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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

山田慶児 「朱子の宇宙論」

2014年01月17日 | 東洋史
 『東方学報 京都』37、1966年3月、41-151頁。
 朱子は、少なくとも宇宙論に関する限り、孔子の「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ」の教えを守れていなかった。行って見てきたのか。弟子たちとの対話のなかで、談論風発、つい脇が甘くなったのかもしれないが。

『史記』「貨殖列伝」「貪賈三之,廉賈五之」の解釈について宮崎市定説と通説とを比較する

2014年01月16日 | 東洋史
 テキストは維基文庫から。
 宮崎市定『史記を語る』(岩波書店 1979年5月)は、同書巻109「貨殖列伝」の「貪賈はこれを三にし、廉賈はこれを五にす(貪賈三之,廉賈五之)」を、「貪賈が(資本回転を)三回する間に、廉賈は五回する」という資本回転を言ったものだと解する。従来の注釈では三割の利益、五割の利益を得ると解するがそれは間違っているというのである。
 滝川亀太郎『史記会注考証』で、この箇所について諸家の注を確かめてみた。そこに引かれる『漢書音義』は、結論は通説どおりだが、その結論へ至る過程の認識が異なる。貪賈は利を焦ってかけ売りかけ買いをするから結局実利益が少なくなるという理屈である。それに対して廉賈は高ければ売り、安ければ買うから堅実に利益を得ると。
 どちらが正しいかは判断できない。漢数字が「回数」(~度くりかえす)を意味することは確かに実例もあり、私も同意する。しかし「割合」(十分の~割とする)の意味では絶対に用いないという確証はここにはないからである。


『史記』「項羽本紀」「馬童面之、指王翳曰、此項王也」の「面」の解釈について

2014年01月16日 | 東洋史
 前項で名の出た小島祐馬「中国文字の訓詁に於ける矛盾の統一」にも、樋口靖「いわゆる“反訓”について」にも、この「面」についての言及はないが、通常、これは反訓だとされている。「(面と)向かう」ではなく「顔を背ける」意味だと説かれる。だが、それを唱える『史記集解』の注(張晏と如淳)には論拠がない。
 『漢書』にも項羽の伝がある(「陳勝項籍伝」)。中華書局版の『漢書』を開いてみるとこの書に注釈をつけた顔師古もまた此処に注しているが、反訓に取っている。根拠として「面縛」の面があるではないかとその論拠としている。
 『史記』では「宋微子世家」にこの語の使用例がある。
 しかしこの「面縛」は、二字である。一字語と二字語を一緒くたにしている点でまずおかしくはないか。比較として、果たして妥当といえるかどうか。
 それはさておくとしても、なるほど『史記集解』の「面は背である」という反訓説は、「背く」と「背中」とを字が同じだからいう理由でこれを反訓であるとする顔師古の粗雑な論法よりも説得力はあるだろう。だが、「面縛」とは、「両手を後ろ手に縛って顔をあたりに隠すことなく曝させる」という意味のようなので(『史記索隠』の解釈、例によって根拠はないが私も原文を読んでそう解釈した)、この「面縛」という語はそもそも「面」の反訓の証拠にはならないのではないか。「面と向かって」という意味は「面」本来の語義のうちにあるからだ。

樋口靖 「いわゆる“反訓”について」

2014年01月16日 | 東洋史
 『駒沢大学論集』 5、1976年3月、17-31頁。

 これまで幾度も読み返してきた、反訓についての古典的な論考小島祐馬「中国文字の訓詁に於ける矛盾の統一」では、反訓をもつ漢字は、互いに矛盾する存在を一字のなかで総合統一しているのであり、この点から見れば両者(本義と引申・反訓義)の違いなどないと説明する。しかしこの理屈は分かりにくい。言葉遣いがというべきかもしれないが。
 私は、「弁証法」などとという難しいことを云わずとも、ある語が主客を含んだ一つの動作あるいは全体としての状況を表す時に、場合によって一見正反対の語義が示されると考えればいいのではと考えていた。たとえば、「商取引をする」という根本義をもつ「市」という漢字が、ときに「うる(売る)」と訓ぜられ(解釈され)、ときに「かう(買う)」となるように。
 しかし樋口氏は、反訓などというものは存在しないと言われる。同じ発音で反対の意味を持つ別の語(ことば)を同じ文字で表記したから(仮借)、そう見えるだけだというのが、それだけではないせよ、その主張の根拠の大きな一つとなっている。

広瀬典 「大蔵永常 『農具便利論』 序」

2014年01月15日 | 日本史
 テキストは国立国会図書館デジタル化資料(原漢文)。
 以下、冒頭部分の訓読。

  天下の朴なる者は農に若くは莫し。而して華なる者は文に若くは莫し。今、農の為に謀らんと欲して文に求むる有らば、乃ち其の事と其の意と相い左(たが)うこと無きか。

 非常に面白い。農業を考えるのに高踏的で現実とは離れた理屈を説く学問や、詩文の出来不出来に専ら心を砕く文学の世界に答えを求めるのはお門違いだと言うのである。彼は「そんなものは必要ない」とまで言っている。なんとなれば、

