書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

後藤基巳 「『天主実録』」

2014年08月20日 | 東洋史
 後藤氏著『明清思想とキリスト教』(研文出版 1979年7月)所収、同書177-198頁。もと『天主実録』(明徳出版社 1971年10月)の「解説」として執筆、収録されたもの。

 マテオ・リッチがカテキズムを漢語(文言文)で著した『天主実義』を執筆した理由は、その前に出たルッジェリの同じく漢文による教理問答書『天主実録』が、仏教の語彙用語をもってカトリックの教義を説いていたために、これを除くためと、それから『天主実録』が儒教に関して無関心でまったく配慮するところが無いので、補綴の必要があるとリッチが判断したためだという(同書184頁)。
 さらに後藤氏によると、自身儒教経典を読みこんでラテン語に翻訳するなど儒教への造詣が深かったリッチは、宋学以前の原始儒教の「上帝」に人格神の性質が強く、キリスト教の神(天主)と重なる部分があることに気づき、上帝=天主という論法を用いることで中国における布教の利便を考慮したとする(同、190-191頁)。
 なおこの論考では『天主実義』の文体についても言及がある。

 この書物はなるほど明代風の漢文で書かれてはいるけれども、決して典雅流麗な名文であると称しがたい〔略〕。 (「『天主実義』」177頁)

 時にはオーソドックスな漢文法から桁はずれの珍妙な句法や、漢文としては耳慣れぬ生硬な熟語――私はこれを利瑪竇的造語と呼ぶ――も飛び出してくる。 (同)