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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

範疇論 (アリストテレス) - Wikipedia

2016年07月15日 | 抜き書き
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%84%E7%96%87%E8%AB%96_(%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9)

 第4章
 単語表現が意味するものは、

  「実体」(例:人間、馬)
  「量」(例:2ペーキュス、3ペーキュス)
  「質」(例:白い、文法的)
  「関係」(例:二倍、半分、より大きい)
  「場所」(例:リュケイオン、市場)
  「時」(例:昨日、昨年)
  「体位」(例:横たわっている、坐っている)
  「所持」(例:靴を履いている、武装している)
  「能動」(例:切る、焼く)
  「受動」(例:切られる、焼かれる)

 のいずれかである。

 第5章
 「実体」について。

  「第一実体」 - (第2章の4) (例:「特定の人間」、「特定の馬」)
  「第二実体」 - (第2章の1) (例:「人間」「馬」)

 また、

第1章

同名異義的(ホモーニュモン、希: ὁμώνυμον (homonymon)) - 名称だけが共通で、本質的定義が異なるもの。(例:「動物」という名称で呼ばれる「人間」と「像」[4])
同名同義的(シュノーニュモン、希: συνώνυμον (synonymon)) - 名称も本質的義も同じもの。(例:「動物」という名称で呼ばれる「人間」と「牛」)
派生名的(パローニュモン、希: παρώνυμον (paronymon)) - 語尾変化によって生じたもの。(例:「文法学」(γραμματική)から「文法家」(γραμματικός)、「勇気」(ανδρεία)から「勇者」(ανδρείος))


第2章
表現方法には、

結合無し(単語)による表現 (例:「人間」「牛」「走る」「勝つ」)
結合(文)による表現 (例:「人間は走る」「人間は勝つ」)

の2種類がある。

概念の内、あるものは、

ある「基体[5]」(主語)についての述語になるが、いかなる「基体」(主語)の内にも無い。(例:「人間」は、「特定の人間」(基体)の述語となるが、どの「基体」の内にも無い)
ある「基体」(主語)についての述語にはならないが、「基体」(主語)の内にある。(例1:「特定の文法知識」は、「霊魂」(基体)の内にあるが、いかなる「基体」(主語)の述語にもならない、例2:「ある特定の白」は、「物体」(基体)の内にあるが、いかなる「基体」(主語)の述語にもならない)
ある「基体」(主語)についての述語になると共に、「基体」(主語)の内にある。(例:「知識」は、「霊魂」(基体)の内にあり、「文法的知識」(基体)の述語となる)
ある「基体」(主語)についての述語にならず、「基体」の内にも無い。(例:「特定の人間」「特定の馬」)

(なお、上記の話は要するに、

「ある「基体」の述語になるか否か」によって、「種・類」と「個」が、
「なんからの「基体」の内にあるか否か」によって、「実体」と「非実体」(性質・量)が、

それぞれ振り分けられ、その組み合わせで作られた4分類であり、分かりやすくまとめると、

「実体」のカテゴリーにおける「種・類」
「実体」以外のカテゴリーにおける「個」
「実体」以外のカテゴリーにおける「種・類」
「実体」のカテゴリーにおける「個」

ということになる。)

第3章

「あるもの(A)が、基体(主語)としてのあるもの(B)についての述語となる関係にある」場合、その述語となるあるもの(A)について言われるものは、全て基体(B)に対してもあてはまる。(例:「特定の人間」(基体・主語、A)と「人間」(述語、B)の場合、「動物」は「人間」(述語、B)の述語となるので、「特定の人間」(基体・主語、A)の述語ともなる。)
「異なった「類」で、互いに他の下に配されない関係にある」場合、その「種差」も異なっている。(例:「動物」と「知識」の場合、「動物」の「種差」は、「陸棲的」「有翼的」「水棲的」「二足的」などによって表されるが、それらは「知識」の「種差」とはならない。)


佐藤信夫 『わざとらしさのレトリック 言述のすがた』

2016年07月15日 | 人文科学
 さて、くだんの太陽系の諷喩〔夏目漱石『それから』における〕は、その気になれば、たとえはなしではなく実話〔原文傍点〕によって語ることもできそうである。親爺(おやじ)と代助との関係を、なにも天体の話などにたとえなくても、文字どおり人間関係を語ることばで、実話として記述することも、いちおうできそうである。しかし、さて、ものはためしにこの一節をそういう直接のことばによって言いあらわしてみようとすれば、たちまち私たちは途方にくれる。そううまくいくほど言語は便利にできているわけではない、ということに思いあたる。そこで、あらためて、もし直接のことばですなお〔原文傍点〕に記述できるくらいなら漱石もはなからそうしていただろう、という、はなはだ間の抜けた当然の事実に思いあたることになる。 (「Ⅰ 漱石のばあい」“諷喩=アレゴリー 2”本書31頁

