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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

北川秀則 「中期大乗仏教の論理学」

2014年01月22日 | 人文科学
 『講座仏教思想』2「認識論・論理学」(理想社 1974年6月)、189-241頁。

 北川氏によれば、ディグナーガ以後の新因明の三支作法と形式論理学の三段論法は、三部分からなるという外見が似ているだけで、内実は全く違う論証式であるという。前者はものを直接あつかい、後者は名辞という概念の上に立ちその外延を扱うという根本的な構想の差。つかり、前者が「AにはBが存する」と言うのに対し、後者は「AはBである」と述べるのである。

 とすればであるが、中国にも『墨子』のような、三段論法や三支作法のようなアリストテレスの形式論理思考の伝統があったと唱えた清末民初の梁啓超胡適の主張は、まったく意味をなさないことになる。もっとも彼らの『墨子』の論理学部分の理解が孫詒譲の学説の受け売りであり、その孫の『墨子』のテキスト解釈に疑問がある時点で、すでにこの言説は成立しないのであるが。(呉毓江の『墨子校注』でも問題はそのままに残っており結局解決されていない)

 ところで中国に因明をもたらした玄奘三蔵の弟子で漢語で『因明入正理論疏』を著した慈恩大師窺規は、三支作法を基本的なところで理解できていなかった。彼は、「原因(質料因)は結果の中にあることもあり、ないこともある、そもそもそれは原因ではないかもしれない、結果ではないかもしれない」などと、無意味な調子だけの美文を、「同品定有性(媒概念不周延のルール)」の“注釈”としてかきしるしている。それどころか彼は、三支作法の三が、この論法が宗・因・喩の三命題から成るからであることすら理解できておらず、因と喩の下部分類であるところの同喩と異喩で三と思っていた。これはなぜだろう。窺規の個人的な資質の問題であるのか、あるいはそれ以上の理由があるのか。

 それに関連して事実して在るのは、中国仏教においては、知識の根拠やその妥当性について追究したインド論理学における認識論関連の書籍がまったく翻訳されていない事である。
 インド論理学を大成させたダルマキールティ(玄奘のすぐ後の人)は、人間の知識の成立する根拠を感覚と思惟(推理)のみとした。ところが中国の仏教僧は、ダルマキールティの論理学関連の著作をまったく翻訳・研究しなかった。

 この点に関し、インドの因明学者と中国の因明学者の決定的な違いは、中国の因明学者は、経典も経典たるだけの理由で根拠として数えた点である。中村元氏は、この違いの由ってきたるところを、経典に書いてあることはそれが経典にかいてあるかゆえに権威でありそれだけで真であり正であるという中国人の尚古主義のゆえであるとする(『中村元選集』2「シナ人の思惟方法」春秋社、1961年12月)。

ハイシッヒ 『モンゴルの歴史と文化』と Lattimore 『Manchuria: Cradle of Conflict』を並べて考えてみる

2014年01月21日 | 東洋史
 前者はこちら、後者はこちらにて既読。

 ハイシッヒ『モンゴルの歴史と文化』291-293頁における興味深い論点四つ。

 ①明初(14世紀)に大量のモンゴル人が中国内地に残留し、その後彼らが漢人社会にとけ込んでいったこと。
 ②もっともその漢人自体も、モンゴル帝国/元の支配を経験する中で、モンゴルの風俗や習慣に相当染まっていたこと。
 ③また歴史的に見れば漢人の方から農地を求めて進んでモンゴル人の領域へ移住していき、モンゴル人に同化してもいたこと。
 ④そして、それらとは一見相反するように思えるが、この混住と融合(しばしば対立を伴った)の過程で、漢人とモンゴル人の双方が自らの民族意識に目ざめはじめたこと(16世紀)。
 
 ③については、オーウェン・ラティモアも『Manchuria: Cradle of Conflict』で、熱河の雑居地帯におけるモンゴル人の漢化をめぐり同様の判断を下している。
 それだけではなく、ラティモアは、これらのモンゴル人を、モンゴル人が漢化したのではなく、古い時代にこの地に入植した漢人がモンゴル化したものと見なすのだ。ラティモアはさらに、この箇所の脚注において興味深い洞察を提示する。彼は、最近の30年間――本著は1932年出版であるから即ちそれは19世紀末乃至20世紀初頭以来のそれ――の、あらたな大量の漢人による入植の結果、これら久しくモンゴル人化していた漢人が再び漢人へと戻りつつあると主張する。つまり彼は、清末以来のモンゴル地域における所謂漢化の現象を、単純なモンゴル人の漢人への文化的・人種的な同化ではなく、すくなくとも部分的には、いったんはモンゴル人に同化されていた漢人が本卦がえりしつつある過程として見なしているのである。
 ハイシッヒやラティモアの主張が正しければとしてだが、こういった双方向の同化現象、つまり融合は、はたして新疆やチベットといった地域でも見られたのか。あるいはいま見られつつあるのか。見られるとして、その質と量は如何なるものか。
 
