964年8月)

湯田豊 『ウパニシャッド 翻訳および解説』

2016年07月02日 | 哲学
 なんという分析的なことばであろう。
 そして、それと同時に、比喩が絢爛として用いられる。

 さて、神々は言語に対して言った――「われわれのために吟唱(ウドギータ)〔原文ルビ〕を歌え」と。「よろしい」と言って言語は彼らのために吟唱を歌った。吟唱を歌うことによって、それは言語の中にある効用を神々のために獲得した。 (『ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド』「第1章 3・2」 11頁)

 そしてさらに、AはBであると同時にBでないという、形式論理の観点から言えば矛盾律に外れる考え方もまたみられる。

 まことに、そこで彼が認識しない時に、まことに、彼は認識しているけれども、彼は認識しないのである。なぜなら、認識しているものの認識する能力の喪失は存在しないからである。
 (同上「第4章 3・20」 113頁)

(大東出版社 2000年2月)

ニーアル・ファーガソン著 仙名紀訳 『文明 西洋が覇権をとれた6つの真因』

2016年07月01日 | 世界史
 全体の論旨にはかならずしも首肯しないながら、次のくだりについては、我が意を得たりと膝を打った。

 非西洋諸国は、西洋が優位に立てた理由の方程式――つまり、私有財産の権利、法の支配、真の代議政治――を拒否した形のままで、西洋の科学的な知識だけをダウンロードして利益を得ることができると考えているのだろうか。 (「第2章 科学」本書173頁)

 これらが“真因”かどうかは私には判らないが、すくなくともこれらが西洋とそのもたらした近代国家という制度の、もしくは“近代”そのものの前提となっていることは確かだろう。その前提を否定して、なおかつ近代国家の枠組みを保とうとするのは不可能ではないかと、私は常々思っているのである。

(勁草書房 2012年7月)