これも、前項と同じく過去の書評の再掲(2002年9月4日欄)。目的も同じ。
>引用開始
人間は言語によって現実の世界を分節し言語によって経験をまとめる、したがって言語が違えば認識・思考・世界像も違うというのが言語的相対論である。ベンジャミン・リー・ウォーフ(1897-1941)はこのもっとも尖鋭な主張者であった。
彼は、当時の言語学において暗黙の前提であったところの、西欧語を基準にした他言語の分析と評価を、真っ向から否定した。彼は、言語学の背景にある西洋的思考やその基礎にある文化は、単なる一価値体系にすぎず、なんら全人類に共通する価値ではないとしたのである。
その証拠としてウォーフはポーピ語を挙げる。このネイティブ・アメリカンの言語においては「時間とか速度とか質料といった西欧社会で行われる様々の一般概念が、整然とした宇宙像を構成するのに何ら必要欠くべからざるものとされていない」(160頁)。
“われわれはflash(きらめく)という動作が行われる場合もit(それ)とかlight(光)という動作主を立て、it flashed(きらめいた)とか a light flashed(光がきらめいた)と言わなくてはならない。しかし、きらめくことと光は同一のものである。ポーピ語ではきらめきはrehpi(きらめく、きらめきが起る)という単一の動詞で伝えられる” (185頁)
“現代の科学は西欧の印欧語を強く反映しているが故に、われわれ自身が現によくやっている通り、状態と認める方がふさわしいと思われるような場合にも動作や力を認めるということをする” (185頁)
“西欧文明は言語を通じて現実の予備的な分析を行ない、それを正そうとすることもなく、最終的なものであるかのごとくその分析に執着するのである” (186頁)
ウォーフの主張を、当時の西欧中心主義的風潮への警鐘という目的で誇張されたものだとする意見がある。あるいは師のサピアならばそうかもしれないが、このような意見はまさに、西欧文明と価値に染まった人間が、「現実の予備的な分析を行ない、それを正そうとすることもなく、最終的なものであるかのごとくその分析に執着する」態度の現れでは無かろうか。
ウォーフはそんな所に留まっていない。極北の地にまで達してしまっている。
“印欧語やその他の多くの言語では、二つの部分から成り立つ文型にきわめて目立った地位が与えられている。この二つの部分はそれぞれ名詞と動詞という違った部類に基づいて構築され、それらの言語ではそれぞれに違った文法的な扱い方を受ける。(略)この区別は自然から由来するものではない。それはすべての言語は何らかの種類の構造を持たなくてはならないという事実から生じた結果であるに過ぎず、これらの言語ではたまたまこの種の構造を旨く利用するようになったということなのである。ギリシャ人、とりわけアリストテレスは、この対立を構成化し、理性の法則ということにしたのである。その時以来、この対立は、論理学では、主語と述語、行為者と行為、ものとものとの間の関係、対象とその属性、量、作用、といったさまざまな形で述べられてきた。そしてさらに文法に則って、これらの部類のもののうちの一つはそれだけで存在しうるが、動詞という部類は他の部類、すなわち「もの」の部類に属するものをひっかかりとしないと存在できないという考えが定着するようになった” (181頁)
ウォーフは、西欧言語の世界像のもとである「ユークリッド的」もしくは「ニュートン的」空間認識は普遍性をもつものではないとした(138頁および142頁の注12)。さらに、“機械主義的な考え方(注・西欧の論理のこと)は、「平均人民」が日常西欧の言語を使う際に自然と使われる統語論の一つのタイプに過ぎず、それがアリストテレスと中世および現代における彼の信奉者によって固定化され強化されたものにほかならない”(174頁)と断定するのである。
これはつまり、帰納と演繹は全人類に普遍的な思考形式ではないといっているに等しい。
>引用終わり
基本的に、チョムスキーの意見と対立するところの、言語的相対論。
(講談社 1993年4月)
>引用開始
人間は言語によって現実の世界を分節し言語によって経験をまとめる、したがって言語が違えば認識・思考・世界像も違うというのが言語的相対論である。ベンジャミン・リー・ウォーフ(1897-1941)はこのもっとも尖鋭な主張者であった。
彼は、当時の言語学において暗黙の前提であったところの、西欧語を基準にした他言語の分析と評価を、真っ向から否定した。彼は、言語学の背景にある西洋的思考やその基礎にある文化は、単なる一価値体系にすぎず、なんら全人類に共通する価値ではないとしたのである。
その証拠としてウォーフはポーピ語を挙げる。このネイティブ・アメリカンの言語においては「時間とか速度とか質料といった西欧社会で行われる様々の一般概念が、整然とした宇宙像を構成するのに何ら必要欠くべからざるものとされていない」(160頁)。
“われわれはflash(きらめく)という動作が行われる場合もit(それ)とかlight(光)という動作主を立て、it flashed(きらめいた)とか a light flashed(光がきらめいた)と言わなくてはならない。しかし、きらめくことと光は同一のものである。ポーピ語ではきらめきはrehpi(きらめく、きらめきが起る)という単一の動詞で伝えられる” (185頁)
“現代の科学は西欧の印欧語を強く反映しているが故に、われわれ自身が現によくやっている通り、状態と認める方がふさわしいと思われるような場合にも動作や力を認めるということをする” (185頁)
“西欧文明は言語を通じて現実の予備的な分析を行ない、それを正そうとすることもなく、最終的なものであるかのごとくその分析に執着するのである” (186頁)
ウォーフの主張を、当時の西欧中心主義的風潮への警鐘という目的で誇張されたものだとする意見がある。あるいは師のサピアならばそうかもしれないが、このような意見はまさに、西欧文明と価値に染まった人間が、「現実の予備的な分析を行ない、それを正そうとすることもなく、最終的なものであるかのごとくその分析に執着する」態度の現れでは無かろうか。
ウォーフはそんな所に留まっていない。極北の地にまで達してしまっている。
“印欧語やその他の多くの言語では、二つの部分から成り立つ文型にきわめて目立った地位が与えられている。この二つの部分はそれぞれ名詞と動詞という違った部類に基づいて構築され、それらの言語ではそれぞれに違った文法的な扱い方を受ける。(略)この区別は自然から由来するものではない。それはすべての言語は何らかの種類の構造を持たなくてはならないという事実から生じた結果であるに過ぎず、これらの言語ではたまたまこの種の構造を旨く利用するようになったということなのである。ギリシャ人、とりわけアリストテレスは、この対立を構成化し、理性の法則ということにしたのである。その時以来、この対立は、論理学では、主語と述語、行為者と行為、ものとものとの間の関係、対象とその属性、量、作用、といったさまざまな形で述べられてきた。そしてさらに文法に則って、これらの部類のもののうちの一つはそれだけで存在しうるが、動詞という部類は他の部類、すなわち「もの」の部類に属するものをひっかかりとしないと存在できないという考えが定着するようになった” (181頁)
ウォーフは、西欧言語の世界像のもとである「ユークリッド的」もしくは「ニュートン的」空間認識は普遍性をもつものではないとした(138頁および142頁の注12)。さらに、“機械主義的な考え方(注・西欧の論理のこと)は、「平均人民」が日常西欧の言語を使う際に自然と使われる統語論の一つのタイプに過ぎず、それがアリストテレスと中世および現代における彼の信奉者によって固定化され強化されたものにほかならない”(174頁)と断定するのである。
これはつまり、帰納と演繹は全人類に普遍的な思考形式ではないといっているに等しい。
>引用終わり
基本的に、チョムスキーの意見と対立するところの、言語的相対論。
(講談社 1993年4月)