書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

黄遵憲著 実藤恵秀・豊田稔訳 『日本雑事詩』 

2005年01月19日 | 東洋史
 前々からこの著者の『日本国志』全40巻(1887年)を一読しようと思いつつ、果たしていない。  
 「清末における中国人の手になる日本研究書としてもっとも優れたもの」というのが、平凡社『アジア歴史事典』「日本国志」欄における評価である。  
 『日本国志』は中国の洋務派もしくは中体西用論の代表的著作というのが定評らしい。だが黄遵憲の思想は、たとえばこの『日本雑事詩』においては「ヨーロッパの学問はつまるところ墨子の学である」(「学校」の自解)などとしつつも、「およそ西洋の精緻なものは、みなわが国の書から出たとはいえない。ただわが国がその端緒を開き、彼がついに委細をきわめたので、その長じた技は師としなくてならぬ」(同)というところ、洋務派はもとより中体西用論の埒内にさえ必ずしも留まっていないようである。彼は後年、康有為や梁啓超などの変法派を支持したが、その行動をうなずかせるものがここに見える。ともあれ、『日本国志』をそのうち読んでみたいものだ。

“黄遵憲の日本研究は、その後の多くの中国人の研究のように、げんざいの日本事情を研究するだけではなかった。黄遵憲は日本の歴史からはじめて、あらゆる方面のことを研究した。(略)かれは、日本のすべてのことを「日本国志」にかきまとめようと決心した。その大事業の完成までには、よほどの時間を要する、という見とおしから、まず日本の概略を印象的に書きあげたのが、「日本雑事詩」で、これは着任後二年あまり、一八七九年にかきあげた” (「解説」) 

 清の外交官として維新後ほどない明治初年(明治10-12年・1877-79)の日本に滞在した著者の日本観には、日本人は徐福の子孫であるという、現在からみればいかにも中華思想的な偏見と思えるものもないではない(「三種の神器」)。だが当時の日本の知識人のなかにはみずから日本人は呉の泰伯の子孫であると名乗ったりする者もいた。だからこれは別に黄遵憲の“限界”となどというべきものではない。そんな時代だったのである。限界というならそれは時代そのものの限界であろう。  
 黄遵憲の本領はむしろ、彼がときに見せる、時代ばなれした物の見方の自由さにこそあるのではないか。  
 この『日本雑事詩』のなかに「統計表」という詩がある。「統計表」である。日本にあって中国にないものだからと統計表を題に採って詠んでいるのだが、眼の付けどころが破天荒である。そして詩に付された著者の説明を見れば、統計表自体はもちろん、その背後にある統計学的思考や、さらにその根底をなしている厳密な数の観念そのものが中国人に乏しいということを指摘するためであることが、一目瞭然なのだ。  
 また例えば「豊臣秀吉」という詩の自解、「日本人は昔の日本が我が国に朝貢した事実をみとめたがらないのはおかしい。しかし、中国人の側がこの事実をことさらに大げさにとりあげて日本を属国視しているのもまた問題である」という発言も、偏狭な愛国主義や民族主義の囚われのない柔軟で平明な精神のもちぬしにしてはじめて言えることであろう。「わが国の士大夫の足跡は日本にいたらず、いたるものがあっても、その国の本は読まない。だから、ひどいあやまりがあるのは、あたりまえである」(「結尾」)になると、今日の話ではないかと錯覚してしまう。アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』など、「足跡が日本にいたらず」「その国の本は読まない」「だから、ひどいあやまりがある」に、そのまま当てはまるからである。それとも今日の中国では日本研究の一般的水準や、日本という良くも悪くも永遠の隣国を理解しようという中国人の意欲が、黄遵憲の時代以前に逆戻りしているということなのだろうか? 

(平凡社 1980年初版第三刷)

 ▲趙紫陽氏が死去した。私は趙紫陽という人物はあまりに理想化・偶像化されていると感じていた。“真正の民主主義者”なら共産党に留まっていたりするまい。胡耀邦氏失脚前後の行動など、あまりほめられたものではないだろう。嵐のごとき趙紫陽賛美の追悼文やら声明やらには党派的や政治的な動機ありやなしや。

 ▲NHKの従軍慰安婦番組をめぐる報道を見て。
 1. TBSはオウムに番組ビデオを前もって見せたことで坂本弁護士一家の殺害に関して検証番組を作る必要などなかったということである。
 2. 女性国際戦犯法廷に弁護士がいないというのは嘘だと、それこそ真っ赤な嘘を平気でついてまで、このリンチショーを擁護しようとする輩がいる。今回森元首相を弁護人として呼んだというのだが、それがもし本当なら、法廷側は自分たちの日頃の主張を自分で否定したことになる。弁護人を被告につけるのは近代になってからのきまりにすぎず、裁判に不可欠という考え方には何ら根拠はないというのが民衆法廷の基本的立場のはずだからだ(2004年10月3日欄参照)。民衆法廷とはそんな適当な代物だったのか。しかも今回は呼んだということは、それまでの法廷では弁護人はいなかったということではないか。これでごまかせたと思っているならよほど人を舐めている。