書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

鎌田慧 『自動車絶望工場』

2013年04月18日 | 現代史
 いまごろ繙いている。初めてである。良い本だと思う。ノンフィクション、ルポルタージュとして。美点も欠点も、強さも弱さも、賢さも愚かさも兼ねて持つ人間が、過酷な環境下でどう生き、振る舞い、感じ、考えるか、あるいは考えないかが、自然に描写される。
 思想が先にあってそれで裁断するのではなく、過酷でしかも単調な仕事に住持する人間が受ける物理的・精神的歪みがそのまま捉えられ、描き出される。宮崎駿監督がジブリの長期取材を希望した荒川格NHKディレクターに、まずこれを読んでから来いと言ったはずだ。

(現代史出版会 1973年12月)

大塚康生 『作画汗まみれ 改訂最新版』

2013年04月18日 | 芸術
 『カリオストロの城』(1979年)のアフレコ現場で、最初横柄な態度を取っていた故・山田康雄がラッシュを見たあと態度を一変させて非礼を謝ったという逸話は、この本が出所なのだが、文庫化にあたり増補改訂版を経てさらに加筆修正されたこの版でも、そのまま残っている。(ウィキペディアの同項で、その場にいた小林清志氏が「そんな記憶はない」と言っているという記述が、これも出典つきで示されている。)
 好きかと言えばそれはやや違うのだが、『龍の子太郎』(1979年)は、他のアニメ映画とちょっと異なる雰囲気と世界で、一見以来忘れられない作品である。監督の浦山桐郎が単なるお飾りの地位に収まらず原画やレイアウトチェックに至るまで自ら手を染めていたことを知る。

(文藝春秋 2013年4月)

宮崎聖明 「宋代『対移』考 地方官監察・処分制度の実態」

2013年04月18日 | 東洋史
 「第一章 対移処分制度の確立過程」で引用する方勺『泊宅編』巻二の「不称職者」は、「職に称せざる者」ではなくて、「職に称(かな)わざる者」ではないのか。“職務不適格”という意味であれば。

  仕有不稱職者,許郡將或部使者兩易其任,謂之「對移」。(『維基文庫』所収『泊宅編』巻二より)

  仕に職に称わざる者あれば、郡将或いは部使者がその任を両易するを許す。之を「対移」と謂う。

 とでも訓読すべきところであろう。訓読は半分翻訳だから、その漢字の読みを機械的に当てはめるのではなくて、意味に合った訓を選ばねばならない。称という字(動詞としての)には、大別して「呼ぶ」と「つりあう」の、二つのまったく違う意味があって、元来漢語としては発音も別である。「称する」と読むのは前者の訓読(というよりただの日本語漢字音での音読)である。ここの「称」は後者の意味だから「かなう」と訓まねばならない。ついでにいえば、冒頭の「仕」は、「仕えること」「仕える場所」の名詞であって、宮崎氏の解したような「仕えて」つまり動詞ではない。名詞(形式上の主語)+動詞「有」+目的語(意味上の主語)の構文だから。
 この論文は、私の知らないことが書いてあって、とても有用であったが、論文そのものについては、これくらいしか言うことがない。

(『史学雑誌』122-3、2013年3月、342-366頁)

アニーシモフ 『18世紀中葉におけるロシアのヨーロッパ外交』

2013年04月17日 | 西洋史
 原書名:Анисимов М.Ю.- Российская дипломатия в Европе в середине XVIII века.

 まさにタイトル名のとおりで、それ以外の地域は出てこない。個人的に中央・東アジアにたいするそれが少しでもでていないかと期待したのだが。
 ただし、対オスマン帝国外交は、あった。この時期両者の緩衝地帯となっていた(主としてオスマン帝国側からみてロシアとの)クリミア・ハン国についても、専門研究書を引いての言及あり。

(М: КМК, 2012.)

