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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

『北京大学版 中国の文明』 3 「文明の確立と変容(上)」

2017年03月01日 | 地域研究
 出版社による紹介

 魏晋時代の玄学者たちは、自然世界は独立して存在していることの価値と意義を明確に認識し、自然的規律たる「自然の理」はまず自然世界そのものから生まれたと考えました。 (「第五章 魏晋の玄学 第三節 自然と名教」(本書316頁)

 彼らは自然の理の根源性に関する考察を、超自然的造物主と宇宙創生の普遍的法則に関する先秦道家や董仲舒の考察から、自然の事物そのもののの生成・発達・死滅の法則に関する考察へと方向転換させました。
 (同上)

 後半部分も重要だが、前半は、これは大変なことを言っていると、私には思える。個人的には跳びあがるほど驚いている。大冊で詳しいとはいえ、概説本だから仕方がないけれど、この理解と記述に至る論拠となった史料と具体的箇所が示されていないのが非常に残念である。

(潮出版社 2015年7月)

Kansai University Repository: 佐藤トゥイウェン 「ベトナムにおける 『二十四孝」』と字喃文献」

2017年02月28日 | 地域研究
 『東アジア文化交渉研究 東アジア文化研究科開設記念号』2012年3月掲載、同誌243-262頁。 テキストはこちら

 ベトナムの“孝”あるいはそれに相当するベトナム語語彙は。中国におけるそれとは倫理の体系における重要度や順位、ひいては意味においてことなるところがあるのではないか、それについての言及はここにあるかという問題意識で読んだ。残念ながら題名が示唆するように専門的に書誌学的な研究で、これらの点については触れるところはなかった。

「沖縄、黙殺される痛み 風俗の女性に見た日本の縮図」 『朝日新聞デジタル』

2017年02月19日 | 地域研究
 http://www.asahi.com/articles/ASK2F755KK2FUCVL02D.html

 〔上間陽子教授は〕沖縄での暴力から浮かび上がるのは、「他者の痛みに対する日本社会の感受性の欠如だ」と語る。

 女性の多くに共通するのは「社会に対する信頼感の低さ」だという。

 「手を差し伸べてもらえないことを悟っているから、助けも求めない。同じ境遇の他者に対しても、「自己責任だ」という冷たい視線を向けるし、他人に対して不寛容。(上が下に強いるのではなく)下からの自己責任とでもいうべきことが、社会の一番厳しい層で起きていることを、私たちは黙殺し続けている」


 ここには沖縄=日本という前提が存在する。ゆえに女性達がそこに生き、著者が女性たちへのこういった扱いを指摘する沖縄の「社会」は日本の「社会」となり、著者を含む沖縄社会の「私たち」の「感受性の欠如」は「日本社会の感受性の欠如」となる。では、日本本土(あまり好きな言葉ではないが)で類似の状況があるなら、それは沖縄県民の責任になるのだろうか。

劉知幾著 増井経夫訳  『史通』

2017年02月15日 | 地域研究
 わかりやすい。わかりやすぎることに懸念を抱く。現代日本語として間然するところがない。唐人の劉知幾が私のような現代日本人とおなじ概念と語彙表現で思考著述していたはずはないのである。清の浦起龍『史通通釈』で読んだときはもっと判りづらかった。

(平凡社 1966年3月)

付記
 浦起龍の『史通通釈』だが、読み返してみて同書に対する意見が変わった。『史通』「雑説中」に「馬遷持論,稱堯世無許由;應劭著錄,云漢代無王喬,其言讜矣。」とあって、増井先生は上掲の訳書で以下のごとく訳しておられる。「司馬遷は堯の世に許由がいたという話を決して信じてよいことととは書いていないし、応劭も前述のように漢代に王喬がいたとは言っていないので、これが正しいことなのである」(275頁)。ここは劉知幾の思考の時代離れしている箇所で、日本語訳もこのとおりだと思う(もっとも原文どおりもっと直裁でもよかったとさえ思っている。どちらも「いなかった」と)。ところが同じ箇所に浦起龍が注して、「司馬遷は(許由が)存在しなかったと結論づけてしまっているわけではない(史公亦非遽以為無)」などと、原文にない躊躇のニュアンスを付け加えている。断言を怯むのは注者が怯んでいるだけの話であり、テキストとは何の関係もない。注や解釈は原典をダシに注釈者がおのれの夢を懐疑的に語るためにあるのではない。