 

黄河にさかづきを浮かべる話

2014年01月21日 | 東洋史
 「濫觴(原義は『さかづきをうかべる』)」といえば『荀子』「子道」篇に孔子が「昔者江出於㟭山,其始出也,其源可以濫觴」と言ったとあるのだが、孔子はその生涯で長江を見たことなどあるのだろうか。河(黄河)か、あるいはせいぜい淮水までではないか。当時の河道は今と大層異なっているけれども。
 ちなみに「淮水」とは「淮という名の川」の意味である。いまは「淮河」などと言ったりするが、いつから普通名詞で「河」の字を使うようになったのだろう。5世紀初成立の『水経注』ではこんにちの「~川」の表記は「水」で統一されている(だから『水経注』という)。さらにちなみに、黄河の表記は「河水」、つまり「『河』という名の川」。
 維基百科「黄河」項によれば、「黄河」の語は『漢書』「地理志」常山郡元氏県条に見えるのが文献史料における最初の例とある(「釈名」条)。「沮水首受中丘西山窮泉谷,東至堂陽入黃河」。
 しかしこの「黄」は元々「河」の水流が黄色く濁っていることから付いた形容詞らしく、別に「河」の字が普通名詞化したからではなさそうである。しかし公孫龍ではないが「黄河」は「河」に非ず、更に逆も亦真なりで、以降「河」は「水」と通用するようになったのかもしれない。

中野操 『大阪蘭学史話』

2014年01月21日 | 日本史
 決して郷土史ではなく、大阪から見た日本蘭学史なのだと思った。『解体新書』の出版で濫觴は江戸に20数年遅れるものの、その後の関西の蘭学は関東の後塵を拝するものではなかったから。その基礎を据えた橋本宗吉(なかに懇切な伝がある)は偉大なという感想。
 また、蘭方医を志した緒方洪庵がまず入った大阪の中天游塾で『暦象新書』を学んでいたことを知る。その造詣は、彼がのち坪井信道のもとでさらに研鑽を積むべく江戸へと出た時に、木更津において土地の医者や文化人を相手に同書の講義を行ったほどのものであった。
 また山片蟠桃麻田剛立から西洋天文学(注)を学んでいたことに改めて気づかされる。彼の非常な合理主義的態度(『夢の代』に端的に現れるところの)は、西洋科学(緒方洪庵の弟子である福澤諭吉流に言えば「数理学」)の影響と見るべきであろうか。

 。麻田の天文学は中国明代の天文学の著作『崇禎暦書』に基づくとウィキペディアにあるが、この書自体が、当時の西洋天文学を編訳したものであった。

(思文閣出版 1979年3月)

付記
 麻田剛立は中井履軒・竹山の兄弟とも交際があった。履軒の極めて実験主義的色彩の濃い「理」解釈は麻田の影響であろうかと、これも先学の指摘をかつて受けながら脳裏に残っていなかったものを、あらためて注意を喚起された次第。履軒がティコ・ブラーエの天文学説を支持したというのは(ウィキペディア同項)、あきらかに麻田の影響であろう。麻田の天文学は中国明代の『崇禎暦書』を基礎にしていたが、この書は西洋天文学を編訳したものであり、そこで説かれているのはティコ・ブラーエの説である。履軒は懐徳堂の全盛期を体現し、後に続くその学風を定めた存在とされる。とすると、懐徳堂は少なくとも彼以後、近代西洋学術および思想の影響下にあったことになる。

 

稲雄次 『佐藤信淵の虚像と実像 佐藤信淵研究序説』

2014年01月19日 | 日本史
 佐藤信淵がその生涯で実際に手腕を振るったのは綾部藩の藩政改革のみである。これは成功しなかった。施した政策も過去の改革にある定石通りのもので、彼が著作で主張したような、いわば独創的なものではなかった。宇和島藩からは諮問役といったふうの待遇を受けていたが、藩邸や藩地に招かれたこともなく、藩主にお目見えを許されたこともなかった。家中の者を入門させ、彼らを通じてその学説を学ばせるのみの関係であった。彼が著書で述べる自身の「家学」や己の華麗な経歴はほとんどが嘘であった。そして最も致命的なことに、彼の主張はそのための現実的な条件に欠け、基本的に机上の空論であり、たとえ採用されても実現不可能であった(彼の弟子となった宇和島藩の家臣が実験してみてそれが証明された)。
 しかし著者は彼の蹉跌と不遇の原因を、彼が「東北の一辺の土民の子」であったことと、江戸時代の身分制度の硬直性に求めている(233-234頁)。

(岩田書院 2001年3月)