 その間の事情を、やや言語理論めいた用語にたよって言いなおしてみれば、たぶんこんなぐあいに説明できるだろう。すなわち、標準的な意味分節の標準的な構造化にあてはまらないような現実(もしくは虚構的現実)を、あえて構造化してみるひとつの手だては、別のカテゴリーに属する意味分節からその構造性を借用してみることである、と。そして、いずれにせよ認識とは現実の構造化(分けることによって分かろうとすること)にほかならないとすれば、既成の認識体制の微妙な交換――レンズの交換――としての《諷喩》は、ほんの少々でも冒険的な表現者にとっては《たんなる》レトリックどころではない、ほとんど不可欠のレトリックだということになる。安易な《いい気な》肉眼信仰――というより、肉言語信仰――を別とすれば、すなわち、所詮(しょせん)肉眼と言語は別のことがらだと覚悟するほかはないとすれば、肉眼にかわる多様なレンズの交換は、レトリックの問題である以上に、端的に《言語》の問題となる。 (「Ⅰ 漱石のばあい 2 アレゴリーと漱石と」“諷喩=アレゴリー 2”本書31-32頁。太字は引用者、以下同じ)

 《諷喩》においては、話の筋が二本並行して進行する、と説明することがいちおうはできる。伝統的に、諷喩はそう説明されてきた。一方は、たいていは暗示的にしか表現されない実情のものがたりであり、他方は言語化され表現されているたとえばなしである。一方は、《むなしい工夫》が次々と《挫折する》という実情であり、それに対して、他方は、「水の泡」が「拵へても、すぐ後から消えて行く」という隠喩の連鎖でわる。漱石自身のことばで言えば、「其(その)物に就ての出来事の序列」を「他の一組の出来事の序列」であらわす方法が、伝統的な意味での諷喩=アレゴリーであった。
 が、じっさいには、たいていのばあい、「其物に就ての出来事の序列」のほうはまだ序列化されていない。そういう分節以前=構造化以前のアモルフな世界に対して「他の一組の出来事の序列」を重層化させることによって、いわばその序列性を投影するこころみとして《諷喩》は成立するのであった。
 図式的に言えば、実態の世界においてあらかじめ成立している個々の分節単位に対して、諷喩の構成単位としての個々の隠喩が、一対一で対応するということではない。ときには、諷喩をかたちすくる隠喩たちは、実情の世界が対応しきれぬほどに、自己増殖をはじめるだろう。
 (「Ⅰ 漱石のばあい 2 アレゴリーと漱石と」“諷喩の自立性(あるいは自己増殖性)”本書34頁)

 言語は、現実に対してあまり忠実ではない。むしろ現実に対立して独立した存在を主張してしまう。諷喩とは、そういう言語に対立してさらに独立性を主張する別種の言語でもある。 (「Ⅰ 漱石のばあい 2 アレゴリーと漱石と」“反《随意性(アルビトレール)》”本書41頁)

(講談社 1994年11月)


文震亨著 荒井健ほか訳注 『長物志 明代文人の生活と意見』 全3巻

2016年07月15日 | 東洋史
 原文はこちら

 「俗である」と「使い物にならない」とがほぼ同義であるのは凄い。また「お話にならない」「いけない」ともなり、これはすなわち、「嫌い」ということである。『枕草子』7、『徒然草』3の割合で、両者を思いださせる。ただ清少納言や兼好法師と違うところは、自身の周囲の、いわば与えられた事物や情況に対して厭や好きを言うに止まるのでなく、 「こうすれば雅である、雅となる」と、己の置かれた環境に己が美だと思い定めるものを、自らの意思と力で作り出そうとする姿勢である。

(平凡社 1999年12月-2000年3月)

戸田山和久 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれてないサイエンス』

2016年07月10日 | 抜き書き
 推論は、「演繹」と「演繹でない推論」の二種類に分けることができます。〔略〕これにはさらに次の四種類があります。
 ①帰納法(induction)
 ②投射(deduction)
 ③類比(analogy)
 ④アブダクション(abduction)
  (「第Ⅰ部 科学的に考えるってどういうこと? 第4章 理論や仮説はそのようにして立てられるの? どのようにして確かめられるの?」本書88-89頁)

