書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

岡崎てる 「従兄秋水の思出」 から

2011年03月20日 | 思考の断片
 2011年03月14日「幸徳秋水全集編纂委員会編 『幸徳秋水全集』 別巻1」より続き。

 幸徳家は代々薬種商と造酒商を営み、町役人を勤めてゐた。何でも先祖は京都の幸徳井家といふ陰陽師の家の次男坊が何かわけがあつて、浪速の都から中村へ移つて来たのださうである。兄〔秋水〕は平民主義だとか無神論だとかいふけれど、その生活は昔風なキチンとしたもので、その時々の先祖祭などもキチキチ行ふし、こうした先祖の家柄も決してナイガシロにはしなかつた。この先祖の話も私が後に兄の口づから聞かされたことで、わざわざ大阪下寺町でその先祖の墓所を探してお千代姉(兄の妻師岡千代子)と共にお参りしてきたさうだ。唯物論者秋水の一面に、かかる所のあつたことは見逃されないであらう。 (『幸徳秋水全集』別巻1、210頁。原文旧漢字)

 この回想は第二次世界大戦後に書かれた(昭和22・1947年12月出版、社会経済労働研究所編『幸徳秋水評伝』伊藤書店、所収)。よって大日本帝国下で乱臣賊子として処刑された幸徳秋水の残された一族の一人として、自他を弁護するために書かれたものとは考えにくい。その必要はもうないのであるから(『日本国憲法』は同年5月3日に施行されている)。
 現に、岡崎てる本人も、末尾(「十、あとがき」)で、自分には社会主義や無政府主義の是非はわからない、自分が知っているのは兄がいかに親思いであり弱い者に篤かったかということだけだ、と記している。
 思想においては進歩的・破旧的・普遍的でありながら日常の立ち居振る舞いが案外というか極めて伝統的、さらにいえば土俗的・郷土的であったのは、師であった中江兆民にも見られる特徴である。(さらに遡れば中江の尊敬した、横井小楠から乱臣賊子になるなと忠告されたといわれる坂本龍馬もそうであり、あるいはさらにその坂本が属した土佐勤王党というものの性質に関わってくるのかもしれないが、それはここでは論じない。)
 私の秘かな推測は、田中正造をして秋水を信じさせたのは、秋水の持つこの伝統的な一面――あるいは人としての折り目正しさといってもいいかも知れないが――ではなかったかということである。
 参考になるのは、秋水は、当時の保守派言論人の巨峰というべき三宅雪嶺とも良好な関係にあったということである(同じく同書収録の高嶋米峰「哲人雪嶺と大逆秋水と僕」)。秋水は1871年、雪嶺は1860年年生まれであるから、田中正造(1841年生まれ)の場合と同じく秋水のほうが年下であり相手に兄事する立場にあった。その関係は、死刑判決後、秋水は、おのれの人生「最後の文章、生前の遺稿」のつもりで書いた「基督抹殺論」に、獄中から雪嶺の序文を乞うたということで窺うことができるであろう。雪嶺は、中江兆民はおろか福澤諭吉さえ「商売人」と呼んで嫌ったほどの、いわゆる国粋主義の人であった。
 その雪嶺は、秋水の請いを快諾し、「序」を書き上げた。人づてにその文章を手にした秋水は、「雪嶺先生の一言は僕の臨終にとりこの上ない引導だ」、「十分の歓喜、満足幸福をもって成仏する」と、この回想の筆者高嶋米峰への手紙に書いてきたという(ちなみに高嶋は秋水とは『萬朝報』以来の同志であった。さらにちなみに、この回想も戦後になってから、昭和26・1951年に出版されたもので、大逆秋水やその関係者としてのおのれの弁護の必要はまったくなくなった時代に書かれたものである)。 
 三宅は、のち、秋水を「志士仁人」と評した由。秋水が志士仁人であれば、雪嶺もそうであり、田中もまた、いうまでもなくそう呼ぶに値するであろう。答えが出たような気がする。そういえば大逆事件死刑執行直後の徳富蘆花も秋水を「志士」と呼んでいたことを、いまさらに思い出した。