  雨ふれば笠し、晴れるれば蓑つけ、首低く尻高く、野雀の粟を啄むが如く、独り一頃の田を耕す。固より文に仮りること有る無くして足る。

 からだ。広瀬は言う。農業には農業の理(“物の理”)の窮めかたがあり、そのためにはおのずと必要とされる知識も手段も異なってくる。必要なのはそういった事を研究し、学び、他者に伝える学問である、と。広瀬典(蒙斎)という人物は儒者である。それも昌平黌を出た、筋目からいえば正統的な朱子学者なのだが、所謂道学者というよりは学祖の朱熹その人に近い、かなり実際的で柔軟な視野と思考を持った人間だったようである。
 以上、大蔵永常という人もその著と生涯をとりあえずざっと観たかぎり相当に面白い人物だと感じるが、まずは「序」の広瀬に惹かれて。

服部正明 「ヴァイシェーシカ学派の自然哲学」

2014年01月14日 | 自然科学
 『岩波講座東洋思想』5「インド思想 1」(岩波書店 1988年3月)所収、同書171-196頁。
 インドの原子論はふるくはジャイナ教に見られる由。非常に興味深い。
 「これ以上分割不可能」でありながら、地・水・火・風の四元素の性質(香・味・色・可触性)を具える。しかもこの世に存在するものは霊魂と非霊魂にまず大別され、後者は物質のほか、運動の媒体・静止の媒体・虚空に分かれるというのである。
 原子が構成する、すなわち形体を持つのは、このうちの物質のみである。しかしほかの四種も実在とされる。
 ジャイナ教のこの考えは、ヴァイシェーシカ学派にも受け継がれた由。

野間文史 『春秋学 公羊伝と穀梁伝』

2014年01月12日 | 東洋史
 「野間文史 『春秋の三伝入門講座 第四章 公羊伝の思想〔上〕』」より続き。
 私にとり春秋公羊伝は非常に読みにくいのだが、その理由がすこし分かった。
 公羊伝は、章学誠のような、衆と異なる特異な頭の回り方をする人間が大本の構造を考え出したのだろう。穀梁伝は公羊伝を批判するべく生まれたという側面があるようだが、敵の構造を都合が良い場合は認めるという処、その姿勢は現実的で、公羊伝に比べると感覚が尋常である性格がより強い。
 野間氏も注意されているが、公羊伝は「尊王」であり穀梁伝は「尊周」なのである。言い換えれば、前者があるべき“天王”と封建制度を別の空間もしくは未来に希求するのに対し、後者は過去に存在した周とその体制を擁護する(そして恐らくは現在の漢という国家を)という根本的な立脚点の差がある。
 ――ならば左氏伝は何如?

(研文出版 2001年9月)

文天祥「正気歌」を読んで藤田東湖、吉田松陰、広瀬武夫の同名の詩に至る

2014年01月09日 | 思考の断片
 文天祥「正気歌」

 上掲文天祥の原作を読み返してみれば、その「正気」とは、冨谷至先生も『中国義士伝』で注意されるように『孟子』の云うところの昔ながらの「浩然の気」である。そして私が見るところ、その序文は朱子学流の理気の気に対する正しき気(浩然の気)の勝利を宣するものとして解釈できまいか。

 藤田東湖「正気歌」

 文天祥に倣った藤田東湖の「正気歌」は、気の理解が孟子風の“こと”ではなく朱子学の“もの”にやや傾きすぎかという気がしないでもない。もっとも文天祥のオリジナルにもその気味は多少ある(とくに最初の四句「天地有正氣、雜然賦流形。下則為河嶽、上則為日星」の処がそう思える)。

 吉田松陰「正気歌」

 吉田松陰の「正気歌」は、冒頭句を「天地に正気有り」ではなく原典たる『孟子』通りに「天地に正気塞つ」としている所で明確に意思表示されていると思うし、内容がもの(物質)ではなくこと(人の行為)を謳っているので、気の指す所はまさに浩然の気そのままという印象を受ける。

 広瀬武夫「正気歌」

 広瀬武夫の「正気歌」になると、正気は浩然の気でもなくはた理気の気でもなく、日本的に翻訳された「正義」、本文中でも使われているが「日本魂(大和魂)」、もしくは単に「根性」の同意語かとすら。

 以上、おおざっぱな感想として。

顔真卿 「駮吏部尚書韋陟諡忠孝議」

2014年01月09日 | 東洋史
 (テキストは維基文庫から)

 「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず(忠孝不並。已為孝子,不得為忠臣;已為忠臣)」を、「出處事殊(出ずる処の事異なり」としてその後論理的に証明してある。

 求忠於孝,豈先親而後君;移孝於忠,則出身而事主。所以叱馭而進,不憚危險,故王尊而忠臣;思全而歸,恐有毀傷,故王陽為孝子。

 忠を孝に求むるや、豈に親を先にして君を後にせんや。孝を忠に移さば、則ち身を出して主に事う。以て馭を叱して進み、危険を憚らざる所、故に王尊は忠臣なり。全きを思いて帰り、毀傷有るを恐れたる、故に王陽は孝子なり。

 。王尊と王陽はどちらも前漢の人。→参照『漢書』巻76王尊伝、またこちらにある崔元孫の故事