松戸清裕 『ソ連という実験 国家が管理する民主主義は可能か』 

2017年02月11日 | 地域研究
 出版社による紹介

 ソ連は本当の社会主義国家ではない、だから実験そのものが存在しなかったとときに主張する「マルクス主義経済学の立場など」に対し、著者は、「政権にとっても人々の多くにとってもソ連が社会主義国家だというのは自明だった」のであり、「歴史家は嫌悪しようとしまいと忘れ去る権利を持たず、説明するあらゆる義務を負う」と、最初に釘を刺している。「まえがき」および注1(367頁)。

(筑摩書房 2017年1月)

東文選(とうもんぜん)とは - コトバンク

2017年01月27日 | 地域研究
 https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%87%E9%81%B8-1189321

 李朝前期に編まれた朝鮮漢文学の集大成。15世紀末~16世紀初めに徐居正ら当代の学者たちによって編纂された。正・続に分かれ,総154巻45冊という膨大なもの。古代から15世紀にいたるまでの代表的な詩と散文等がジャンル別に,年代順に収録されている。文学史上貴重な文献であるばかりでなく,政治,経済,思想史分野の研究等にとっても資料的価値が高い。1960年代,韓国では多くの学者たちの手でハングルによる国訳本が刊行された。

 国立国会図書館デジタルコレクションで活字本を読めることがわかった。維基文庫にも一部入っている。

Басня — Википедия

2017年01月27日 | 地域研究
 https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%91%D0%B0%D1%81%D0%BD%D1%8F
 2017年01月26日「Притча — Википедия」より続き。

  Басня — стихотворное или прозаическое литературное произведение нравоучительного, сатирического характера. В конце или в начале басни содержится краткое нравоучительное заключение — так называемая мораль. Действующими лицами обычно выступают животные, растения, вещи. В басне высмеиваются пороки людей.

 これに続けて、ロシアでは18世紀中頃から19世紀初めにかけて新しく興った文学ジャンルとある。
 さらに、

  Басня — один из древнейших литературных жанров. В Древней Греции был знаменит Эзоп (VI—V века до нашей эры), писавший басни в прозе. В Риме — Федр (I век нашей эры). В Индии сборник басен «Панчатантра» относится к III веку. Виднейшим баснописцем нового времени был французский поэт Жан Лафонтен (XVII век). (下線は引用者)

 古くはイソップの作品がその先例(の一つ)と言うからには、これはまさしく「寓話 parable」である。ロシアには外来のジャンルだったこともこれで分かる。

Притча — Википедия

2017年01月26日 | 地域研究
 https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9F%D1%80%D0%B8%D1%82%D1%87%D0%B0

  Владимир Даль толковал слово «притча» как «поучение в примере».

 «притча»とは普通、「寓話」と日本語で訳される。ではロシア語によるその正確な定義は何か。

  Притча — короткий назидательный рассказ в иносказательной форме, заключающий в себе нравственное поучение (премудрость). По содержанию притча близка к басне.

 内容においてбасняに近いとある。これはつまり、形式においては異なるということである。そして«басня»もまた通常、日本語では「寓話」と訳される。だがロシア語においては両者は形式はおろか内容においてさえ正確には異なる二つのものということになる。

西尾哲夫 『言葉から文化を読む アラビアンナイトの言語世界』

2017年01月25日 | 地域研究
 出版社による紹介

 とても面白かった。『コーラン』のアラビア語は、「当時の人びとが日常的に話していたアラビア語そのものではな」いそうだ(23頁)。これは話し言葉と書き言葉の違いといった次元の問題ではなく、そこで使われているのは「カーヒン(巫者)やシャーイル(詩人)とよばれていた人たちが、宗教的伝説や詩や物語などを語り伝えるときに使った一種の社会方言だった」(同上)という。粗雑な比較だが、中国孔子の時代の“雅言”を想い起こさせる。――ではカーヒンやシャーイルといった人びとは、当時のアラブ世界において、どのような社会的な地位を占めていたのだろう。尊敬されていたのか、それとも卑しめられていたのか、あるいは一種方外の扱いだったのか。

(臨川書店 2015年8月)