 いま非演繹的な推論を四つ挙げましたけれども、これらに共通する特徴は何でしょうか。二つ挙げることができます。一つは、これらの四つの推論はどれも蓋然的であるということです。〔略〕「蓋然的」というのは必然的じゃない、結論が必ず正しいとは限らないということです。
 (同上 93頁)

(NHK出版 2011年11月)

三浦佑之 『風土記の世界』

2016年07月10日 | 日本史
 『古事記』の「序」につき、後世偽作説を取っている。「第1章 歴史書としての風土記」、25-29頁参照。

 わたしは、天武の「削偽定実」と阿礼の「誦習」とによって行われたとする史書編纂の説明は、日本書紀の天武一〇年条を依りどころとして作られた後世の偽作であると見なすのである。 (本書28頁)

(岩波書店 2016年4月)

花房卓爾 「中国における諫争および諫争論の展開(一) 春秋時代の諫争(一) 臣下が行う場合」

2016年07月08日 | 東洋史
 『哲学』25、広島哲学会、1973年10月掲載、同誌94-118頁。

 2016年07月08日「小倉芳彦 「直諫の構造」」より続き。

 末尾「結論」に全篇の論旨が明晰に要約されている。(同誌23頁。文中の下線および〔〕内の注は引用者による。原文旧漢字、段落なし)

 すなわち、列国に宗族勢力を張る世族が王侯に対して行う諫争は、その宗族勢力を背景として、自国の宗法的秩序の安定もしくは回復を意図するものであり、したがって、世族は諫争を介してそれに背く君主を批判できた。 〔論点の1〕

 逆に、宗族勢力をもたないで君主に直属する臣下が行う諫争は、自身の安全を保障する君主の権力強化を意図するものであり、したがって、君主権強化の範囲で君主を批判できても、その限界を超える批判は許されなかった。 〔論点の2〕

 また、宗族内で族人が宗主に対して行う諫争も、宗主あるいは宗族勢力の強化を意図するものであり、したがって、宗主を批判することはできなかった。 〔論点の3〕

 さらに、家臣が主君に対して行う諫争も自己が直結する主君の権力強化を目指すものであり、したがって、主君を批判できなかった。 〔論点の4〕

 列国において、卿大夫が相互に行う諫争は、自己が帰属する宗族勢力の維持もしくは拡大を目的とするものであり、その力関係に従って被諫者を批判できる反面、被諫者も諫争を拒否できた。 〔論点の5〕 

 何の為の諫争かが書かれている(論点の1,2,3,4,5)。何に拠ってかも同様である。
 後者について、詳しく見ていくと、1および3,5は伝統また慣習に基づくものであり、2および4は君主個人の安泰のためである。
 ただ両者に共通するのは、目的(あるいは目標)も、基準(あるいは原則)も、究極的には己の安全と利益の保障という点である。であるならば、ここに指摘されたその諫争=批判の“限界”も、それは目的・目標もしくは基準・原則のゆえだったという著者の議論を、さらに突き詰めれば、諫争者(および/あるいはその属する宗族集団・家臣団)の安全と利益のゆえだったと言えはしないか。一言でいえば我が身の保全、保身のゆえである。つまりは他律的な限界ではなく、自己のみずから課した制限であったと。

夏目漱石著 櫻庭信之校注 『新装版 文学評論』

2016年07月07日 | 文学
 全篇話し言葉の講義原稿だが、自らの覚書のような、単語やアイデアをただ並べたようなところはひとつもなく、書き言葉として、それが一個の文として、また各編が一篇の文章として、そして各編のみならず全体としても完成している。講義者はこれをただ読みくだせば講義として完了するであろう。だがここまで完璧な原稿を事前に用意した漱石は、いざ現実の講義においてどうモチベーションを維持したのだろう。同じく講義を業とする者として深甚なる興味を抱く。

 今年は英文学史の十八世紀だけを講義するつもりであるが、講義を始めるまえにちょっとお断りをしておかねばならぬことがある。元来一世紀の文学と題するゆような大問題を捉えて論ずるにはこの問題をいかに取扱うかという覚悟がなければできんのである。しかしこの覚悟ができるにはそれ相応の準備がなくてはならぬ。単に空想や空理で文学史を組織するわけにはゆかぬのはむろんのことであって、まず研究の手始めとして批評なら批評、比較なら比較、または叙述なら叙述、いずれにしても十分な材料を貯蓄してかからねばならぬ。〔後略〕
 (「第一編 序言」本書21頁)

(講談社学術文庫 1994年11月)