ウィリアム・ヒントン著 加藤祐三/赤尾修訳 『鉄牛 中国の農業革命の記録』

2013年04月17日 | 東洋史
 決して中国一辺倒ではないし盲目的な礼賛でもない。新中国の革命の大義には思想として強い共感と支持を示しつつ、日頃接する個別具体的な中国人と目に直面する中国の諸現実については、生活する一個人としての感覚や職業人(技術者)としての経験と感想に基づく具体的な理由に基づき、これは美点、これは欠点と、そのつど賛否の判断を仕分けている。

Hinton then worked for the United Nations as a tractor-technician, providing training in modern agricultural methods in rural China. When the communist party liberated the province in which he was working in 1948, he asked to join the university-staffed land reform work team in the village of Long Bow on the outskirts of Changzhi. By 1948, his then-wife Bertha Sneck had also joined him in China.

Hinton spent eight months working in the fields in the day and attending land reform meetings both day and night, and during this time he took careful notes on the land reform process. He assisted in the development of mechanized agriculture and education, and mainly stayed in the CPC-ruled northern Chinese village of Long Bow, forging close bonds with the inhabitants. Hinton aided the locals with complicated CPC initiatives, especially literacy projects, the breaking up of the feudal estates, ensuring the equality of women, and the replacement of the imperial-era magistrates that governed the village with councils in a symbiotic relationship with the landed gentry class. Hinton took more than one thousand pages of notes during his time in China.


(from Wikipedia, "William Howard Hinton", 'Experiences in China')

(平凡社 1976年11月)

中見立夫編 『境界を超えて 東アジアの周縁から』

2013年04月15日 | 地域研究
 再読して、回族の民族認定が若干特殊視されていることにあらためて気が付く(中見「序章」本書29頁)。そして漢族についても理由は違えど、同様の疑問が呈されている、「ひとつの『民族』としてとらえうるものなのか、その根拠は判然としない」(同上)と。どちらも「中国における『民族』の概念と範囲」の「独特さ」の例として引かれる。

(山川出版社 2002年4月)

劉正愛 『民族生成の歴史人類学 満洲・旗人・満族』

2013年04月11日 | 東洋史
 専門家の電羊齋氏による懇切的確な紹介があるので、ここでは贅言しない。地方の駐防八旗が使用していた第一言語にして自他を区別する標識の一つが、北京話(旗下話)だったことを知る。
 駐防地旗人の子孫の間では、譜単(現存者を除く族譜)すら漢語(文言文)で書かれている場合があるとのこと。この著書ではその譜単を「ジュズ zhuzi」と呼ぶとある(226頁)のだが、この表記漢字不明の「ジュズ」(正確にはチュツ?)は、まさかカザフ語のジュズと関係はあるまい(笑)。
 冗談はさておき、同じくこの研究書で教えられたこと。福建に駐屯した旗人の中には、雍正時代には既に満文・満語ができなくなってきている者がいたらしい(水師旗営)。その状況を憂えた雍正帝が福州の清文書院から満洲語教師を派遣して教えさせたが、日常漢語を母語とする彼らには上達は無理だった由(本書299頁に内容を引く『琴江誌』)。
 それとも、ここは漢人八旗の駐屯地だったから、最初から満文満語ではなく漢語(旗下話)が母語もしくは第一言語だったのか。

(風響社 2006年3月)

渡辺信一郎 『北朝楽制史の研究-『魏書』楽志を中心に』

2013年04月11日 | 東洋史
 2013年02月26日「瀧遼一著 増山賢治解説『中国音楽再発見 歴史篇』」より続き。

 中国南北朝最後の王朝にして南北を統一した隋の鼓吹楽は、曹魏六朝期の中国化した鼓吹楽をあらため、北魏鮮卑系の楽曲に由来する北狄楽を中心に再編されたものだという。
 それは「西魏・北周の権力基盤を継承し、権力のはるかな根源が鮮卑・北魏に由来することを意図的に歌い上げ、その政治文化を権力中枢に位置づけるものであ」ったからだというのが著者の結論である(「第一部 天下大同の楽 隋の楽制改革とその帝国構造」「第四章 北狄楽の編成 鼓吹楽の改革」本書70頁)。
 音階(律呂)の変化はわかるが、旋律やリズムは中国楽と北狄楽はもとどう違い、またどう変化したのだろうか。

(平成16年度~平成19年度科学研究費補助金 基盤研究C 研究成果報告書2008/2)