高崎直道 「Ⅰ 東アジア仏教思想史――漢訳仏教圏の形成」

2014年01月19日 | 東洋史
 『岩波講座東洋思想』12「東アジアの仏教」(岩波書店 1988年6月)、3-31頁。
 百丈懐海(西暦814年卒)が中国で初めての禅院規則『百丈清規』を定め、唐朝での仏教のあまりの流行に憤った韓愈が「論仏骨表」を時の皇帝憲宗に奉った(819年)時代の唐は、西方に目を転ずれば、764年以来、敦煌をはじめとする河西回廊が848年まで吐蕃の支配下にあった時期でもあった。
 755年の安史の乱に乗じて763年に都長安を一時的にはあるが占領した吐蕃は、その後唐の領土を東から西へと侵食し、764年以降、河西回廊を併呑してゆく。最後に敦煌が降服して回廊全域が吐蕃領土となるのが786年である。そこでも仏教が栄えていた。「佛者夷狄之一法耳(仏は夷狄の一法のみ)」という激烈極まる表現で始められる韓愈の上書の背景に、当時のこの"大状況”は関わりはないか。
 そして845年の会昌の廃仏もまた。
 高崎氏の指摘によれば、会昌の廃仏の後、中国の仏教各派が軒並み壊滅的打撃を受けるなか禅宗が教勢を維持できたのは、インド本来の仏教の戒律に反して清規で僧の生産活動を奨励し自給自足の体制を取っていたからだという(本書23頁)。
 懐海はなぜ、そのような内容を含む清規を、その時に定めたのか。
 韓愈の「論仏骨表」が出ている時期とほぼ重なるといういわば"小状況”を考えると、先を見越しての保険かという気もする。

上山大峻 「3 敦煌――中国文化との接点」

2014年01月19日 | 地域研究
 『岩波講座東洋思想』11「チベット仏教」(岩波書店 1989年5月)、「Ⅲ チベット仏教思想の特質」同書376-394頁。

 西暦786年から848年に至る吐蕃領有中の敦煌では、暦は干支(十二支のみ)で示された。月は春夏秋冬それぞれを初中末に分けて十二か月を表した(チベット式)。国号は「大蕃」(注)となり、漢文文書では吐蕃王を皇帝として扱った(「聖顔」「聖情」等の語の使用。例えば曇曠『大乗二十二問』786年?)
 60年を超える長い吐蕃支配の間に、敦煌の漢人には漢語・チベット語のバイリンガルが育っていった(漢語仏典のチベット語への翻訳者、またチベット語仏典の写経者の署名に漢名が見える)。そして唐との交通が途絶したこともあり、その筆記道具も筆ではなく、チベット文字を書く木筆となった(中国から輸入できなくなった為)。

 。「大蕃」は「大吐蕃」の略か。国号を二字ではなく一字にするために?

池田信夫 「ケネディ駐日大使の自民族中心主義」

2014年01月19日 | 政治
 『池田信夫 blog』2014年01月19日11:55

 このようにキリスト教=普遍的真理と信じ、世界にすぐれた文明を伝道すると信じる自民族中心主義が、植民地支配やベトナム戦争(それを始めたのは彼女の父親だ)を生んだのだ。いまだにその罪を自覚していない人物が、日本に内政干渉する資格はない。

 池田氏はまた、ツイッターでこの話題に関連して、「昔は奴隷も殺してOKだったからね。自分がいつも世界の中心だと思っているのがキリスト教のバカなところ」と仰っている。
 確かに、こういう捉え方または言い方では儒教もしくは中華思想と変るところはない。どっちもどっちということになる。しかし私は、両者の間には相対的な差が一つ、絶対的な差異が一つはあると思う。

森安孝夫 「《シルクロード》のウイグル商人 ソグド商人とオルトク商人のあいだ」

2014年01月18日 | 東洋史
 『岩波講座世界歴史』11「中央ユーラシアの統合」(岩波書店 1997年11月所収、同書93-119頁)

 モンゴル時代のウイグル商人について。もしくは西ウイグル人・仏教徒時にキリスト教徒ウイグル人について、じつに興味深く、勉強になった。西ウイグル(天山ウイグル)人がウイグル人ならカルルク人はウイグル人ではなく、カルルク人(カラハン朝でもよいが)がウイグル人なら西ウイグル人はウイグル人ではないということが著者の意図とは関わりなくよくわかった。「新ウイグル(いまのウイグル人)は偽ウイグル」とは、こういうことか。

冨谷至 『中国義士伝』

2014年01月18日 | 東洋史
 「節義に殉ず」という副題が表紙の表題にのみ付いている。
 蘇武(前漢)・顔真卿(唐)・文天祥(南宋)の生涯において示される「節義」の研究。
 蘇武の節義は武帝個人への忠義であり、それは武帝からの信頼に基づくものだった。
 顔真卿の節義は知識人=社会の指導者としての自覚であり、その自覚に伴う義務感と責任感と、その地位と知識とを代々担う一族の一員であるという意識に拠っていた。
 文天祥の節義は科挙進士科合格者としての、しかも第一位の状元というプライドであり、その責任感と義務感に基づくと共に、その地位をもたらした体制への絶対的支持肯定感とそれを脅かすものへの不屈の抵抗精神のなせるわざだった。
 これが著者の分析である。

(中央公論新社 2011年10月)